流氷や宗谷の門波荒れやまず 山口誓子

2015年05月10日 | 俳句
山口誓子の発句。(という言葉が使ってありました GOETHE注)
山口は少年時代の一時期、宗谷に住んでいた。
晩年に、その時代を思いだし、発句したもの。
厳寒地の宗谷の厳しさは、山口の忘れられない原体験。
流氷は春の訪れを知らせるものだが、
湾に立つ波は、まだまだ厳しい寒さを教えている。
厳寒の厳しさを謳った俳句です。
門波(トナミ)は、湾&瀬戸に立つ波を指す言葉です。
季語は流氷で春の句です。


今日は5月10日。この句の時期より季節はひと月ぐらい進んでいるのでしょう。
知床の流氷はもう沖に消えて行ったことでしょう。


そうなると、次にイメージが浮かぶのは・・・、

てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった  

という安西冬衛の一行詩です。昔、中学の教科書か何かで読んだ記憶が残っています。
俳句ではなく、たった一行の「詩」なのですね・・・。


これも検索してみたところ、出てきたのは「yaoo知恵袋」でした。
[質問]
☆この詩を作ったとき、安西はどこにいたのでしょうか。
 またこのとき、蝶々はどちらからどちらに飛んでいったのでしょうか?

[ベストアンサー]
★韃靼海峡というのは間宮海峡のことです。
 つまり、大陸と樺太との間の海峡です。
 貼り付けた地図で確認して下さい。(※省略・・ココには貼れません)
 狭いところはまるで川程度ですね。

 さて、この詩のタイトルは「春」です。
 春、蝶々は大陸側から樺太方面に渡っていきます。
 安西冬衛は、この詩を作ったとき病を得、
 祖国である日本への帰国をあきらめなければなりませんでした。
 当時、樺太は日本領でした。
 祖国へ渡っていく蝶々を、大陸側から見送って作った詩なのです。

 また、間宮海峡をあえて韃靼海峡と呼んでいるのも、
 大陸から日本領である樺太へ渡っていく蝶々を
 大陸側から見送っている傍証になると考えられています。
 日本(樺太)側からなら間宮海峡と呼ぶのが自然なように、
 大陸側から海峡を望んでいるわけですから韃靼海峡と呼んでいるという捉え方です。

 というわけで、安西は海峡を望む大陸側にいて、
 蝶々は大陸側から樺太方面へ飛んでいきました。
----------◇ ベストアンサー、ここまで ◇-------------

こんなことはつゆ知らず、のんびりのどかな一行詩として受け止めていましたが、
深い背景があったのですね。


N会の面々は明朝宗谷岬から樺太を望むことが出来るのでしょうか?
金曜日に昼飯を食べたI君は、(今回の旅行の発案者♪)
どうしても日本北端の地・宗谷岬から日の出を見たい!
ツアーから離脱して一人でも絶対見に行くんだ!と言っていました。
そういえば、樺太が見たいとは言ってなかったなぁ・・・。



てふてふや明日は韃靼海峡を  健二

2 コメント

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北緯45度 (きりぎりす)
2015-05-14 16:47:05
北緯45度も過ぎて50度になろうかという宗谷岬は北欧に似て日の出も午前4時前となるようです。日の出を見るとなると3時起きしなければ無理でしょう。Iさんちょっと勉強不足では?
稚内の街はどこかしら日本離れした雰囲気を感じさせて素敵でした。
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まるで北欧・・・ (GOETHE)
2015-05-14 20:37:29
夜明けがそんなに早いですかぁ。
こちらではありえない、それも新鮮な体験ですね。
稚内もいい街だったんですね。
やっぱ行けばよかったかな♪

このコメント、文脈からいって差し支えないと思います。
このまま掲載でもいいでしょう・・・。
どうしてもならまた教えてください。
ではでは。
あっ、摩周湖の写真再送ありがとうございます。
次の記事の時に使わせて頂きます。
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