生前、母が大事にしていた日本人形がある。
絹の着物は、渋い紫の濃淡の縞。
黒のきいた幅広の帯を締め
心持ち前かがみになって
もの思わしげに立っている。
うっすら綿を入れた裾を長くひき
だらりの帯はやや無造作に。
髪はふっくら結い上げられて
華奢な両手はそっと前に。
人形はある日突然
金沢の家にやってきた。
車を持つ知り合いに母が頼んで
隣県の生家に残してきたものを
わざわざ運んでもらったのだという。
着いたばかりの人形は
その地味な色合いもあって
子どもの私の目には
ちょっとやつれて見えた。
詐欺に遭って借金を抱え
経済的には苦しかったはずのその時期に
母は、大きなガラスのケースを注文して
人形を中にそっと納めた。
和室の床の間の上で
人形もほっとしたように見えた。
「きれいだね」と私が言うと、母は頷いて
「女学校の頃作ったんよ」
こんなもの、どうやって作るんだろ・・・
というような顔を私がしたのだろう。
母はもう一度
「着物も自分で縫って着せたし
帯ももちろん、自分で結んだ」
「髪も?」
「もちろん。自分で結ったの」
「・・・こういう髪型って、なんて言うの?」
母はちょっと考えて
「つぶし島田のうちかなあ」
髷は細い藁束のようなもので結んであって
かんざしなどはなく、鼈甲の櫛と笄だけ。
帯の後ろの形も、たれの下がり具合が独特で
私には、どちらも母の「創作」に見えた。
その後、母が人形のことを
特に口にすることはなかった。
けれど、子どもの私は時々
畳の上にペタンと坐って
ガラスの中の人形を見ていた。
きらびやかなところが全く無くて
うりざね顔に、切れ長な目をやや伏せて
ひっそりと立っている人形が
私は、いつも好きだった。
モダンなデザインが元々好きで
機能的・合理的な考え方を優先し
ズケズケ言いたいことを言い
自分の気分で周囲を猛烈に振り回す
あの母が作った・・・というのが
ちょっと不思議な気がしたけれど。
晩年、母は自分が亡くなった後のことを
私たちに色々言い残そうとした。
「必要な書類や大事なものは
ここにまとめてあるから・・・」とか
「お世話になった誰それさんには
こういう風にお礼をしてね」とか。
私は長年、遠くで暮らしていて
数年に一度しか会えなかったからだろう
顔を合わせる度に、母は私に
同じ言葉を繰り返した。
その後も時は流れ・・・
元気な母に会った最後のときのこと。
四方山話をしていたら、母はふと
「葬式も何もしなくていいから
ただ、お骨は私の故郷のお墓まで
持って帰って」
面倒なこと頼んで悪いわね・・・と
妙に殊勝な顔をしながら、付け足すように
「お棺にもなにも入れなくていいから。
ああ、あのお人形だけ入れて頂戴」
私はちょっと驚いた。
母があの人形を気に入っているのは
子どもの頃から知っていたけれど
そこまでとは思っていなかったのだ。
「わかった。あれだけ入れるね」
母は安心したように頷いた。
それなのに・・・
2年後の母の急逝に際して
あの人形を棺に入れてあげることは
私は、結局できなかった。
人形のことなど思い浮かばないような
突然の訃報だった。
私は、ただ呆然としていた。
遺骨は義兄が母の故郷に持ち帰り
お墓に納めてくれた。
あの人形がその後どうなったのかは
わからないままになっている。
人形があった母の家も
壊されて今はない。
それでも、今も折にふれて
私はあの人形を思い出す。
憂いを帯びた顔立ち。
もの想わしげな佇まい。
私にとっては「憧れ」そのものの
大好きだった「お人形」だけれど
母にとっても、「理想の美」を作り上げた
誇らしい作品・・・だったのだろうか。
思い出すたび、母が傍にいるような気がする。
絹の着物は、渋い紫の濃淡の縞。
黒のきいた幅広の帯を締め
心持ち前かがみになって
もの思わしげに立っている。
うっすら綿を入れた裾を長くひき
だらりの帯はやや無造作に。
髪はふっくら結い上げられて
華奢な両手はそっと前に。
人形はある日突然
金沢の家にやってきた。
車を持つ知り合いに母が頼んで
隣県の生家に残してきたものを
わざわざ運んでもらったのだという。
着いたばかりの人形は
その地味な色合いもあって
子どもの私の目には
ちょっとやつれて見えた。
詐欺に遭って借金を抱え
経済的には苦しかったはずのその時期に
母は、大きなガラスのケースを注文して
人形を中にそっと納めた。
和室の床の間の上で
人形もほっとしたように見えた。
「きれいだね」と私が言うと、母は頷いて
「女学校の頃作ったんよ」
こんなもの、どうやって作るんだろ・・・
というような顔を私がしたのだろう。
母はもう一度
「着物も自分で縫って着せたし
帯ももちろん、自分で結んだ」
「髪も?」
「もちろん。自分で結ったの」
「・・・こういう髪型って、なんて言うの?」
母はちょっと考えて
「つぶし島田のうちかなあ」
髷は細い藁束のようなもので結んであって
かんざしなどはなく、鼈甲の櫛と笄だけ。
帯の後ろの形も、たれの下がり具合が独特で
私には、どちらも母の「創作」に見えた。
その後、母が人形のことを
特に口にすることはなかった。
けれど、子どもの私は時々
畳の上にペタンと坐って
ガラスの中の人形を見ていた。
きらびやかなところが全く無くて
うりざね顔に、切れ長な目をやや伏せて
ひっそりと立っている人形が
私は、いつも好きだった。
モダンなデザインが元々好きで
機能的・合理的な考え方を優先し
ズケズケ言いたいことを言い
自分の気分で周囲を猛烈に振り回す
あの母が作った・・・というのが
ちょっと不思議な気がしたけれど。
晩年、母は自分が亡くなった後のことを
私たちに色々言い残そうとした。
「必要な書類や大事なものは
ここにまとめてあるから・・・」とか
「お世話になった誰それさんには
こういう風にお礼をしてね」とか。
私は長年、遠くで暮らしていて
数年に一度しか会えなかったからだろう
顔を合わせる度に、母は私に
同じ言葉を繰り返した。
その後も時は流れ・・・
元気な母に会った最後のときのこと。
四方山話をしていたら、母はふと
「葬式も何もしなくていいから
ただ、お骨は私の故郷のお墓まで
持って帰って」
面倒なこと頼んで悪いわね・・・と
妙に殊勝な顔をしながら、付け足すように
「お棺にもなにも入れなくていいから。
ああ、あのお人形だけ入れて頂戴」
私はちょっと驚いた。
母があの人形を気に入っているのは
子どもの頃から知っていたけれど
そこまでとは思っていなかったのだ。
「わかった。あれだけ入れるね」
母は安心したように頷いた。
それなのに・・・
2年後の母の急逝に際して
あの人形を棺に入れてあげることは
私は、結局できなかった。
人形のことなど思い浮かばないような
突然の訃報だった。
私は、ただ呆然としていた。
遺骨は義兄が母の故郷に持ち帰り
お墓に納めてくれた。
あの人形がその後どうなったのかは
わからないままになっている。
人形があった母の家も
壊されて今はない。
それでも、今も折にふれて
私はあの人形を思い出す。
憂いを帯びた顔立ち。
もの想わしげな佇まい。
私にとっては「憧れ」そのものの
大好きだった「お人形」だけれど
母にとっても、「理想の美」を作り上げた
誇らしい作品・・・だったのだろうか。
思い出すたび、母が傍にいるような気がする。
「葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きる
ひとときがある」
私の母は「少女を生きる」ような可愛らしさを
あまり見せなかったと、長い間思ってきましたが
今となると、そういう「ひととき」もあったな・・・としみじみします。
こういうお歌を知ると、「葉桜」を見るたび
母を思い出しそうです。
(ピンクの桜より葉桜の緑を好きそうな人でした)