2013年1月3日(木)
昨年ツィッターで「横浜の汽車道を歩いてみた」と言ったところ横浜在住のお二方から「やりましょう」と声がかかりました。
汽車道は桜木町駅から横浜赤レンガ倉庫までの貨物線廃線跡を辿る全長およそ500mほどのプロムナードです。
せっかく群馬から来てくれるのだからもっと色々な横浜の鉄道と開港の歴史を見てもらいたいとのことで同行の匝氏が散策コースをプロディユースしてくだされていくつかのサプライズありの楽しい1日を過ごしてきました。
今日は、その様子の第1回目~鉄道編~です。
集合地は横浜駅です。
そして、ここが散策の出発地でもあります。
私のささやかな予備知識で昔の横浜駅が現在の桜木町駅だったことは知っていたのですが、実は現在の横浜駅の前に二代目横浜駅があったのです。
国道1号線ではくしくも箱根駅伝の私の地元群馬からの出場校上武大学の復路の応援団が場所取りを初めているすぐ先の赤レンガ作り風のマンションがかつての二代目横浜駅があった場所だそうです。
二代目横浜駅の予備知識のなかった私にはちょっとしたサプライズでした。
マンション建設の時に発掘された二代目横浜駅の遺構が残っていました。
やはり赤レンガ作りのこの場所は手荷物の預かり場だったようです。
駅が建設されてからわずか8年で関東大震災で焼失しその後忘れ去られ、復興とともに現在の地に横浜駅は移りました。
ここからは、みなとみらい21線の開通に伴い廃線になった東横線に沿って桜木町方面へ向かいます。
廃線当初は残されないだろうなどと廃線ファンの間では言われていたそうですが、隧道部分は見られなかったのでどうなのかわかりませんが、今はガード下の落書きもきれいに消され高架上を遊歩道にする整備が続いています。
架線やレールは撤去されましたが、ガーター橋は残っていました。
鉄橋ってのは今でもそうですがリベット打ちなんですね。
そしてここ現在の桜木町駅です。
ここが初代横浜駅なのですが、なぜ横浜駅が次から次へと引っ越したかと言うと本線からスイッチバックで列車が出入りするので時間がかかり不便だったため、鉄道省に関係なく軍が勝手にバイパス線路を敷いたところ、「そっちのほうが便利じゃん」ってことで駅が移って行ったそうです。
ここからは、横浜汽車道プロムナードに入ります。
この路線は、赤レンガ倉庫までの貨物線だったわけですが、二つの人工島をトラス橋で結んでいます。
当時の日本にはトラス橋を造る技術がなかったため、アメリカから出来上がったものを輸入して設置したそうです。
実はこのメンバー、興味の塊でできたようなものばかりで、トラス橋ではもっぱらリベットの打ち方に興味を持っていました。
3つのトラス橋は、1.2がアメリカ製で3がイギリス製なのですが、リベットの工法などが異なるというのです。
トラス橋越しに見るランドマークタワーもまた一つ違った趣があります。
汽車道の一部には線路も残っていますが、1989年の横浜博覧会では実際に列車を走らせたそうです。
後ろ姿は今回の案内人匝氏(左)と同行の漫画家のじゅん先生(中)です。
だいたいみなはここからまっすぐ赤レンガ倉庫方面へ向かうのですが、少し回り道をすると港を見守る女神の像や海保の北朝鮮工作船の展示館などまた違ったものが見えてきます。
そして、第2のサプライズ。
汽車道は、貨物線の情報しかなかったのですが、横浜港は海外渡航の拠点でもあったためいくつもの海外航路がありました。
その船の出港に合わせて東京駅から臨時列車が運行されたそうです。
その名残がこの横浜港駅です。
貨物ばかりと思っていた所に旅客駅があったのです。
ここを訪れる人はほとんどいませんし、私はこれをここでは初めて知りました。
ホームは昔のままのようですが上屋はなくなり、後から屋根が付けられたようです。
かつては多くの旅行者や海外移住者がこのホームに降り立ったのでしょう。
そして、赤レンガ倉庫です。
こちらは鉄道遺産とか開港とか何とか関係ないたくさんの人が正月休みを楽しんでいました。
基礎が路面より一段高くなっている様子は、往時の貨物の積み下ろしのホームだったことをうかがわせます。
ランチは、今回は参加してないのですがツイ友さんお勧めで赤レンガ倉庫3階でローストビーフをちょっと贅沢していただきました。
準備の良い匝氏がビールの無料券を3枚持参してくださったので2時間ほど歩いた後のおいしいビールでのどをうるおしました。
このみなとの見える丘公園周辺は、かつては海外から入ってきた品物や輸出される物の倉庫が立ち並んでいたところです。
多くの貨物支線が敷かれていました。
それが、関東大震災で倒壊焼失し瓦礫は港に埋められました。
2009年の公園整備の際偶然発掘されたのが転車台です。
現在の地下1mくらいの所から軌道と一緒に発掘されています。
蒸気機関車の方向を変える回転台と同じ役目を果たすものなのですが、こちらはずっと小ぶりで、倉庫間を縦横に敷き詰められた軌道の上を走る手押し台車の方向を90度変えるために使用されていたものです。
手押し台車に乗せられた貨物の中には輸出を待つ群馬県産の絹もあったようです。
この地区では、このほかにも氷川丸の係留地向かう貨物線の廃線になった高架の歩道なども歩くことができます。
貨物輸送の要が鉄道だった時代を彷彿とさせてくれます。
横浜の鉄道と開港の歴史散策②~開港編~に続く、、、