『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

ヒンドゥーの叡智5️⃣〜 詩人・山尾三省の印度理解

2021-12-07 03:06:55 | 小覚

__過去と未来については、ニサルガ親爺 (ニサルガダッタ・マハラジ) が気の利いたことを云っておられました

過去は 「記憶」

未来は 「期待」

「現在を過去と一体化し、それを未来へと投影するため」 に、 「人格」 とゆーものが立ち現れると…… 

自分自身を過去も未来もない一瞬のものと考えるなら、そのときどこに人格があるだろうか?

これを試して、自分自身で発見しなさい。

  『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 より]

 

昔購入した、聖ラマナ・マハリシの本を読み返しているのだが、あいまにニサルガ親爺の本を再び読んでみると、えらく難しいものに感じる

算数と数学くらいの違いはありそー

ニサルガ親爺の言葉は、明確で曖昧さが無い

ほとんど数学みたいな精確さである

 

(今頃になって気がついたのだが親爺は、 「真我」 とゆー言葉をつかっていない (訳者がつかっていないだけなのか?)

「自我」 はじめ、本当の自分 (=真我ではないものを削ってゆけば、残ったものが 「真我」 だから……

「真我」 とゆー言葉をつかわなくとも、云えることは云える

 

ニサルガ親爺は、ダルシャンで会話する時でも、聖典や過去の聖者の言葉を引用したりすることを全くしない

すべて、ゼロから自分のオリジナルな言葉で語りかけているのだ (この辺の徹底ぶりは讃嘆に値する)

物凄い自信とゆーか全き確信を抱いておられるのだ

 

だから、 【最後の知識】 と私が秘かに呼んでいる 「たった一つの認識」 ……

【 真我ひとつの内的認識 (存在認識) 】 を、ニサルガ親爺を通じて実感できたならば、ほかのアドヴァイタの聖者の書も基本判るはずだと、

多少の訳の間違いは自ら訂正できるはずだと思い直し、昔の聖ラマナの本も読んでみることにした

いままでは、誤訳がこわくて打っ棄っていたのだ

 

ーで、詩人の山尾三省訳 『ラマナ・マハリシの教え』 めるくまーる社刊-  に着手……

この日本に初めて聖ラマナ・マハリシを紹介して下すった先人である

この人の、 「土」 とゆー詩は心揺さぶるんですよ

> 土は 静かである

土の静かさは 深い

人間の どんな沈黙よりも

土の沈黙はさらに深い

鍬という

人間の道具をたよりに

その沈黙を掘る

 

 

 

【 画像= 新しく刊行された本は 『ラマナ・マハルシ』 と表記されている、マハルシ → サンスクリット語、マハリシ → タミール語 (聖ラマナが日常つかっていた言語) 】

 

【 画像= 私の愛蔵本、もともとはこんなジャケットであった 】

 

 

‥‥  「シュリ・ラマナはインドの大地の真の息子である」で始まる、C. G. ユング の推薦文が、本の序文として掲載されてあるのだけれど、

なるほど聖ラマナは、賢者 (ジュニャーニ) の系譜で語られるものの、もともと師匠もおらず、聖山アルナーチャラの神の恩寵によって、独覚にいたったとゆー極めて珍しい聖者である

 

生涯にわたってアルナーチャラ山から一度も離れなかったので、この近辺のことしか見聞していないはずなのだが、大地の精霊 = 地球霊を信仰することで総べてを知ったのだとか…… 

聖なるアルナーチャラ山そのものが、蒼きシヴァ神の顕現であり、日本では地蔵であり、虚空蔵をも含めた 「蔵王」 でもあらせれる真スサノオ神の特徴は、縁の下の力持ち的な 「土」 (肥沃な土は水を豊富に含むに顕されているのではないかと思った

 

この翻訳者である詩人は、 「真我」 と訳さずに 「自己」 と訳されている

わたしたちは、何か特別なものであるかの如く 「真我」 と大仰に言い慣わしているが……

 

英語では、単なる 【 Self 】 であり、

自我あるいは個我は、単なる 「 self 」 である

 

大文字か小文字かの違いしかなく、見かけは一緒だとゆーことを表しているのか知らん

「真我」 はつまり、修行して苦心して辿り着くよーな超越的なものではないのだ

偽りを偽りと見抜く眼があれば、自己 (本当の自分・真我と非自己 (偽りの自分・自我を同一視しない 【 正知  (最後の知識】 があれば、いまそのままに真我として在る

 

山尾さんの詳細な脚注 (訳註がまた佳い

ヒンドゥー社会にあっては、

ヴィシュヌ神系列の神々、クリシュナ神やラーマ神を信仰する人々を ヴァイシュナヴァ と呼び、

シヴァ神の系列の神々を信仰する人を シャイヴァ と呼ぶ。

また、ブラフマン=アートマンという非人格的な実在する真理を追求する道を ヴェーダーンタ と呼ぶ。

一方で、神への愛を中心に信仰をすすめる人々を バクタ と呼び、

神の知識あるいはブラフマンの知識を自分に実現しようとする人々を ジュニャーニ の名で呼ぶ。

ラマナ・マハリシは主としてジュニャーニの人である。

本書の訳出にあたっては、バクティを帰依と訳しているが、それは深い愛を抱いて神に帰依することを意味している 「信愛」 と訳されることもある

 

ラマナ・マハリシが 「自己」 と呼んでいるのは22ページに語られているごとく、アートマンのことであり 「真我」 と訳されることもある、師はヴェーダーンタの道の人であるように見えるが、師がアートマンと呼び、ブラフマンと呼ぶものは、実はシヴァ神そのものである。

ヒンドゥー社会の信仰の森は奥深く、一見複雑であるが、基本的にこれらのことを了解されて読み進められたい。

 

‥‥ 印度の先賢たちの真理への探究心は、  「ヴェーダーンタ = 知識の終わり」 と名乗る宗派まで立ち上げているわけだ

 

> ヴェーダーンタ    Vedanta

文字どおりには、ヴェーダの終り。 ( veda+anta   終わり。ヴェーダーンタは六つのヒンドゥー哲学の学派の一つ。アドヴァイタ・ヴェーダーンタはヴェーダーンタのもっとも有名な分派。

[ 引用 ; 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 の巻末の用語解説より ]

‥‥ いみじくも、 「ヴェーダの終り」 を標榜している

 

> ヴェーダ    Veda

啓示された知識、ヒンドゥー教のもっとも古代の聖なる文献。 [ 同上より引用 ]

‥‥ 観念から生まれる知識および知的思考が終わった (止んだとき、ヴェーダーンタは花開く

 

知性が真理の把握の邪魔をする、 【 マインドは真理をころす 】 ことがあると……

この場合、マインドを 「意識の中味」 (一般にマインドは「心」と訳される) と解すれば、

二元 (相互補完的な両面で成り立っている 「現象」 を理解するために「観念」を作り上げて使っている限り (マインド主導である状態) 、非二元の根源にはどー足掻いても辿り着けない

 

ニサルガ親父の本の中で、聖典 『バガヴァット・ギーター』 は、神 (真我 聖クリシュナの立場になって読みなさいと云われている

偽物の実体 (つまり 「個人」 の観念としてのアルジュナとしてではなく、真我 (本当の実体として読む

ギーターの際立つ特徴は、主クリシュナは自分がすべての顕現の源泉であるという立場から話しているということだ。

つまり、顕現の立場からではなく、顕現全体は私自身であるという非顕現の立場から話している。

これがギーターのユニークなところである。

 

 

‥‥ 聖ラマナ・マハリシは、〇〇派とゆーヒンドゥー教の修行系列に入ったことはない

師匠をもたない独覚の人だから、なおさらインドの土地 (そのものの化身 (息子と云えるかも知れない

それにしても、この山尾さん訳の本に、21才の時の聖ラマナの精悍な光輝く人懐っこい眼差しを写した写真 (ふんどし一丁であるが載せてあるが……

誰かに似ていると思ってみていたら、はたと思い当たった

アルバム 『オフ・ザ・ウォール』 以前の、整形する前のマイケル・ジャクソンによく似ている

聖ラマナの最晩年の、地球を瞳に宿した肖像写真は、誤解をおそれずに云えば、どこかしらゲイっぽい両性具有の印象を抱く

 

若い時分の私には、ヴィヴェカーナンダの 「男らしく生きよ」 『バガヴァット・ギータ』 のクリシュナ神のお示しにもある) の方が、気持ちよかったものだから、聖ラマナ・マハリシを避けて遠回りしてしまった

 

聖バガヴァット (クリシュナ) は告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。
アルジュナよ、それは貴人の好まぬもので、天界に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。
それはあなたにふさわしくない。卑小なる心の弱さを捨てて立ち上れ。


[ ※ 『バガヴァット・ギーター』  上村勝彦 : 訳-  岩波文庫- より]

 

 

‥‥ 聖ラマナは、やはり真の詩人でもあるなと思う

>   太陽は輝くだけである。暗闇を見ない。 】

 

‥‥ このお言葉だけで、真我ひとつの生き方を見事に露わしている

真我 (太陽は、対象 (暗闇を持たない絶対主体である

対象物に向かわないのは無欲 (無執着

対象物が現れないのは智慧、

「自己 (真我以外の何ものも求めぬ」

「自己 (真我をけっして離れない」

 

さまざまな言い方があるが、 「私が」 および 「私のもの」 という感覚を壊滅させることが究極である

「私が」 と 「私のもの」 の二つはお互いに依存し合っているので、一方を壊滅させればもう一方も滅びる。

想いや言葉の彼方にあるあの静寂の状態に至るためには、

 

【 私が  という感覚をぬぐい去る 知識 (ジュニャーニの道 か、

【 私のもの  という感覚をぬぐい去る 帰依 (バクティの道 のいずれもじゅうぶんである。

 

帰依の道と知識の道の究極が一つであり、同じものであることは疑う余地のないことである。

 

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。

だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。

ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読む必要は何もない。

心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。

 

聖典を読むことによっては、この探究はできない。

人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。

自己は五つの覆い (五つの感覚機能:視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚の内側にあるが、書物はその外にある。

自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探究されるべきものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。

やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

引用文中、()内は私挿入 ]

 

 

‥‥ 次から次へと (観念を積み上げてゆく勉強では、永遠に辿り着けない、

観念で構築した自分なりの空中楼閣が確立する頃、吾々は自分の内に 「明晰さ」 を手に入れる、

しかし、苦労して獲得した膨大な教養も明晰さも、究極では役に立たないどころか邪魔になるとは、なるほど真理とはシンプルなものらしいのう

 

🔴  付記

ニサルガ親父の弟子のラメッシは、聖ラマナ・マハルシからも生前直接教えを受けていて、次のよーな重要な発言をされています

ラマナ・マハルシの云われた、

“ 「わたしは誰か?」 を問いなさい

と英訳されている言葉は、もともとタミル語(「ナン・ヤー」、ナン=私、➡︎サンスクリット語では私=アハン、アが最初でハが最後のアルファベットである、阿吽=オームと同様)で話されていて、その原意は……

“ 【 このわたしとは何なのか】 を問いなさい

とゆー意味の言葉であったと述べているそーです

「ナン・ヤー」は、母音「あ」のダブルイニシャルで、奇しくも「私は誰か?」も「私とは何か?」も共に頭韻の母音「あ」が重なっている照応が見られる

『ラマナ・マハルシの教え』の翻訳者である山尾三省氏に、求道仲間の漁師(長沢哲夫)が送ってくれた詩の中では、

【私とは・・・?】

という問いのカタチを取っている(最もシンプルな「ナン・ヤー」の訳であろう)

というのも、聖ラマナ・マハリシは、最上のマントラは「わたし」であり、2番目が「オーム」であると言っていたらしい、推して知るべし

思うに「私は誰か?」 では、人格的な存在に限定された答えを促す問いかけにならざるを得ないこともあり、意識がこの人間の身体を超えて拡がるときには相応しくない

「私(自分)とは何なのか?」 のほうが、しっくり来ます

          _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智4️⃣〜 印度人の祈りの力

2021-12-07 02:35:22 | 小覚

__よく見かける、マハトマ・ガンディーの言葉ですが、

[ ガンジーよりもガンディーの方が実際の発音に近いそーです、南アで弁護士やってたりもした彼は、本来は実際的な実務家で宗教的な人ではなかったのだが、母国ヒンドゥーの叡智を、意外にも「神智学協会」を通して学んでいます、唯一の所蔵本『バガヴァット・ギーター』も神智学協会の訳でした]

 

心からの祈りによって成し遂げられないものは、この世に無い。(ガンディー)

 

‥‥ 彼のこの言葉をどー観るか、

私自身祈らないし、祈りで物事が実現するとは露いささかも思っていないからだ

しかし、インドにおける「祈り」とゆーものを観てみると、風土の違い、その真剣さに驚くことがある

古代インドから連綿と続く「祈りの功徳」について、ひとつの伝承を取り上げたい

 

谷崎潤一郎『ハッサン・カンの妖術』及び、芥川龍之介『魔術』に同様に登場する印度人マティラム=ミスラ氏の注目すべき発言から引用する

「‥‥ 一体、印度人の信仰から云うと、Asceticism(難行苦行)は、人間が神に合体するために是非とも必要なものなのです。

われわれの持っている悪は、すべてわれわれの物質的要素、即ちこの肉体から来るのですから、出来るだけ肉体を苦しめることによって、われわれの霊魂は次第に宇宙の絶対的実在と一致します。

仏教で云えば、起信論のいわゆる浄法薫習(くんじゅう)です。

われわれの肉体を苦しめる度がより強ければ強いだけ、霊魂は神の領域に昇って行きます。今まで肉体の牢獄に繋がれていた魂が、宇宙の精霊に薫習するに従って、こんどは物質の世界を支配するようになる。

結局、どんな人間でも苦行に服しさえすれば、此の世の中のことは、必ず当人の思うがままになると云うのです。

 

だから、ここにある人がいて、何か一つの神通力を得ようと思えば、難行の功徳でその目的を達することが出来るのです。

あなたはマハバアタの中にある二人の兄弟の話を知っているでしょう。彼らは三世(スリーワールズ)を支配しようという【祈願】を立てて、さまざまの難行に服しました。

例えば、頭のてっぺんから足の先まで、体じゅうに泥土を塗って、木の皮の衣を着て、ヴィンディヤの山巓に閉じ籠ったり爪先で立ったり、数年間もまばたきをしないで眼をあけていたり、断食断水をやったり、最後は自分の体の肉を割いて、火中に投じたりしたものです。

この時、ヴィンディヤの山は燃えるような兄弟の信仰のために熱を発し、天地の神々は兄弟の宿願の大規模なのに恐怖を感じて、能う限りの迫害を加えました。

しかし彼らはついにこれらの困苦に打ち克って、

梵天(ブラアマ)から望み通りの権力を授けられたのです。

以上の神話でも判るように、難行の目的は必ずしも罪障消滅にあるのではなく、むしろ此の世で擅(ほしいまま)な暴力を振い、もしくは敵を征服したいというような、反道徳的の動機のものが多いようです。

ひっきょう不屈不撓の意志を以て飽くまで苦行を続けさえすれば、その人間はどんな偉大な宿願をも成就することが出来るのですから、一とたびそういう行者が現われると、他の者は、人間でも神様でも大恐慌を来たします。

その証拠に昔ウツタナバダ王の王子で、僅か五歳の少年が大願を発したために、世界じゅうの神々が大騒ぎをしたという伝説があります。

少年は継母の妃に虐待されて、国王の位を継ぐことが出来ない代りに、宇宙第一の権力を得ようとして、天人、夜叉、阿修羅などの妨害を物ともせず、執拗に難行を継続しました。

すると神々は驚き、惶(あわ)てて ヰ゛シエヌの大神に救いを求め、漸くヰ゛シエヌの調停によって、少年の野望に制限を加えたのです。

少年の魂は天に昇って北極星になりました。

このように、人間の難行苦行は神々の脅威となるばかりでなく、神々自身もまた難行を必要とする場合があって、あの造物主の梵天でさえ常に行を修めなければならないのです」

[ 稲垣足穂『男性における道徳』(中央公論社刊)より〜「梵天の使者」の引用文、つまり谷崎『ハッサン・カンの妖術』の孫引き]

 

‥‥ 文中の「ヰ゛シエヌ」とは、おそらく「ヴィシュヌ神」のことだと思われる

ミスラ氏は、西洋哲学について次のよーな事も言っている

(ミスラ氏)は、西洋のメタフィジックと、大乗仏教の唯心論とを比較して、東洋人の【事物の核心を捉える直覚力】は、西洋的論理の及ぶ所ではないと云った。

「哲学や宗教の極致が、現象の奥に潜んでいる実在を洞察して、大悟徹底することにあるのだとすれば、東洋の方が西洋よりも遙かに進んでいます。

西洋人の得意とする【分析だの帰納では、現象の奥まで突き入ることが出来ない】からです」

‥‥ ミスラ氏の語る、印度人の祈願に対する姿勢は、わたしたちのそれと余りにも違いすぎて笑えるほどに怖いものだ

神々が大慌てでとりなしに入る件りは、釈尊が大悟なされた時(誰も分からないだろーから、このまま隠遁しようとなされた)に、梵天が慌ててとりなしに入った「梵天勧請」の故事とそっくりである

それにしても、人間が抱く不退転の祈願は神々の干渉さえも受けるとは面白いものだ

どーも、「欲」と「発」は同じもののよーだ

「欲する」も、仏道で発心する場合の「発する」も、印度人の論理ではさほど変わらない

ここでは、祈りも徹底すると世界を支配するほどの権力を得ることもあるとゆー、「人為」の究極の姿を垣間見る思いがする

 

古代インドの世界観は、須弥山(しゅみせん)という架空の大高峯を中心とする天動説的宇宙観であった

須弥山は、何も仏教の専売特許ではないのだとか……

キリスト教は、近代に発達した科学に則って、地動説を導入しているらしいが……

仏教の、例えば奈良の薬師寺の先先代だったか橋本凝胤師は、東大インド哲学科卒の当代きっての学僧であったが……

徳川夢声との対談で、「仏教は天動説で一向に構わない、それで何も不自由せんから」と、堂々と週刊誌上の対談ながら、地動説(=科学)を正式に否定したことがある

奈良の薬師寺や興福寺は、京都の清水寺と同じく、玄奘三蔵の創始になる「法相宗(唯識派)」である

戒律も厳しく、生涯独身を貫くインド仏教直輸入の宗派である

「唯識三年倶舎八年」という言葉が有名だが……

専門の学僧が、倶舎論を八年やってから唯識論を三年やって、やっと理解ができる位に難解な仏教哲学であるとゆー謂なのだとか

 

まー、そんな高度な哲学的思索の結晶が、ヒンドゥーの叡智として結実しているわけだが……

西洋の、例えば学者としても高名なゲーテは、奥深い洞察の持ち主であったが、その彼にして「不可知論」に帰着するしかなかったのに対し……

インド人は、「分からない神秘」を現前にして、どこまでも究明する姿勢を棄てることなく、とうとう真我ひとつの非二元に辿り着いたことは、返す返すも偉大なことだと思う

西洋の皮肉屋は、こー言った

「普通の人々はお祈りしない。ただ、お願いするだけだ」(バーナード・ショウ)

あるいは、

「祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ」(セーレン・キェルケゴール)

「お祈りすることは思い出すこと」(モーリス・メーテルリンク)

‥‥ いづれも、記憶に残る名文句ではあるが、ただそれだけのこと

インド人は、先ず永遠不滅の世界(存在)と生滅輪廻の世界(現象)とを明確に分けた

変わらざる存在にのみ注視したのである

人類の共有意識に溶け込んだと伊勢白山道の見立てで云われている、釈尊とラマナ・マハリシは奇しくも印度人である

ゼロを発明し、IT業界で幅を利かせるのも印度人である

印度人マハトマ・ガンディーは、冒頭の言葉を本気で云ったのですね

インドでは、祈りとはそーいったものなのですな

           _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智3️⃣〜 三島由紀夫が惚れ込んだ、難解なる 「唯識」

2021-12-07 02:26:25 | 小覚

__唐突に三島由紀夫を引っ張りだすのは、他でもない、「嘘でかためたような男」 ゆえに 「戯曲の天才」 であった三島は、説明するのが抜群に上手い作家であるからだ

 

或る人の云うには、凡百の専門用語だらけの仏教解説書で苦労して勉強するよりも、 『豊饒の海』 に書いてある仏教解説を読んだ方が、百倍も分かりやすいと…… 

わたしは、瀬戸内晴美と同意見で、彼の 『禁色』 が傑作だと思うが、云われてみれば確かに三島由紀夫は説明・描写が抜群にうまい、冗長にならずよく纏まっている感じがする

 

ならば、難解で知られる 「唯識」 思想も、彼の講釈の魅力で突き抜けてみよーと…… 遺作 『豊饒の海』 全4巻に手を出してみた

この縁ができるまで永かった___いざ、水のない大海(豊饒の海 = 月世界の海) に漕ぎ出さん

 

 

 

第三巻 「暁の寺 (ワット・アルン」 に、待望の 「唯識 (ゆいしき」 誕生の内幕が書かれていたので引用する

 

学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のような六期に分たれる。

 

第一期は  梨倶吠陀 (リグヴェーダの時代 である。

第ニ期は  祭壇哲学の時代 である。

第三期は 【ウパニシャッド(奥義書哲学)】の時代 で、

西暦紀元前8世紀から5世紀に及び、梵と我 (アートマンの一体を理想とする自我哲学の時代であるが、

輪廻 (サムサーラの思想はこの時期にはじめて明瞭にあらわれ、これが業 (カルマの思想と結びついて因果律を与えられ、我 (アートマンの思想と結びついて体系化されたのである。

第四期は  諸学派分立時代 である。

第五期は、紀元前3世紀から紀元1世紀にいたる

【小乗仏教完成】時代 である。

第六期はその後500年に亘る

【大乗仏教興隆】時代 である。

 

問題はその第五期であって …… (略)……   《輪廻転生を法の条文にまでとり入れている「マヌの法典」は、この時期に集大成された》

同じ業思想でも、仏教以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然 (かくぜんとちがっている。

どこがちがっているかというと、我 (アートマンが否定されたのである

仏教の本質は正にここにあると謂ってよい。

 

仏教を異教と分つ三特色の一つに、諸法無我印というのがある。仏教は無我を称えて、生命の中心主体と考えられた我 (アートマンを否定し、否定の赴くところ、我 (アートマンの来世への存続であるところの 「霊魂」 をも否定した。

 

仏教は霊魂というものを認めない…… ()……

しかし、ここに困ったことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、

悪業によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?

我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのであろうか?

 

仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、こういう矛盾撞着に苦しんで、各派に分れて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかったのが、小乗仏教の300年間だと考えられるのである。

この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが……

三島由紀夫 『豊饒の海』 第三巻 「暁の寺」 -新潮文庫- より]

 

 

‥‥ なんのことはない、「唯識」 で、吾々の六感にあたる六識の先に、第七の 「末那識 (まなしき」 を立てて、更にその奥に第八にして究極の 「阿頼耶識 (あらやしき」 を設ける

阿頼耶識 (蔵識) に、経験・痕跡が薫習 (くんじゅう = 香りが衣服に付く様) させられて種子 (しゅうじ = 行為を生む力) が蓄積されるとか、よく出来た循環理論でもってあらわし、要するに輪廻する魂・霊のよーな主体を認めないのです、 「人空 (にんくう = 実体的な常住不変な自我はない) 」 とするのです

 

仏教が我 (アートマンを認めないとは、 「真我 (アートマン」 を認めないとゆー事である

 

よくこんな手の込んだ上書き修正を考えついたものだ、仏教が釈尊の 「本生経 (ジャータカ、前世物語」 を重んじるあまり、こーまでして、 【 輪廻転生する主体を見つけなければならなかった 】 とは同情に堪えない

唯識派としては、唯識の誕生する少し前に誕生した、龍樹菩薩の 「中観 (中道の意味派」 の誤りを補正する意味合いもあったとか……

なんかヒンドゥー教のアドヴァイタ (不二一元論の方が、すっきり纏っている感があるが……

それは、龍樹の天才的理論を、西暦700年頃のシャンカラ (インド最大の哲学者が見事なまでにヒンドゥー教に借用したせいでもあると云う

 

ヒンドゥーのヴェーダーンタは、「ヴェーダ(聖典)の終わり」を意味していて、知性や論理や知識を否定したところから出発している

 

近代でも、聖ラマナ・マハリシやラーマ・クリシュナ (直弟子のヴィヴェカーナンダを含め) 、ニサルガダッタ・マハラジなどの世界的に知られた聖者を生み出した印度の伝統とは凄まじいものがある

次々と死骸が流れてくる、不衛生極まりないガンジス川で沐浴しても、病気にかかる人はいないとゆー、歴代聖者たちの祈りの力…… 

世界宗教会議にも列席した超インテリのヴィヴェカーナンダは、頭から馬鹿にしていた 「偶像崇拝」 で、師ラーマ・クリシュナから神を体感させられたと聞く

真実は、聖典や科学のコトバよりも雄弁に心に響く

>  「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する‥‥ 語りえぬものについては沈黙しなければならない」 (ヴィットゲンシュタイン)

 

 

ー三島由紀夫が、他ならぬ 「唯識」 に目をとめて、その哲理を礎に輪廻転生の物語を綴ったことに、何か惹かれるものがあった

エラノス会議の碩学・井筒俊彦博士が、丹念に 「阿頼耶識」 の究明にあたられていたことを考えると、単なる上塗りの理屈ではないのかも知れない

 

ただわたしは、釈尊の 「無我」 ってのはどーなのかと疑問に思っていて、ニサルガ親爺の 「真我ひとつ」 の明晰さに 「真理のシンプルさ」 を洞察するのであるが如何なものだろーか?

とはいっても、 「世界は私の内にある」 よりも 「私は大自然の一部である」 の方がしっくり来るであろー、謙虚と云われる伝統的な日本人にしたら 「無我」 とゆーものは案外と親和性のあるものかも知らん

「滅私奉公」 とか、 「幕末の無私の志士たち」 とかが無性に好きな民族ではある

 

しかし、車のクラクションにしても 「存在の主張」 であるインド人にしてみれば、大自然 (神) のうちに消え入りそーな 「無我」 とは容認できないものじゃないかな?

まだしも真言密教の 「大我」 の方が、インドには馴染みがあるよーな気もする

やっぱり 「無我」 となると理屈くさくなると思うんだよね、

シンプルに真我 (=Self) ひとつとすれば、自我 (=self) との折り合いもスムーズなよーに感じるのだが、如何なものか?

            _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智2️⃣〜 仏教を 「仏道」 から離反させたインド人・龍樹

2021-12-07 00:52:41 | 小覚

__中観派のナーガルジュナ・龍樹  (150250年頃)  や、次に続く唯識派のアサンガ=無著とヴァスバンドウ=世親の天才兄弟  (300400年頃)  ……

いわゆる 「大乗仏教」 が始まった時期だが、この辺りから、仏教はエライ難しくなってくる

仏教界では、 「唯識三年倶舎八年」 と云われるよーに難解な仏教哲学の代表格ですネ

 

 

 

 

> 「高度な哲学ですから勉強するのはいたって簡単ですね。西洋人の思考よりはしっかりと整理整頓されていますから、勉強するのはいたって簡単です。

【哲学っていうのはインドのものだからね】

西洋にはそんなに高度な哲学思考はないしね。」

(スリランカ上座仏教のスマナサーラ長老)

 

‥‥ 鳩摩羅什  (340410年頃)  の活躍された時代もこの頃で近いですネ

ま、世親菩薩 『浄土論』 漢訳・鳩摩羅什 中国の曇鸞 法然上人 親鸞さんとゆー流れかしらネ

 

釈尊が説明不足のままにされた「空」に関しては、上座部 (テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の解説がちょっとばかし面白いので、置いておく

> わたしが批判するポイントは、相対論を持ち出して、彼 (龍樹) がすべて 「空 (くう」 であるとしたこと。

世界で初めて相対論を持ち出したんだからね。でも本当はお釈迦様が教えたものです。

 

これがあるから、これがある。

これがあるというためには、 「これ」 がなくては成り立たないし。

ということで、すべては相対的である、実態は存在しないんだと。独立して 「これがある」 とは言えないという哲学的思考で発展したんです。 

 

それをブッダの無我の説明で、無我の代わりに 「空 (くう」 という言葉をいれたんですね。

 

何でお釈迦様が 「空」 という言葉を使わなかったのかというのは、理由があるんです。

お釈迦様は 「空」 という言葉を相対的に使っているんですね。使ってないわけじゃないんだけどね。実態がないゆえに空であると。実態がないというためには相対的に物事があると理解しなくちゃいけないですね。

だから 「空論 (くうろん」 になったところで、本当に文字通りに空論になってしまったんですね。

 

>  (仏教はどちらかというと、実践編なんですね。

頭でっかちで 「物事は相対的だ」 と思うのはいいんだけど、脳はそう働かないんですね。

眼耳鼻舌身意というのは物があるという間違った前提で認識しているんですよ。だからそれをなおさなくちゃいけないんですね。

 

空というのは頭で理解するものではなくて、修行して体験するものなんですね。

それはないでしょ、あの人 (龍樹の哲学には。

実践があって仏教なんですね。

 

お釈迦様は実践がない教えというのは何の意味もないんだと、ものすごく批判していますよ。

すごく勉強して、巧みに論を組み立てて巧みにしゃべっても、くだらん、そんなものはと。

だから一行だけでも真理を知った人がそれを実践するならば、それにはかなわないんだよと。

 

> 彼 (龍樹のせいでインドから仏教は消えてしまったんです、跡形もなく。

 

彼の思考パターンをパクってシャンカラという人がね、不二論 (ふにろんを組み立てたんですね。

[ 私注;  シャンカラ(西暦700〜750年頃)不二一元論=アドヴァイタを提唱した、インド最大の哲学者]

バラモン人が不二論を組み立ててこれこそ哲学だと言ったとたん、インド人というのは金がある方に行くんだからね。

 

> インド哲学や仏教哲学を勉強する場合は、われわれが思うことは、

仏教を破壊したのはね、龍樹のせいだと。ま、 (実際に破壊したのはシャンカラですけど。

シャンカラが龍樹の教えをそのまま盗み取ったんですね。

 

だって龍樹の本は仏教徒の間でしか使わないし、大乗であろうがどの仏教徒も修行しているんだから、修行している人にとっては 「別に」 という本なんですね。

だから仏教徒の間でも、そんなにガチャガチャいう本じゃないんです。一つ読んだら 「あ、分かりました」 と終わりますから。

それでシャンカラの本がドカンとヒンドゥー教の知識人の間で広がってしまって、それで戻らないようになってしまった。いまだにインドで仏教が復活することは不可能です。いまだに。

[引用;サイト 『ブッダ ラボ』 スマナサーラ長老法話 より]

 

 

‥‥ 文字通りの 「空論」 ってゆー処は、ほんと面白いネ

龍樹菩薩って、伊勢白山道の見立て (リーディング) では宇宙人とゆーことで、釈尊ご自身が 「私の没後、龍樹って人が現れて…… 」 と予言しているそーなのだ

 

いまでこそ 「上座部 (テーラワーダ) 」 とか云われるよーになったが、一昔前は 「小乗仏教」 と蔑まれて呼ばれたものだったから……

スマナサーラ長老にしてみれば、釈尊の仏道から外れて 「大乗仏教」 なるものを始めた龍樹は許せない存在であろー

アタマが切れすぎて、 「空 (くう) 」 などと提唱して、すべて括り切ってしまったのだから堪らない

 

龍樹の論法を、かの大賢シャンカラが借用しただなんて、時空を越えて、婆羅門教と仏教が融合していたことに驚くとともに感動も新たにする

現在の私は、ヒンドゥーの 「真我ひとつ」 の世界観に収束したとゆーか終息している

すべてが 「真我ひとつ」 であることを直観的に理解することをもって、真理にいたる最後の知識 (Knowledge) とみなしている

これ以降の探究に、コトバは要らないし知識も要らない

その前に、聖仏陀の仏道が後世にいかに変化 (へんげ) していったのか概観してみよー (3️⃣に続く)

            _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智1️⃣〜 インド人の国民性

2021-12-07 00:24:20 | 小覚

__インド人は、0(零・ゼロ)を発明し、数学には特異な才能を発揮し、秋葉原や大手家電量販店でパソコン専門担当員として活躍していたりする

まー、有象無象の「聖者」の数は世界的にみてもダントツに多い土地柄であろー

【画像= 世界初の仏像である「ガンダーラ美術」は、アーリア人(インド・ヨーロッパ語族)としての印度人の面影をよく伝えている、釈尊はヨーロッパ的な風貌をもつ超美男子であったと云われる】

 

インド旅行に行った者は、激しく衝撃をうける者が多いと聞くが……

「臭い」「汚い」「五月蝿い」とゆー声が代表的なものだ

「五月蝿い」については、とにかく車のクラクションがウルサイらしい

 

日本では、クラクションと云えば、「危ないっ!」って時の注意喚起や譲ってもらった御礼などに鳴らすことが多いと思うが……

インドでは、もーひっきりなしに鳴り響いている

これは何も、「邪魔だ、退け」とか「遅いぞ、早く行け」といったクレームではないんだそーだ

インド人は基本的に、他の車に近づいたらクラクションを鳴らす習性があるそーで……

バックミラーをほとんど視ないので、「後ろからオレが来てるぞ」とか「割り込ませてもらうぞ」とゆー意味合いのクラクションだそーです

始終鳴らし続ける、いわば「自己の存在を主張する」クラクションとの事

 

インドの道路は、基本的に「ルール無用」なので、それぞれ必死に運転しているし、非常識な運転の割りに事故が少ないそーです

そんな中で「存在の主張」を忘れない国民性……

数学の「ゼロ」についても、仏教の龍樹菩薩のゆー様にプラスあってマイナスあっての「ゼロ」なのであり、一時的に「何も無い」状態をあらわしている

仏教僧で「無」とか「空」であらわしている「空虚さ」みたいなものを……

インド人は「ゼロ」とゆー事象を立件して堂々と主張した

 

もっと端的な例をあげれば……

仏教は「無我」を究極とするが、ヒンドゥー教(旧・バラモン教)では「真我」である

あくまでも、存在するものとして受け止めている感じがする

 

なるほど、インドでは釈尊の仏教が根付かなかったわけである

コンピュータによるデジタル化に滅法強いインド人、上記の国民性が寄与しているのではあるまいか

 

『般若心経』みたいに「無い、無い」尽くしで、龍樹の「空(くう)」にいたる、仏教のアプローチ

かたや、「真理は〇〇である」とは言えないゆえに(真理・真我は「絶対主体」であり「対象」となることはないから)……

「〇〇ではない」し「〇〇でもない」と、否定的言語によって、その輪郭を仄めかすことしかできないとする、ヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタのアプローチ

つらつら想い浮かべてみると、釈尊在世の頃すでに古代バラモン教(ヒンドゥー教の前身)は存在していたわけだから、釈尊の初転法輪(初めての説法)は従来のインド宗教と違うものでなければならなかったはずである

仏道の「無我」、そしてヒンドゥーの「真我」

果して、意識の焦点のおきどころが異なるだけで、案外と同じ消息を伝えるものなのだろーか

くわしく、探ってみたい(続く)

            _________玉の海草