__過去と未来については、ニサルガ親爺 (ニサルガダッタ・マハラジ) が気の利いたことを云っておられました
・過去は 「記憶」
・未来は 「期待」
「現在を過去と一体化し、それを未来へと投影するため」 に、 「人格」 とゆーものが立ち現れると……
> 自分自身を過去も未来もない一瞬のものと考えるなら、そのときどこに人格があるだろうか?
これを試して、自分自身で発見しなさい。
[ ※ 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 より]
昔購入した、聖ラマナ・マハリシの本を読み返しているのだが、あいまにニサルガ親爺の本を再び読んでみると、えらく難しいものに感じる
算数と数学くらいの違いはありそー
ニサルガ親爺の言葉は、明確で曖昧さが無い
ほとんど数学みたいな精確さである
(今頃になって気がついたのだが) 親爺は、 「真我」 とゆー言葉をつかっていない (訳者がつかっていないだけなのか?)
「自我」 はじめ、本当の自分 (=真我) ではないものを削ってゆけば、残ったものが 「真我」 だから……
「真我」 とゆー言葉をつかわなくとも、云えることは云える
ニサルガ親爺は、ダルシャンで会話する時でも、聖典や過去の聖者の言葉を引用したりすることを全くしない
すべて、ゼロから自分のオリジナルな言葉で語りかけているのだ (この辺の徹底ぶりは讃嘆に値する)
物凄い自信とゆーか全き確信を抱いておられるのだ
だから、 【最後の知識】 と私が秘かに呼んでいる 「たった一つの認識」 ……
【 真我ひとつの内的認識 (存在認識) 】 を、ニサルガ親爺を通じて実感できたならば、ほかのアドヴァイタの聖者の書も基本判るはずだと、
多少の訳の間違いは自ら訂正できるはずだと思い直し、昔の聖ラマナの本も読んでみることにした
いままでは、誤訳がこわくて打っ棄っていたのだ
ーで、詩人の山尾三省訳 『ラマナ・マハリシの教え』 めるくまーる社刊- に着手……
この日本に初めて聖ラマナ・マハリシを紹介して下すった先人である
この人の、 「土」 とゆー詩は心揺さぶるんですよ
> 土は 静かである
土の静かさは 深い
人間の どんな沈黙よりも
土の沈黙はさらに深い
鍬という
人間の道具をたよりに
その沈黙を掘る
【 画像= 新しく刊行された本は 『ラマナ・マハルシ』 と表記されている、マハルシ → サンスクリット語、マハリシ → タミール語 (聖ラマナが日常つかっていた言語) 】
【 画像= 私の愛蔵本、もともとはこんなジャケットであった 】
‥‥ 「シュリ・ラマナはインドの大地の真の息子である」で始まる、C. G. ユング の推薦文が、本の序文として掲載されてあるのだけれど、
なるほど聖ラマナは、賢者 (ジュニャーニ) の系譜で語られるものの、もともと師匠もおらず、聖山アルナーチャラの神の恩寵によって、独覚にいたったとゆー極めて珍しい聖者である
生涯にわたってアルナーチャラ山から一度も離れなかったので、この近辺のことしか見聞していないはずなのだが、大地の精霊 = 地球霊を信仰することで総べてを知ったのだとか……
聖なるアルナーチャラ山そのものが、蒼きシヴァ神の顕現であり、日本では地蔵であり、虚空蔵をも含めた 「蔵王」 でもあらせれる真スサノオ神の特徴は、縁の下の力持ち的な 「土」 (肥沃な土は水を豊富に含む) に顕されているのではないかと思った
この翻訳者である詩人は、 「真我」 と訳さずに 「自己」 と訳されている
わたしたちは、何か特別なものであるかの如く 「真我」 と大仰に言い慣わしているが……
英語では、単なる 【 Self 】 であり、
自我あるいは個我は、単なる 「 self 」 である
大文字か小文字かの違いしかなく、見かけは一緒だとゆーことを表しているのか知らん
「真我」 はつまり、修行して苦心して辿り着くよーな超越的なものではないのだ
偽りを偽りと見抜く眼があれば、自己 (本当の自分・真我) と非自己 (偽りの自分・自我) を同一視しない 【 正知 (最後の知識) 】 があれば、いまそのままに真我として在る
山尾さんの詳細な脚注 (訳註) がまた佳い
> ヒンドゥー社会にあっては、
ヴィシュヌ神系列の神々、クリシュナ神やラーマ神を信仰する人々を ヴァイシュナヴァ と呼び、
シヴァ神の系列の神々を信仰する人を シャイヴァ と呼ぶ。
また、ブラフマン=アートマンという非人格的な実在する真理を追求する道を ヴェーダーンタ と呼ぶ。
一方で、神への愛を中心に信仰をすすめる人々を バクタ と呼び、
神の知識あるいはブラフマンの知識を自分に実現しようとする人々を ジュニャーニ の名で呼ぶ。
ラマナ・マハリシは主としてジュニャーニの人である。
本書の訳出にあたっては、バクティを帰依と訳しているが、それは深い愛を抱いて神に帰依することを意味している ( 「信愛」 と訳されることもある) 。
ラマナ・マハリシが 「自己」 と呼んでいるのは22ページに語られているごとく、アートマンのことであり ( 「真我」 と訳されることもある) 、師はヴェーダーンタの道の人であるように見えるが、師がアートマンと呼び、ブラフマンと呼ぶものは、実はシヴァ神そのものである。
ヒンドゥー社会の信仰の森は奥深く、一見複雑であるが、基本的にこれらのことを了解されて読み進められたい。
‥‥ 印度の先賢たちの真理への探究心は、 「ヴェーダーンタ = 知識の終わり」 と名乗る宗派まで立ち上げているわけだ
> ヴェーダーンタ Vedanta
文字どおりには、ヴェーダの終り。 ( veda+anta 終わり) 。ヴェーダーンタは六つのヒンドゥー哲学の学派の一つ。アドヴァイタ・ヴェーダーンタはヴェーダーンタのもっとも有名な分派。
[ 引用 ; 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 の巻末の用語解説より ]
‥‥ いみじくも、 「ヴェーダの終り」 を標榜している
> ヴェーダ Veda
啓示された知識、ヒンドゥー教のもっとも古代の聖なる文献。 [ 同上より引用 ]
‥‥ 観念から生まれる知識および知的思考が終わった (止んだ) とき、ヴェーダーンタは花開く
知性が真理の把握の邪魔をする、 【 マインドは真理をころす 】 ことがあると……
この場合、マインドを 「意識の中味」 (一般にマインドは「心」と訳される) と解すれば、
二元 (相互補完的な両面) で成り立っている 「現象」 を理解するために「観念」を作り上げて使っている限り (マインド主導である状態) 、非二元の根源にはどー足掻いても辿り着けない
ニサルガ親父の本の中で、聖典 『バガヴァット・ギーター』 は、神 (真我 = 聖クリシュナ) の立場になって読みなさいと云われている
偽物の実体 (つまり 「個人」 の観念としてのアルジュナ) としてではなく、真我 (本当の実体) として読む
> ギーターの際立つ特徴は、主クリシュナは自分がすべての顕現の源泉であるという立場から話しているということだ。
つまり、顕現の立場からではなく、顕現全体は私自身であるという非顕現の立場から話している。
これがギーターのユニークなところである。
‥‥ 聖ラマナ・マハリシは、〇〇派とゆーヒンドゥー教の修行系列に入ったことはない
師匠をもたない独覚の人だから、なおさらインドの土地 (土) そのものの化身 (息子) と云えるかも知れない
それにしても、この山尾さん訳の本に、21才の時の聖ラマナの精悍な光輝く人懐っこい眼差しを写した写真 (ふんどし一丁である) が載せてあるが……
誰かに似ていると思ってみていたら、はたと思い当たった
アルバム 『オフ・ザ・ウォール』 以前の、整形する前のマイケル・ジャクソンによく似ている
聖ラマナの最晩年の、地球を瞳に宿した肖像写真は、誤解をおそれずに云えば、どこかしらゲイっぽい両性具有の印象を抱く
若い時分の私には、ヴィヴェカーナンダの 「男らしく生きよ」 ( 『バガヴァット・ギータ』 のクリシュナ神のお示しにもある) の方が、気持ちよかったものだから、聖ラマナ・マハリシを避けて遠回りしてしまった
> 聖バガヴァット (クリシュナ) は告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。
アルジュナよ、それは貴人の好まぬもので、天界に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。
それはあなたにふさわしくない。卑小なる心の弱さを捨てて立ち上れ。
[ ※ 『バガヴァット・ギーター』 上村勝彦 : 訳- 岩波文庫- より]
‥‥ 聖ラマナは、やはり真の詩人でもあるなと思う
> 【 太陽は輝くだけである。暗闇を見ない。 】
‥‥ このお言葉だけで、真我ひとつの生き方を見事に露わしている
真我 (太陽) は、対象 (暗闇) を持たない絶対主体である
対象物に向かわないのは無欲 (無執着) 、
対象物が現れないのは智慧、
「自己 (真我) 以外の何ものも求めぬ」
「自己 (真我) をけっして離れない」
> さまざまな言い方があるが、 「私が」 および 「私のもの」 という感覚を壊滅させることが究極である。
「私が」 と 「私のもの」 の二つはお互いに依存し合っているので、一方を壊滅させればもう一方も滅びる。
想いや言葉の彼方にあるあの静寂の状態に至るためには、
【 私が 】 という感覚をぬぐい去る 知識 (ジュニャーニ) の道 か、
【 私のもの 】 という感覚をぬぐい去る 帰依 (バクティ) の道 のいずれもじゅうぶんである。
帰依の道と知識の道の究極が一つであり、同じものであることは疑う余地のないことである。
> すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。
だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。
ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読む必要は何もない。
心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。
聖典を読むことによっては、この探究はできない。
人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。
自己は五つの覆い (五つの感覚機能:視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚) の内側にあるが、書物はその外にある。
自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探究されるべきものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。
やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。
[ ※ 引用文中、()内は私挿入 ]
‥‥ 次から次へと (観念を) 積み上げてゆく勉強では、永遠に辿り着けない、
観念で構築した自分なりの空中楼閣が確立する頃、吾々は自分の内に 「明晰さ」 を手に入れる、
しかし、苦労して獲得した膨大な教養も明晰さも、究極では役に立たないどころか邪魔になるとは、なるほど真理とはシンプルなものらしいのう
🔴 付記
ニサルガ親父の弟子のラメッシは、聖ラマナ・マハルシからも生前直接教えを受けていて、次のよーな重要な発言をされています
ラマナ・マハルシの云われた、
“ 「わたしは誰か?」 を問いなさい ”
と英訳されている言葉は、もともとタミル語(「ナン・ヤー」、ナン=私、➡︎サンスクリット語では私=アハン、アが最初でハが最後のアルファベットである、阿吽=オームと同様)で話されていて、その原意は……
“ 【 このわたしとは何なのか? 】 を問いなさい ”
とゆー意味の言葉であったと述べているそーです
「ナン・ヤー」は、母音「あ」のダブルイニシャルで、奇しくも「私は誰か?」も「私とは何か?」も共に頭韻の母音「あ」が重なっている照応が見られる
『ラマナ・マハルシの教え』の翻訳者である山尾三省氏に、求道仲間の漁師(長沢哲夫)が送ってくれた詩の中では、
【私とは・・・?】
という問いのカタチを取っている(最もシンプルな「ナン・ヤー」の訳であろう)
というのも、聖ラマナ・マハリシは、最上のマントラは「わたし」であり、2番目が「オーム」であると言っていたらしい、推して知るべし
思うに「私は誰か?」 では、人格的な存在に限定された答えを促す問いかけにならざるを得ないこともあり、意識がこの人間の身体を超えて拡がるときには相応しくない
「私(自分)とは何なのか?」 のほうが、しっくり来ます
_________玉の海草