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『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

 Supreme River 〜 崇徳院 の隠語としての 「最上川」

2021-07-11 09:49:58 | 歴史・郷土史

__ 梅雨前線の線状降水帯、記録的な大雨に晒されている地方の皆さんに、

お見舞い申し上げます

こちら山形県でも、最上川が氾濫するとエライことになるんです

最上川は、山形県内だけを流れている河で全長229kmもあります(落差5m以上の滝の数は230箇所)

最上川水系の流域面積は、県土の76%を占めていて、そこには県民の約80%の人々が暮らす

文字どおり、山形県の母なる大河なのである

 

 

その「最上川」が、平安末期の和歌の世界では物凄く人気があったらしく、意外の感に打たれたものである

 

> 平安時代の都人 (みやこびと) にとって、みちのくは憧れの地だった。
まして出羽の地に悠々と流れる大河、最上川は、その名の通り、最上の、最高の、大河だった。
そうした最上川の名を崇徳上皇の隠語にする、したということは敬い称えることだったのだと、風太郎は観る。

[※ 林崎風太郎『無刀の芭蕉』より]

本の帯より 推薦の言葉「素人ゆえの奇想天外さ」

      芭蕉翁菩提寺・義仲寺前執事 永井輝雄

依然から「芭蕉の句には何かが隠されている」とは聞いていたが、この本を読んでみると、途方もない展開になっている。                    

保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇の呪いが「武士の世」を招いたという歴史の裏舞台。「言の葉」で上皇の御霊を願う西行、芭蕉、その究極の地は出羽・山形だったー。結果、「奥の細道」200年後、芭蕉が願った「天子さまの世」は復活したーというストーリー。

おそらく、これまでの芭蕉論にはない、全く新しい世界を描いている。素人論ではあるが、壮大な歴史推理小説として一読すら価値はあると思う。いずれにせよ、芭蕉翁への関心を高めるいい機会だ。〜

 

 

‥‥ なんと畏れ多くも、崇徳院=最上川ですと〜

だとすれば、山形県民歌『 御歌 最上川 』は、西行法師から〜松尾芭蕉〜昭和天皇へと連綿と受け継がれた、崇徳院を御慰め申し上げる観音行の一環を、山形県民が知らず知らずに担っていることになるのではあるまいか?

 

(wikiより)> あるとき (1141年以降) 西行にゆかりの人物 (藤原俊成説がある) が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ。(『山家集』より)

最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ 
《意》:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
対して西行は次の返歌を詠んだ。

つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて 
《意》:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい (私の切なるお願いをおきき届け下さい) 。

 

‥‥ 『古今和歌集』巻20 東歌 (詠み人知らず) に、

 最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり 

とあり、この歌を踏まえて崇徳院が上の御製をお詠みになられたよーである

西行法師が、奥羽へ旅立たれた目的は、憧れの最上川を自分の目でじかに見ることにあったよーだ
西行の息子さんだったかが、西行歿後に現在の山辺町に移住して来て、その子孫の佐藤家がいまもご健在だと聞く
その西行の遺志 (崇徳院のご慰霊) を汲んで、江戸期の芭蕉が「奥の細道」を歩いたとゆーことになろー

崇徳院~西行~芭蕉と繋がる「鎮魂」のラインがあって…
芭蕉は句に「裏俳諧」を秘そませたものと云う

芭蕉没後は、俳諧師としての声価いよいよ高まり、没後百年経って「桃青霊神」の号を授かっている、ついで

1806年には、芭蕉に「飛音 (ひおん) 明神」の神号が下賜され…
1843年の、芭蕉150回忌には「花の本大明神」の神号を朝廷より贈られている

 

 …… 「山形県民の歌」のいわれを紹介する。



“ 広き野を 流れ行けども 最上川

海に入るまで 濁らざりけり  ”



> 昭和天皇 (当時は東宮殿下) が大正14年 (1925) 10月14日酒田へ行啓された。
御歌は翌大正15年 (昭和元年・1926年) の歌会始め御題「河水清」に、酒田日和山 (ひよりやま) においての感懐をお示しされたものという。


この御歌は山形県の光栄として、昭和3年酒田市日和山公園に記念碑が建てられ、更に昭和5年、東京音楽学校 (現東京芸大) の島崎赤太郎教授が曲を付け、県民歌として歌われるようになった。

 

【戦前の話だが、「日本🇯🇵の三大県民歌」として、山形県民歌「最上川」、長野県歌「信濃の国」、秋田県民歌がよく知られていたそうです。山形県では現在、学校では歌われていないようです、現在40代以上の方々しか歌ったことがないかも知れません。昭和天皇の御製ということもあり、けだし名曲だと思います。酒席でアカペラで朗々と唄うのも良いかと存じます ♪】

 


時を経て、昭和22年8月来県中の昭和天皇に、上山市出身の歌人斎藤茂吉が弟子の結城哀草果 (山形市) とともに短歌について進講した。
その際、茂吉が「うみに入るまでにごらざりけり」の表現について「実際は降雨が続いたりすると、ものすごい流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだったというエピソードが残る。

 

明治大帝は大霊覚者であらせられたと聞くから、そのお孫さんの昭和天皇の霊力もなかなかのものだったに違いあるまい(隔世遺伝)

崇徳院=最上川 の消息も鎮魂の歴史もご存知だったかも知れない

明治天皇が、明治政府を創るにあたって、四国へ崇徳院をお迎えに勅使をつかわされた消息もよくお分かりであられよう
それゆえ、最上川に仮託して、崇徳院の純粋なる大御心をお詠みになったのに、茂吉翁が理路整然と物理現象をいいつのるものだから、龍顔をしかめられたのではありますまいか?


昭和天皇の「最上川」は、百人一首に撰ばれた崇徳院の御製

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

に対応なさる御歌かと存ずる
同時に、芭蕉の

「暑き日を 海にいれたり 最上川(酒田)」

を承けてもいて……
芭蕉の

「五月雨を あつめて早し 最上川 (大石田)」

も、「瀬を早み」に照応すると観るのは、果たしてうがち過ぎか知らん

ー この昭和天皇御製の山形県民歌は、ほんとうによい唄で口遊むのも気持ちがよい

いまなら、YouTube で聴けるので、ご興味ある向きは是非お聴きになってもらいたい

以上

 

 

 


 スピリチュアル文献における 「多重翻訳」 の弊害

2021-07-10 23:12:32 | 歴史・郷土史

__ 仏教のお経を有り難がる日本の伝統、鳩摩羅什や玄奘三蔵によってサンスクリット語から漢訳されたお経を、漢音(天台宗や真言宗)や呉音で坊主が読み上げるのを、意味も分からぬままに、ありがたがる

仏典は、釈尊が書いたものではない、釈尊在世の頃は文字がなかった

釈尊が亡くなってからすぐに直弟子たちが集まって釈尊の教えを整理したが(五百羅漢による「結集」)……

文字がないから、多聞第一の阿難尊者が記憶していた御言葉を暗誦して、皆でそれを繰り返し口誦して、覚え込んだ

文字が出来て、文書で残すよーになったのは、何回目の結集(けつじゅう)だったっけ?

 

 ―釈尊の入滅後すぐに、
長老のマハー・カッサパ(摩訶迦葉;禅宗の始祖)を中心にして、
律(戒律)はウパーリ(優波離)が、経(教法)はアーナンダ(阿難)が担当され、
500人の、聖者の位に達した仏弟子がラージャガハに集まり…
約7ヶ月もの間、「第一結集(けつじゅう)と云われる、正確な『仏説』を決定する作業が行われたと聞く


この大集会は「合誦(ごうじゅ)」とも云われるよーに、釈尊の教えのすべてを復誦し、全員に確認を求めて記憶するといった遣り方だったらしい
この段階では、まだ文字にはされていない
釈尊の定めた教法や規律は、元来記憶しやすい偈(げ=詩歌)とか短文の形だったよーです

―釈尊は、成文化された『お経』を創作なされてはいないのです

弟子達は、ちょうど語り部のよーに、しっかりと心に刻み込んで暗唱したのです
この「結集」とゆー、いわば編集会議は、その後も続けられます


第二回は、仏滅後100年頃ヴェーサーリーで…


第三回は、没後200年頃パータリプッタのアショーカ王の下で開催


―そして、第四回結集に至って、初めて【文字化】がされたのだと云う
紀元前80年頃、セイロン(現・スリランカ)でだったとも、
紀元後二世紀頃、カシュミールだったとも云われてます

 

原始仏教経典といっても、現在のこっているのはサンスクリット語とパーリ語が主である

釈尊は、生前は地方方言である「マーガディー語(古代マガダ語)」をおつかいになっていたと聞く

つまり、釈尊のもともとの言い回しでは伝わっていないのだ

古代マガダ語→パーリ語→サンスクリット語→漢語(中国語)→日本語

いやいや遠い道のりを辿ってきたものだ

 

こーした多重翻訳のほかに…… 

訳者による改竄や付け足しもされてきたから事は厄介だ

拙稿> 法華経の「方便品第二」は、

漢文を呉音読みしただけなのに、絶妙なリズムと言葉の響きがある


特に、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」
の辺りは、意識が徐々にエレベートしていって昂揚する箇所である

この部分、法華経を最重要経典とする比叡山(天台宗)では、「十如是」と呼ばれ、天台宗の根本教理「一念三千(十界×十界×十如是×三世間=三千)」を構成する重要要素である


しかし、この十如是は翻訳者・鳩摩羅什(クマラジーヴァ、344年 - 413年)が自分勝手にカテゴライズ(意訳)したものとされている、つまりサンスクリット語原典はこうした10分類にはなっていない


天台大師・智顗(ちぎ)は、龍樹菩薩を天台宗の開祖の座に据えているので……
龍樹の自伝をものして、更に『大般若経』はじめ『法華経』をも翻訳している鳩摩羅什は、天台宗にとっても祖師的な立場に位置する大御所とはいえ……  羅什の訳には勝手きままな個人的創意が付け加えられているとゆー事実は驚くべき事である


[※ 『阿弥陀経』が描く阿弥陀仏国の理想境を「極楽」と名づけたのは羅什、極楽に棲む鳥「共命之鳥(ぐみょうしちょう)」は原典にない鳥を勝手に加えたもの 〜やりたい放題 ♪
『般若経』でも、「色即是空・空即是色」は名訳だが、自分の創意からなる「煩悩即道場」を勝手に付け加えている、これが後に天台の「煩悩即菩提」に展開するのだから分からないものだ
『法華経』では、なんと「提婆達多品」を丸々無かったことにして仕舞っている(松岡正剛『千夜千冊』第1300夜参照)]

‥‥ う〜ん、ひどい話だ

釈尊のご口吻を偲ぶよすがもない

スピリチュアル文献では、この手の問題はよくある

インドの聖ラマナ・マハリシにあっても、彼が話していたのは地方方言のタミル語、それを英語に訳して、更に日本語に(ちなみに「マハリシ」はタミル語、「マハルシ」はサンスクリット語)

ニサルガダッタ・マハラジにあっては、彼が話していたのは地方方言のマラティー語、それを英語にして、更に日本語に

いま、ニサルガ親爺の弟子の書物を読んでいるのだが…… 

精神世界の哲学用語「遍在」を、あやまって「偏在」と記してある

> 「私は不死で至る所に偏在する」 [※ 『自己なき自己 ラマカント・マハラジとの対話』ナチュラルスピリット社刊より]

‥‥ これなんか、致命的な誤りだと思うのよね

訳者のミスか、編集者の校正ミスか?

ここ一箇所だけではなく、複数箇所「偏在」をつかっている

いたる処にいます遍在(神のありようとしてよく使われる)を、かたよって存在する偏在と間違えるなんて…… 

現在の文壇および出版関係者は、ここまでレベルが落ちたのかと、独りしみじみ悲しくなってくる

 

ー 結論として、言葉とゆーものを信じてはならないってことだね

いいかえれば、言葉で表されるものは人工のものだとゆーこと

人の思惑以上には出ない、つまり人智を超えた神秘には対応できないとゆーことです

以上