流寓の肩寄せ合ふか浮寝鳥 鵠士
流寓(りゅうぐう)を辞書で引くと、放浪して異郷に住む事、住むべき所が無くてあちこちさすらう事などとあります。その上で水鳥が水辺に肩を寄せ合う情景を想像すると、切なく淋しい感情がこみ上げて来ます。主宰がこの句を詠まれたのはロシアのウクライナ侵攻が始まる以前かと思われます。しかし今の時点でこの句を観賞すると、戦士として戦う夫や息子を残し、女性、子供、老人だけが最低限の荷物を携えて国境を越え、隣国に逃れるウクライナの人々の事がどうしても頭をよぎります。深い惻隠の情を呼び起こす一句です。
寒月の兎よここへ来て眠れ 鵠士
冷たく冴える冬の月。その月に浮かぶ兎を思い描き、凍えているならばここへ来て一緒に眠りなさいよと、優しく語り掛けています。この句からも「流寓の」の句と同様に、不幸な境遇にいる人をいたわる心が深く感じられます。エンジン部の「兎よここへ来て眠れ」だけでは意味が不十分ですが、上五「寒月の」というハンドル部が付くことで、呼びかけて優しく誘う一句が立ち上がって来たと思います。
まほろばに住めば都の春寒し 鵠士
「まほろば」は、美しい自然に恵まれたすばらしい所の意。「住めば都」は、どんなに劣った所でも住み慣れればそれなりに住み良く思われるという常套句。「まほろばに住めば都」と繋がると、ちょっと矛盾を抱えた肯定の表現と思われます。しかし「まほろばに住めば都の春寒し」と詠めば、さらに屈折して否定の味わい(=反発)が付加されます。一筋縄では詠まれていない、俳諧味のある一句だと感じました。
若狭にてお水送りをしたるらむ 鵠士
「お水送り」に似た表現の「お水取」をイメージしながら歳時記を引くと、「若狭のお水送り」という長い季語に出会いました。東大寺二月堂で行われる「お水取」の水の水源は福井県小浜市にある事を知り、改めて季語の世界の奥深さを感じました。若狭ではお水送りの行事が済むと春が来ると言われ、奈良ではお水取が終わると本格的な春が来ると言われるのも、平和な時代ならではの響き合う調和の世界を感じます。また、下五「したるらむ」の現在推量「今頃は~しているだろう」の助動詞の使い方にも学ぶところがあると思います。
流寓(りゅうぐう)を辞書で引くと、放浪して異郷に住む事、住むべき所が無くてあちこちさすらう事などとあります。その上で水鳥が水辺に肩を寄せ合う情景を想像すると、切なく淋しい感情がこみ上げて来ます。主宰がこの句を詠まれたのはロシアのウクライナ侵攻が始まる以前かと思われます。しかし今の時点でこの句を観賞すると、戦士として戦う夫や息子を残し、女性、子供、老人だけが最低限の荷物を携えて国境を越え、隣国に逃れるウクライナの人々の事がどうしても頭をよぎります。深い惻隠の情を呼び起こす一句です。
寒月の兎よここへ来て眠れ 鵠士
冷たく冴える冬の月。その月に浮かぶ兎を思い描き、凍えているならばここへ来て一緒に眠りなさいよと、優しく語り掛けています。この句からも「流寓の」の句と同様に、不幸な境遇にいる人をいたわる心が深く感じられます。エンジン部の「兎よここへ来て眠れ」だけでは意味が不十分ですが、上五「寒月の」というハンドル部が付くことで、呼びかけて優しく誘う一句が立ち上がって来たと思います。
まほろばに住めば都の春寒し 鵠士
「まほろば」は、美しい自然に恵まれたすばらしい所の意。「住めば都」は、どんなに劣った所でも住み慣れればそれなりに住み良く思われるという常套句。「まほろばに住めば都」と繋がると、ちょっと矛盾を抱えた肯定の表現と思われます。しかし「まほろばに住めば都の春寒し」と詠めば、さらに屈折して否定の味わい(=反発)が付加されます。一筋縄では詠まれていない、俳諧味のある一句だと感じました。
若狭にてお水送りをしたるらむ 鵠士
「お水送り」に似た表現の「お水取」をイメージしながら歳時記を引くと、「若狭のお水送り」という長い季語に出会いました。東大寺二月堂で行われる「お水取」の水の水源は福井県小浜市にある事を知り、改めて季語の世界の奥深さを感じました。若狭ではお水送りの行事が済むと春が来ると言われ、奈良ではお水取が終わると本格的な春が来ると言われるのも、平和な時代ならではの響き合う調和の世界を感じます。また、下五「したるらむ」の現在推量「今頃は~しているだろう」の助動詞の使い方にも学ぶところがあると思います。
悲しさが募ります。
「キーウから遠く離れて」を初めて聞きました。
ロシア兵に語り掛けるような冒頭の歌詞が心に沁みます。