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『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

  釈尊正伝の仏道 (≠仏教) 〜 道元さん、勘違いしながら見神

2021-12-07 06:03:57 | 小覚

__曹洞宗の檀家なのに、道元さんの偉さにはとんと気付かず、伊勢白山道のリーディングで初めて、釈尊の正法を伝える唯一のブッディストだと云ふ道元さんの「見神」に畏れ入った有り様で、

慌てて『正法眼蔵』を覗いてみる

 

道元さんって、肖像画をみると「今でしょ!」の林先生に似ている、あの口元のゆがみに並外れたものを看取する(モーツァルトも歪んでおりますね)

哲人としても、道元さんは、「衆生済度ひとりも漏らさず」の法然さん親鸞さんレベルの世界宗教的な貫禄はある、勇猛日蓮さんと云い、鎌倉時代とは何とゆー人間国宝時代であったろー

 

おふくろを歯医者に連れていった途中で……

お寺の門前の掲示板に、ある言葉が貼られていた

「仏仏祖祖 皆もとは 凡夫なり  道元

 

‥‥ あらま、道元さん、そんなことゆーてはったん?

ネットで探ると、確かに『正法眼蔵随聞記』のなかに……

「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり」とあった

 

 

 

 

ここに、ひろさちや さんの解説を挙げる

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。

若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。

 

「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。

【身心脱落】させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込むそれがほかならぬ「悟り」です。

 

道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。

悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。

「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

 

仏だという自覚があれば、「自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない」と考えて、悪から遠ざかることができます。

それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

 

修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修

修行(修)と悟り(証)が一つ であって別のものではない。

本証とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが妙修です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、

 

- 仏らしく生きるため -

 

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

 

>  釈迦は入滅に先立って、後世の仏教者に遺言された。

「わたしが亡くなったあとは、あなたがたは、自分自身を灯明とし、わたしが教えた真理()を灯明として修行をつづけなさい」と。

>  釈迦の教えた真理を灯明にする(法灯明)のはよくわかるが、

釈迦はそれより前に「自灯明」、自分自身を灯明とせよ、と言っているのだ。

他人がああするからわたしもああする、他人がこうすればわたしもこうするーというのは、およそ釈迦の教えから遠い態度だ。

 

◆仏教においては、強靭なる主体性が確立されねばならない。それが一番大事なことである。

そしてそれが、

「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(道元)

だと思う。

世間の物差しを蹴とばして、まずは主体性の確立ーそれが仏教者の第一歩である。

しかしながら、われわれが主体性を確立すると、「人間が万物の尺度」になってしまう。

 

◆人間の物差しの放棄

「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」(道元)

いったん確立された自己を、仏教者はきれいさっぱり忘れてしまわなければならない。つまり自己をゼロにしてしまうのだ。

それがすなわち「無我」なのだ。そういうパラドックス(逆説)を道元禅師は主張しておられる。

主体性の確立は、とどのつまりは「無我」である。

 

「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」(道元)

万法とは、宇宙の真理である。

しかし、この宇宙の真理をわたしが体得する(悟る)のではない。

わたしが宇宙の真理を悟れば、わたし()が宇宙の真理の上に立つ。それだと自己()を忘れたことにならない。

逆である。

わたし()が、宇宙の真理(万法)に吸収されてしまうのだ。

それが「証せらるゝ」といった受身形の意味である

わたしはすでに人間の物差しを捨てた。それが「自己を忘れた」ことである

人間的な物差しを捨ててしまったその人間が、

そこで 仏の物差しを身に付けるのではない 

ややもすると、仏教の悟りといったものを、仏教で悟りを開くということを、仏の物差しを手に入れることだと思われかねない。

そういう理解の仕方をする人もいるが、道元禅師はそうでは【ない】と言っておられる。

 

わたしたち凡夫には仏の目に見えているものはわからないのだから、

素直に、

「わからない」「不思議」

でよいのである。

 

病気が治るのがいいか、治らないのがいいか、われわれにはわからない。短命が幸福か、長命が幸福か、所詮凡夫にはわからない。

わからないものをわからないまま、そのまま「仏のはからい」と信じさせていただくのが、「万法に証せらるゝ」である。

宇宙の真理 ーそれが仏だー に、自分自身をそっくり預けてしまえばいいのだ。

 

‥‥ ひろさちやさんって、ダライラマ14世に似ていて(つまり俗っぽく隣の親父みたいな印象)、敬遠していた時期があったが、どこから引っ張ってきたのか、上記の解説には凄みがある

 

● 勘違いから 悟ってしまった道元さん

道元さんって、思うに典型的な「日本語脳」で、大陸に渡って結構中国語を勘違いして捉えているなって、いたって面白い一面があらしゃる

 

『正法眼蔵』で、六祖慧能と五祖弘忍との会話(商量)の中で…… 

五祖「そなたはどこから来たのか?」

六祖「私は嶺南人です」

五祖「ここに来て、何を求めているのか?」

六祖「仏になることです」

五祖「嶺南人は無仏性である、どのようにして仏となるのか?」

 

‥‥ この公案についての道元さんの読み方は独特で、

「嶺南人は無の仏性である」(道元)

嶺南人には仏性が有るだの、無いだのとゆー話しではなくて、

どうしてわざわざ仏になろうとするのか、いま無の仏性であるのにと読み解きます

もう一つ…… 

…… 『涅槃経』にある、

《一切衆生、悉有仏性》〜一切の衆生は悉く仏性を有す〜

といった言葉を、道元は、

〜一切の衆生が「悉有」(全宇宙)であり、その「悉有」(全宇宙)が仏性である〜と読んでいます。

[※ 『【新訳】正法眼蔵』ひろさちや・編訳ーより]

 

‥‥ この一節は、漢訳された『涅槃経』を解釈したものですが、翻ってサンスクリット語で解釈すると、道元さんの訳の方がサンスクリット原典に近く正確なものとなるそーです

不思議な話ではあるが、伊勢白山道のリーディングでは、釈尊の正伝は道元さんに伝わった、つまり道元さんは「見神」しているとの見立てなのです

 

 

 

ついでなので、『正法眼蔵』からもう一節とりあげますと…… 

「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない。
自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する。」(ネット上で見られる道元の名言)


‥‥ 道元の名言として、あちこちで目にする現代語訳ですが、訳者が誰なのか、確かに不明です
この条りの原文だと思われるものを引用します


「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、

万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
※ 道元『正法眼蔵』第一巻「現成公案」より


‥‥ ひろさちやさんの現代語訳を参照してみると、
> 「自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、
悟りのほうから自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。」

 

‥‥ この一節からは、道元さんが「自力」に拘らずに「他力(神の恩寵)」までも抱き参らせて仕舞われていることが分かる
前段の「自己を運びて万法を修証する」を、

・西洋式に【初めに自我ありき】


後段の「万法進みて自己を修証する」を、

・東洋的に【初めに無我ありき】


と観たのは、鈴木大拙の弟子・秋月龍珉さんでした
彼の捉えた「無我」とは、「我が無い」ことではなく……
道元さん特有の読み方ですが……

「無という我れ」があること です、

世界そのものが「無の場所」であります

こーして纏めてみると、
前段の「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない」も、
後段の「自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する」も、
ともに「自己を中心にすえた(自己が主体となった)」視点であり、道元さんの原文にある、視点を主客逆転させた妙味が表されておりません
「自己が自由自在に動く」のは、「自分で」そーするからではないからです


「万法すすみて自己を修証する」の解釈は、


「 宇宙そのもの(万法)に溶け込んで自己が自由自在に動かされるとき、

(本来自己の内にある)世界はいきいきと生動する 」

とでも申しましょーか

この名言は親しみやすい意訳ですが、道元さんの意を汲んでいないとゆーのが私の意見です

 

ー道元さんの懐く「サトリ」の感じ方は、自力で掴みとるのではなく、自分をなくして溶け込むと云いますか、受動態で表現しておられる処が間々みられます

これはつまり、「他力」も包含するとゆーことです

一休さんが蓮如と肝胆相照らす仲だったよーに、案外と道元さんの出家主義と親鸞さんの在家信仰はフラクタルなものではないのかなと夢想しています

その意味でも、道元さんが深草で 在家信者のために執筆なされた「現成公案」とか「道心」の章 は、深く吟味味読する必要があるなと思っています

伊勢白山道に拠れば、聖なる十次元(十一次元まである)に参入するためには、神の恩寵が不可欠だと云われていました

聖ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジとの差は、ニサルガ親爺に最後の一押しが足りない、つまり恩寵が降りていないことにあるよーに思います

与える者と受け取る者がひとつ、真我ひとつのありようは、道元さんの内にもみられるとゆー事で、仏道でもここまで行けるとゆー証しがあるのは欣ばしいことである

尚、ラマナ・マハリシと私は表記するが…… 

昨今の表記は、マハルシが主流のよーである

しかし、聖ラマナはタミール語を話したことから、マハルシ(サンスクリット語)よりもマハリシ(タミール語)の方が相応しいのではないかと私考する

            _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智6️⃣〜 “ Knowledge ” 真我ひとつのありよう

2021-12-07 03:33:31 | 小覚

__ Knowledge、大文字に特別な意味を込めました

長年にわたって探し求めてきた 「サトリ (悟り・覚り」 とゆーか、長年にわたって苦しめられてきた 「サトリ」 について……

伊勢白山道で霊的な基本を学んだ御蔭で、つまり 「サトリ」 なんて、そんなに大仰な大したものじゃないよと認識した上で、それでも 「あるがままに」 自由にあるために何としても欠かせない、私が感じた 「真理への知慧 (Knowledge) 」 をまとめておきます

 

伊勢白山道推薦本である、 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの〜時間以前からあった永遠の真実』 の中から、シンプルによく要約されてある

22章 「自己覚醒は努力がいらない」

に沿ってまとめます

 

他ならぬこの本が、聖典級に偉大な処は、ジュニャーニ (賢者) の系統であるにも拘らず、ニサルガ親爺も著者のラメッシも共に 「真我」 とゆー用語を遣っていないことです

真我は絶対主体であり対象にはなり得ないために、それ自体をコトバで表現できず ( 「真我は〇〇である」 と言うことは出来ない) 、否定的表現のみが可能 ( 「〇〇は真我ではない」 と言うことは出来る) であるため、 「真我」 とゆーコトバ抜きでも対話には困らないわけではあるが…… 

ラメッシは、解説する場合には、 「意識」 とゆーコトバで統一して、 「マインド (心と訳される) 」 つまり自我的なものと真我を一緒くたにしない配慮がなされている

 

たとえば、伊勢白山道を例にとると、心の奥底に内在神 (真我) が隠れているといった表現をとっている

[ ※  伊勢白山道は引用禁止なので私の理解の範囲内で勘弁してもらいたい ]

心の一部が真我とか、自我が真我に 「なる」 と勘違いしている読者がいっぱい出てくるわけである、存在とは 「在る」 ものであり、 「成る」 ものでは決してない

つまり、存在と仮象 (現象) との峻別が出来ていない

「こころ」 などとゆー定義の定まらない不安定なコトバをつかっている処に、そーした致命的な誤解が生じる原因があるのである

 

ニサルガ親爺の口から出るコトバは、数学的な精妙さをもって一厘のゴマカシも感じられない、無学な煙草屋のおやじなのに、その御コトバはジュニャーニ (賢者) のそれなのだ

伊勢白山道の霊視では、もう一世生まれ変われば仏陀となれるそーだ、つまり神の恩寵による 「最後の一押し」 が今生でなかったものだから、聖ラマナ・マハリシの境涯には今ひとつ及ばないよーだ

ニサルガ親爺の口吻には、 「感謝」 が感じられないと言った伊勢白山道読者がおられた、最後の究極では「感謝」の形をした自霊拝つまり神の恩寵といったサイクルが必要不可欠なよーだ

 

かといって、聖ラマナの書物の方がよいかとゆーと然にあらず、聖ラマナは 「知識の道 (ジュニャーニ) 」 と「帰依の道 (バクティ) 」 とがご自分の経験のなかで渾然一体となっていて、ニサルガ親爺の如き整合性をもたない処があるのだ

代々賢者の道を辿った、ジュニャーニの系統に連なるニサルガ親爺の徹底ぶりには及ばない処がたしかにある、聖ラマナが詩的であり、ニサルガ親爺があくまでも散文的であるのはそーした立ち位置 (視座) の違いを証しているのかも知れない

 

とにもかくにも、この 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 は、オカルト (隠秘学) に彷徨った魂に安らぎをもたらしたことは間違いない

そして、わたしはこの書を熟読玩味して紙背に徹するほどに精読した結果、畏れ多くも推薦してくださったリーマンさんの真理表現に疑問を抱くよーになったのである

伊勢白山道に公然と文句をつけられるほどの存在論的確信にいたる基盤をつくってくだすった得難い書である、戦役とか無人島に一冊だけ持っていけるとしたら、わたしは迷いなくこの書を択ぶだろー

 

 

 

【画像= 私なりに一言でいえば、 

「霊的探求の旅を終らせる書」 である、真実へのアプローチを教えるアドヴァイタ (非二元) の智慧、いわば 「最後の知識 (Knowledge) 」 とでも云えそーなシンプルな観方を伝える、ここから先はコトバ (観念化の道具) が役に立たないどころか、かえって邪魔になる】

 

 

‥‥ 、マハラジはしばしば訪問者たちに強く勧告します。

「あなた方は言われたことについて何を質問してもいいが、ただし 自分自身を肉体と一体化せずに 質問しなさい」

 

なぜマハラジは、質問者が肉体との一体化を解除するべきだと主張するのでしょうか?

その直接的な答えとは次のようになるでしょう〜〜なぜなら、

一つの対象物その主体を理解することを想定できないからです。

つまりは、自分がその影である本体を理解することが不可能だということです。

自分自身を自立的実体として肉体 (それは単なる肉体精神装置、一個の対象物にすぎませんと一体化している観念的 「個人」 がいるかぎり、対象物にまったく影響されない絶対について、人が何かを理解することは可能でしょうか?

 

‥‥ 私なりの  [註]  をいれます

・ 「一つの対象物 (object、客体」 自我としての自分自身

・ 「その主体(subject)」 真我

・ 「影」 光に照らされたときの本体  (真我の影、つまり自我

観念的 「個人」 自我

・ 「対象物にまったく影響されない絶対」 = 自我および自我の創り出す対象物にまったく影響をうけない絶対主体の真我

真我 (絶対的に見る主体は  対象 (見られるもの・客体になることがない

それゆえに 「真我は〇〇である」 と現象世界の言葉で言うことが不可能である…… この場合、真我 = 〇〇であるならば、言葉で限定された対象である〇〇が真我であることになる

 

しかし、真我  ≠  対象 ()  であるからにして

「〇〇は真我ではない」 と否定的表現をすることは可能だが、 「〇〇が真我である」 または 「真我は〇〇である」 と限定 (言葉の制約によるして言うことは出来ない

とすれば、現象世界で私たちの知覚できるものは (私たちが主体となって、対象として知覚できるものはすべて、当然ながら真我ではない

 

>  「観念は思考から生じ、これらが一束になってマインドとして知られているものを形成する」 と彼 (マハラジは言います。

「考える」 とは、観念化、マインドの中で対象物を創造することを意味し、これが 束縛 です。

言葉は根本的に二元的で観念的なので、悟りへの妨げとなります。言葉はコミュニケーションのための一時的目的のためだけに役立つことができますが、そのあとではそれらは束縛です。

観念的に考えることを取り除く ことが、悟り、目覚めという意味であり、それ以外では、誰もそれを 「達成」 したり、 「獲得」 したりすることはできません。

「悟り」 は、どんなときにもどんな場所でもどんな人によっても、獲得されるべき 「物」 ではないのです。

マハラジの言葉を矢のように貫通させることが、この 【 直観的理解 】 をもたらし、それが悟りです!

 

> …… マハラジは 「 (直観的理解の効果を上げるためには、私の言葉が矢のように貫通しなければならないし、私は意識に話しているのであって、どんな個人に話しているのでもない」 と言います。

 

‥‥ 実に簡単な定義です

ヒトは 「考えること」 で、それを観念化します

そしてその観念を受容れることによって、自分自身を自ら束縛しています

 

例えば、グルジェフが皮肉めいて云っていたのは、

何の前触れもなく女が暴れるとき、毎度苦慮する男はそれを 「ヒステリー」 と名づけた、しかし、そのよーに命名 (概念をつくるしたからといって……

それが 「ヒステリー」 だと分かったところで (被害者は自分だけではないとゆー慰めは得られるが、それは一体何なのか、何が原因で起こるのか分かったわけではない、ただの対象化であり観念化であるに過ぎない

こんな事は世の中一杯ある、観念の遊戯・言葉遊びみたいなものである

 

「あなたが言わんとしていることは、 『私たち』 それ自身が観念的に考えることの一部であるということですね? 完全なる幻想ということですね ?

この段階でマハラジは、彼がいつも言ってきたことを繰り返しますーー すべての知識は観念的であり、それゆえ、真実ではない

このことを直観的に認識し、知識の探求をあきらめなさい。

 

> …… 最初にまず取り除くべき障害がある。

考えること」 、 「観念化」 、 「対象化」 、すべてが停止しなければならない。

なぜだろうか?

それは あるがまま は対象性のほんのわずかな影響も受けないからだ。それは、すべての対象物の主体であり、一つの対象物ではないので観察されることができない。

目はそれ以外のすべてを見ることができるが、それ自身を見ることはできない。

 

‥‥ 「あるがまま」 とは真我の状態、真我の絶対主体としての能動性を 「目」 で例えている (よく 「太陽」 にも喩えられる)

実際には、この絶対主体ですら真我には当てはまらない、分離がないから主体も客体もない

真我は、真我を知らない、真我を意識しない

「考えること」 「観念化」 「対象化」 は、真我にはまったく繋がらない、真我に決して導かない

 

>   「人は観念化を止めるために、何をするべきか、どんな努力をしなければならないのか?」 という質問に対するマハラジの答えは次のことですーー何もない。どんな努力もない。誰が努力をするというのか?

母親の子宮の中で小さい精子から完全に成長した赤ん坊になるために、あなたはどんな努力をしたのだろうか?

そしてそのあと、数ヶ月間であなたは無力な赤ん坊から幼児へと成長したが、あなたが自分の存在を感じるためにどんな努力をしたのだろうか?

 

自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。

それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こる ことができるだけだ。

それは、それが現れることができる空っぽな空間が与えられるときだけ現れることができる。

もし誰か他の人がこの家に住んでいるとしたら、私はまずそれを空っぽにしなければならない。

もし観念的 「私」 がすでに占拠しているなら、どうやって悟りが入って来ることができるだろうか?

 

考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の 「努力」 もそうである!

唯一の効果的努力は 真実を瞬間的に直観的に理解すること である。偽者を偽者と見れば、残るものが真実である。

今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。それくらい単純である。

実存するものの不在がその唯一の答えである。

 

‥‥  「私」 を家で喩えて、すでに 「自我 (観念」 が家を占拠しているならば、 「サトリ」 が訪れる余地はないと云ふ

家を一度元の (本来の状態 = 「空っぽ」 にしなければ、新しい何かが入ることは出来ない道理

先入観を、自分の家に住まわせていては、新たなものが入ってこない

同様に、自分の家に自我が棲みついている限り、真我のおとづれはあり得ない

この辺りは、道元さんの 『正法眼蔵』 現成公案の条りによく似ている

「自己を忘るる」 と、サトリの方からやって来るとな

            

ー 「現前に展開する世界は、すべて幻影 (マーヤーである」 とゆーヒンドゥーの世界観は首肯できる

ここで忘れてはならない事は、その世界観を受け容れている当の本人も幻影であるとゆー厳然たる事実である

ヒトは、真我そのものを観受できないにしても、何か偽りの実体 (実存については、たしかな感触を間違いなくもっているらしいことに私は驚いている

その感触が、ヒトをして真理 (真実に向かわせる原動力になっているのであろー

やはり私が不運に見舞われてきた事が、日常の実践の中で養われる堅実な信仰へと導かれたのだと思う

 

> 「不運に見せかけた幸運」 (オノヨーコ談、NHK 『ファミリー・ヒストリー』 より)

 

そして必死の彷徨の末に、伊勢白山道に邂逅できたことに心の底から感謝しております

信仰の本質は、設備もお金も外在する神も要らないこと、ただ内なる神に心を向けるだけでよいとゆーシンプルな生き方 (行き方) ……

その生きたお手本となるヒンドゥーの聖者たち、

おそらくインドに覚者が頻繁に現れるのは、その 「存在 (私は在る」 とゆーものへの知慧 (悟り・Knowledge) が本質を衝いているからだと思う

その究極にあるのが、真我実現、おそらくさしたる難事では実はないのだろー

           _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智5️⃣〜 詩人・山尾三省の印度理解

2021-12-07 03:06:55 | 小覚

__過去と未来については、ニサルガ親爺 (ニサルガダッタ・マハラジ) が気の利いたことを云っておられました

過去は 「記憶」

未来は 「期待」

「現在を過去と一体化し、それを未来へと投影するため」 に、 「人格」 とゆーものが立ち現れると…… 

自分自身を過去も未来もない一瞬のものと考えるなら、そのときどこに人格があるだろうか?

これを試して、自分自身で発見しなさい。

  『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 より]

 

昔購入した、聖ラマナ・マハリシの本を読み返しているのだが、あいまにニサルガ親爺の本を再び読んでみると、えらく難しいものに感じる

算数と数学くらいの違いはありそー

ニサルガ親爺の言葉は、明確で曖昧さが無い

ほとんど数学みたいな精確さである

 

(今頃になって気がついたのだが親爺は、 「真我」 とゆー言葉をつかっていない (訳者がつかっていないだけなのか?)

「自我」 はじめ、本当の自分 (=真我ではないものを削ってゆけば、残ったものが 「真我」 だから……

「真我」 とゆー言葉をつかわなくとも、云えることは云える

 

ニサルガ親爺は、ダルシャンで会話する時でも、聖典や過去の聖者の言葉を引用したりすることを全くしない

すべて、ゼロから自分のオリジナルな言葉で語りかけているのだ (この辺の徹底ぶりは讃嘆に値する)

物凄い自信とゆーか全き確信を抱いておられるのだ

 

だから、 【最後の知識】 と私が秘かに呼んでいる 「たった一つの認識」 ……

【 真我ひとつの内的認識 (存在認識) 】 を、ニサルガ親爺を通じて実感できたならば、ほかのアドヴァイタの聖者の書も基本判るはずだと、

多少の訳の間違いは自ら訂正できるはずだと思い直し、昔の聖ラマナの本も読んでみることにした

いままでは、誤訳がこわくて打っ棄っていたのだ

 

ーで、詩人の山尾三省訳 『ラマナ・マハリシの教え』 めるくまーる社刊-  に着手……

この日本に初めて聖ラマナ・マハリシを紹介して下すった先人である

この人の、 「土」 とゆー詩は心揺さぶるんですよ

> 土は 静かである

土の静かさは 深い

人間の どんな沈黙よりも

土の沈黙はさらに深い

鍬という

人間の道具をたよりに

その沈黙を掘る

 

 

 

【 画像= 新しく刊行された本は 『ラマナ・マハルシ』 と表記されている、マハルシ → サンスクリット語、マハリシ → タミール語 (聖ラマナが日常つかっていた言語) 】

 

【 画像= 私の愛蔵本、もともとはこんなジャケットであった 】

 

 

‥‥  「シュリ・ラマナはインドの大地の真の息子である」で始まる、C. G. ユング の推薦文が、本の序文として掲載されてあるのだけれど、

なるほど聖ラマナは、賢者 (ジュニャーニ) の系譜で語られるものの、もともと師匠もおらず、聖山アルナーチャラの神の恩寵によって、独覚にいたったとゆー極めて珍しい聖者である

 

生涯にわたってアルナーチャラ山から一度も離れなかったので、この近辺のことしか見聞していないはずなのだが、大地の精霊 = 地球霊を信仰することで総べてを知ったのだとか…… 

聖なるアルナーチャラ山そのものが、蒼きシヴァ神の顕現であり、日本では地蔵であり、虚空蔵をも含めた 「蔵王」 でもあらせれる真スサノオ神の特徴は、縁の下の力持ち的な 「土」 (肥沃な土は水を豊富に含むに顕されているのではないかと思った

 

この翻訳者である詩人は、 「真我」 と訳さずに 「自己」 と訳されている

わたしたちは、何か特別なものであるかの如く 「真我」 と大仰に言い慣わしているが……

 

英語では、単なる 【 Self 】 であり、

自我あるいは個我は、単なる 「 self 」 である

 

大文字か小文字かの違いしかなく、見かけは一緒だとゆーことを表しているのか知らん

「真我」 はつまり、修行して苦心して辿り着くよーな超越的なものではないのだ

偽りを偽りと見抜く眼があれば、自己 (本当の自分・真我と非自己 (偽りの自分・自我を同一視しない 【 正知  (最後の知識】 があれば、いまそのままに真我として在る

 

山尾さんの詳細な脚注 (訳註がまた佳い

ヒンドゥー社会にあっては、

ヴィシュヌ神系列の神々、クリシュナ神やラーマ神を信仰する人々を ヴァイシュナヴァ と呼び、

シヴァ神の系列の神々を信仰する人を シャイヴァ と呼ぶ。

また、ブラフマン=アートマンという非人格的な実在する真理を追求する道を ヴェーダーンタ と呼ぶ。

一方で、神への愛を中心に信仰をすすめる人々を バクタ と呼び、

神の知識あるいはブラフマンの知識を自分に実現しようとする人々を ジュニャーニ の名で呼ぶ。

ラマナ・マハリシは主としてジュニャーニの人である。

本書の訳出にあたっては、バクティを帰依と訳しているが、それは深い愛を抱いて神に帰依することを意味している 「信愛」 と訳されることもある

 

ラマナ・マハリシが 「自己」 と呼んでいるのは22ページに語られているごとく、アートマンのことであり 「真我」 と訳されることもある、師はヴェーダーンタの道の人であるように見えるが、師がアートマンと呼び、ブラフマンと呼ぶものは、実はシヴァ神そのものである。

ヒンドゥー社会の信仰の森は奥深く、一見複雑であるが、基本的にこれらのことを了解されて読み進められたい。

 

‥‥ 印度の先賢たちの真理への探究心は、  「ヴェーダーンタ = 知識の終わり」 と名乗る宗派まで立ち上げているわけだ

 

> ヴェーダーンタ    Vedanta

文字どおりには、ヴェーダの終り。 ( veda+anta   終わり。ヴェーダーンタは六つのヒンドゥー哲学の学派の一つ。アドヴァイタ・ヴェーダーンタはヴェーダーンタのもっとも有名な分派。

[ 引用 ; 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 の巻末の用語解説より ]

‥‥ いみじくも、 「ヴェーダの終り」 を標榜している

 

> ヴェーダ    Veda

啓示された知識、ヒンドゥー教のもっとも古代の聖なる文献。 [ 同上より引用 ]

‥‥ 観念から生まれる知識および知的思考が終わった (止んだとき、ヴェーダーンタは花開く

 

知性が真理の把握の邪魔をする、 【 マインドは真理をころす 】 ことがあると……

この場合、マインドを 「意識の中味」 (一般にマインドは「心」と訳される) と解すれば、

二元 (相互補完的な両面で成り立っている 「現象」 を理解するために「観念」を作り上げて使っている限り (マインド主導である状態) 、非二元の根源にはどー足掻いても辿り着けない

 

ニサルガ親父の本の中で、聖典 『バガヴァット・ギーター』 は、神 (真我 聖クリシュナの立場になって読みなさいと云われている

偽物の実体 (つまり 「個人」 の観念としてのアルジュナとしてではなく、真我 (本当の実体として読む

ギーターの際立つ特徴は、主クリシュナは自分がすべての顕現の源泉であるという立場から話しているということだ。

つまり、顕現の立場からではなく、顕現全体は私自身であるという非顕現の立場から話している。

これがギーターのユニークなところである。

 

 

‥‥ 聖ラマナ・マハリシは、〇〇派とゆーヒンドゥー教の修行系列に入ったことはない

師匠をもたない独覚の人だから、なおさらインドの土地 (そのものの化身 (息子と云えるかも知れない

それにしても、この山尾さん訳の本に、21才の時の聖ラマナの精悍な光輝く人懐っこい眼差しを写した写真 (ふんどし一丁であるが載せてあるが……

誰かに似ていると思ってみていたら、はたと思い当たった

アルバム 『オフ・ザ・ウォール』 以前の、整形する前のマイケル・ジャクソンによく似ている

聖ラマナの最晩年の、地球を瞳に宿した肖像写真は、誤解をおそれずに云えば、どこかしらゲイっぽい両性具有の印象を抱く

 

若い時分の私には、ヴィヴェカーナンダの 「男らしく生きよ」 『バガヴァット・ギータ』 のクリシュナ神のお示しにもある) の方が、気持ちよかったものだから、聖ラマナ・マハリシを避けて遠回りしてしまった

 

聖バガヴァット (クリシュナ) は告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。
アルジュナよ、それは貴人の好まぬもので、天界に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。
それはあなたにふさわしくない。卑小なる心の弱さを捨てて立ち上れ。


[ ※ 『バガヴァット・ギーター』  上村勝彦 : 訳-  岩波文庫- より]

 

 

‥‥ 聖ラマナは、やはり真の詩人でもあるなと思う

>   太陽は輝くだけである。暗闇を見ない。 】

 

‥‥ このお言葉だけで、真我ひとつの生き方を見事に露わしている

真我 (太陽は、対象 (暗闇を持たない絶対主体である

対象物に向かわないのは無欲 (無執着

対象物が現れないのは智慧、

「自己 (真我以外の何ものも求めぬ」

「自己 (真我をけっして離れない」

 

さまざまな言い方があるが、 「私が」 および 「私のもの」 という感覚を壊滅させることが究極である

「私が」 と 「私のもの」 の二つはお互いに依存し合っているので、一方を壊滅させればもう一方も滅びる。

想いや言葉の彼方にあるあの静寂の状態に至るためには、

 

【 私が  という感覚をぬぐい去る 知識 (ジュニャーニの道 か、

【 私のもの  という感覚をぬぐい去る 帰依 (バクティの道 のいずれもじゅうぶんである。

 

帰依の道と知識の道の究極が一つであり、同じものであることは疑う余地のないことである。

 

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。

だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。

ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読む必要は何もない。

心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。

 

聖典を読むことによっては、この探究はできない。

人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。

自己は五つの覆い (五つの感覚機能:視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚の内側にあるが、書物はその外にある。

自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探究されるべきものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。

やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

引用文中、()内は私挿入 ]

 

 

‥‥ 次から次へと (観念を積み上げてゆく勉強では、永遠に辿り着けない、

観念で構築した自分なりの空中楼閣が確立する頃、吾々は自分の内に 「明晰さ」 を手に入れる、

しかし、苦労して獲得した膨大な教養も明晰さも、究極では役に立たないどころか邪魔になるとは、なるほど真理とはシンプルなものらしいのう

 

🔴  付記

ニサルガ親父の弟子のラメッシは、聖ラマナ・マハルシからも生前直接教えを受けていて、次のよーな重要な発言をされています

ラマナ・マハルシの云われた、

“ 「わたしは誰か?」 を問いなさい

と英訳されている言葉は、もともとタミル語(「ナン・ヤー」、ナン=私、➡︎サンスクリット語では私=アハン、アが最初でハが最後のアルファベットである、阿吽=オームと同様)で話されていて、その原意は……

“ 【 このわたしとは何なのか】 を問いなさい

とゆー意味の言葉であったと述べているそーです

「ナン・ヤー」は、母音「あ」のダブルイニシャルで、奇しくも「私は誰か?」も「私とは何か?」も共に頭韻の母音「あ」が重なっている照応が見られる

『ラマナ・マハルシの教え』の翻訳者である山尾三省氏に、求道仲間の漁師(長沢哲夫)が送ってくれた詩の中では、

【私とは・・・?】

という問いのカタチを取っている(最もシンプルな「ナン・ヤー」の訳であろう)

というのも、聖ラマナ・マハリシは、最上のマントラは「わたし」であり、2番目が「オーム」であると言っていたらしい、推して知るべし

思うに「私は誰か?」 では、人格的な存在に限定された答えを促す問いかけにならざるを得ないこともあり、意識がこの人間の身体を超えて拡がるときには相応しくない

「私(自分)とは何なのか?」 のほうが、しっくり来ます

          _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智4️⃣〜 印度人の祈りの力

2021-12-07 02:35:22 | 小覚

__よく見かける、マハトマ・ガンディーの言葉ですが、

[ ガンジーよりもガンディーの方が実際の発音に近いそーです、南アで弁護士やってたりもした彼は、本来は実際的な実務家で宗教的な人ではなかったのだが、母国ヒンドゥーの叡智を、意外にも「神智学協会」を通して学んでいます、唯一の所蔵本『バガヴァット・ギーター』も神智学協会の訳でした]

 

心からの祈りによって成し遂げられないものは、この世に無い。(ガンディー)

 

‥‥ 彼のこの言葉をどー観るか、

私自身祈らないし、祈りで物事が実現するとは露いささかも思っていないからだ

しかし、インドにおける「祈り」とゆーものを観てみると、風土の違い、その真剣さに驚くことがある

古代インドから連綿と続く「祈りの功徳」について、ひとつの伝承を取り上げたい

 

谷崎潤一郎『ハッサン・カンの妖術』及び、芥川龍之介『魔術』に同様に登場する印度人マティラム=ミスラ氏の注目すべき発言から引用する

「‥‥ 一体、印度人の信仰から云うと、Asceticism(難行苦行)は、人間が神に合体するために是非とも必要なものなのです。

われわれの持っている悪は、すべてわれわれの物質的要素、即ちこの肉体から来るのですから、出来るだけ肉体を苦しめることによって、われわれの霊魂は次第に宇宙の絶対的実在と一致します。

仏教で云えば、起信論のいわゆる浄法薫習(くんじゅう)です。

われわれの肉体を苦しめる度がより強ければ強いだけ、霊魂は神の領域に昇って行きます。今まで肉体の牢獄に繋がれていた魂が、宇宙の精霊に薫習するに従って、こんどは物質の世界を支配するようになる。

結局、どんな人間でも苦行に服しさえすれば、此の世の中のことは、必ず当人の思うがままになると云うのです。

 

だから、ここにある人がいて、何か一つの神通力を得ようと思えば、難行の功徳でその目的を達することが出来るのです。

あなたはマハバアタの中にある二人の兄弟の話を知っているでしょう。彼らは三世(スリーワールズ)を支配しようという【祈願】を立てて、さまざまの難行に服しました。

例えば、頭のてっぺんから足の先まで、体じゅうに泥土を塗って、木の皮の衣を着て、ヴィンディヤの山巓に閉じ籠ったり爪先で立ったり、数年間もまばたきをしないで眼をあけていたり、断食断水をやったり、最後は自分の体の肉を割いて、火中に投じたりしたものです。

この時、ヴィンディヤの山は燃えるような兄弟の信仰のために熱を発し、天地の神々は兄弟の宿願の大規模なのに恐怖を感じて、能う限りの迫害を加えました。

しかし彼らはついにこれらの困苦に打ち克って、

梵天(ブラアマ)から望み通りの権力を授けられたのです。

以上の神話でも判るように、難行の目的は必ずしも罪障消滅にあるのではなく、むしろ此の世で擅(ほしいまま)な暴力を振い、もしくは敵を征服したいというような、反道徳的の動機のものが多いようです。

ひっきょう不屈不撓の意志を以て飽くまで苦行を続けさえすれば、その人間はどんな偉大な宿願をも成就することが出来るのですから、一とたびそういう行者が現われると、他の者は、人間でも神様でも大恐慌を来たします。

その証拠に昔ウツタナバダ王の王子で、僅か五歳の少年が大願を発したために、世界じゅうの神々が大騒ぎをしたという伝説があります。

少年は継母の妃に虐待されて、国王の位を継ぐことが出来ない代りに、宇宙第一の権力を得ようとして、天人、夜叉、阿修羅などの妨害を物ともせず、執拗に難行を継続しました。

すると神々は驚き、惶(あわ)てて ヰ゛シエヌの大神に救いを求め、漸くヰ゛シエヌの調停によって、少年の野望に制限を加えたのです。

少年の魂は天に昇って北極星になりました。

このように、人間の難行苦行は神々の脅威となるばかりでなく、神々自身もまた難行を必要とする場合があって、あの造物主の梵天でさえ常に行を修めなければならないのです」

[ 稲垣足穂『男性における道徳』(中央公論社刊)より〜「梵天の使者」の引用文、つまり谷崎『ハッサン・カンの妖術』の孫引き]

 

‥‥ 文中の「ヰ゛シエヌ」とは、おそらく「ヴィシュヌ神」のことだと思われる

ミスラ氏は、西洋哲学について次のよーな事も言っている

(ミスラ氏)は、西洋のメタフィジックと、大乗仏教の唯心論とを比較して、東洋人の【事物の核心を捉える直覚力】は、西洋的論理の及ぶ所ではないと云った。

「哲学や宗教の極致が、現象の奥に潜んでいる実在を洞察して、大悟徹底することにあるのだとすれば、東洋の方が西洋よりも遙かに進んでいます。

西洋人の得意とする【分析だの帰納では、現象の奥まで突き入ることが出来ない】からです」

‥‥ ミスラ氏の語る、印度人の祈願に対する姿勢は、わたしたちのそれと余りにも違いすぎて笑えるほどに怖いものだ

神々が大慌てでとりなしに入る件りは、釈尊が大悟なされた時(誰も分からないだろーから、このまま隠遁しようとなされた)に、梵天が慌ててとりなしに入った「梵天勧請」の故事とそっくりである

それにしても、人間が抱く不退転の祈願は神々の干渉さえも受けるとは面白いものだ

どーも、「欲」と「発」は同じもののよーだ

「欲する」も、仏道で発心する場合の「発する」も、印度人の論理ではさほど変わらない

ここでは、祈りも徹底すると世界を支配するほどの権力を得ることもあるとゆー、「人為」の究極の姿を垣間見る思いがする

 

古代インドの世界観は、須弥山(しゅみせん)という架空の大高峯を中心とする天動説的宇宙観であった

須弥山は、何も仏教の専売特許ではないのだとか……

キリスト教は、近代に発達した科学に則って、地動説を導入しているらしいが……

仏教の、例えば奈良の薬師寺の先先代だったか橋本凝胤師は、東大インド哲学科卒の当代きっての学僧であったが……

徳川夢声との対談で、「仏教は天動説で一向に構わない、それで何も不自由せんから」と、堂々と週刊誌上の対談ながら、地動説(=科学)を正式に否定したことがある

奈良の薬師寺や興福寺は、京都の清水寺と同じく、玄奘三蔵の創始になる「法相宗(唯識派)」である

戒律も厳しく、生涯独身を貫くインド仏教直輸入の宗派である

「唯識三年倶舎八年」という言葉が有名だが……

専門の学僧が、倶舎論を八年やってから唯識論を三年やって、やっと理解ができる位に難解な仏教哲学であるとゆー謂なのだとか

 

まー、そんな高度な哲学的思索の結晶が、ヒンドゥーの叡智として結実しているわけだが……

西洋の、例えば学者としても高名なゲーテは、奥深い洞察の持ち主であったが、その彼にして「不可知論」に帰着するしかなかったのに対し……

インド人は、「分からない神秘」を現前にして、どこまでも究明する姿勢を棄てることなく、とうとう真我ひとつの非二元に辿り着いたことは、返す返すも偉大なことだと思う

西洋の皮肉屋は、こー言った

「普通の人々はお祈りしない。ただ、お願いするだけだ」(バーナード・ショウ)

あるいは、

「祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ」(セーレン・キェルケゴール)

「お祈りすることは思い出すこと」(モーリス・メーテルリンク)

‥‥ いづれも、記憶に残る名文句ではあるが、ただそれだけのこと

インド人は、先ず永遠不滅の世界(存在)と生滅輪廻の世界(現象)とを明確に分けた

変わらざる存在にのみ注視したのである

人類の共有意識に溶け込んだと伊勢白山道の見立てで云われている、釈尊とラマナ・マハリシは奇しくも印度人である

ゼロを発明し、IT業界で幅を利かせるのも印度人である

印度人マハトマ・ガンディーは、冒頭の言葉を本気で云ったのですね

インドでは、祈りとはそーいったものなのですな

           _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智3️⃣〜 三島由紀夫が惚れ込んだ、難解なる 「唯識」

2021-12-07 02:26:25 | 小覚

__唐突に三島由紀夫を引っ張りだすのは、他でもない、「嘘でかためたような男」 ゆえに 「戯曲の天才」 であった三島は、説明するのが抜群に上手い作家であるからだ

 

或る人の云うには、凡百の専門用語だらけの仏教解説書で苦労して勉強するよりも、 『豊饒の海』 に書いてある仏教解説を読んだ方が、百倍も分かりやすいと…… 

わたしは、瀬戸内晴美と同意見で、彼の 『禁色』 が傑作だと思うが、云われてみれば確かに三島由紀夫は説明・描写が抜群にうまい、冗長にならずよく纏まっている感じがする

 

ならば、難解で知られる 「唯識」 思想も、彼の講釈の魅力で突き抜けてみよーと…… 遺作 『豊饒の海』 全4巻に手を出してみた

この縁ができるまで永かった___いざ、水のない大海(豊饒の海 = 月世界の海) に漕ぎ出さん

 

 

 

第三巻 「暁の寺 (ワット・アルン」 に、待望の 「唯識 (ゆいしき」 誕生の内幕が書かれていたので引用する

 

学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のような六期に分たれる。

 

第一期は  梨倶吠陀 (リグヴェーダの時代 である。

第ニ期は  祭壇哲学の時代 である。

第三期は 【ウパニシャッド(奥義書哲学)】の時代 で、

西暦紀元前8世紀から5世紀に及び、梵と我 (アートマンの一体を理想とする自我哲学の時代であるが、

輪廻 (サムサーラの思想はこの時期にはじめて明瞭にあらわれ、これが業 (カルマの思想と結びついて因果律を与えられ、我 (アートマンの思想と結びついて体系化されたのである。

第四期は  諸学派分立時代 である。

第五期は、紀元前3世紀から紀元1世紀にいたる

【小乗仏教完成】時代 である。

第六期はその後500年に亘る

【大乗仏教興隆】時代 である。

 

問題はその第五期であって …… (略)……   《輪廻転生を法の条文にまでとり入れている「マヌの法典」は、この時期に集大成された》

同じ業思想でも、仏教以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然 (かくぜんとちがっている。

どこがちがっているかというと、我 (アートマンが否定されたのである

仏教の本質は正にここにあると謂ってよい。

 

仏教を異教と分つ三特色の一つに、諸法無我印というのがある。仏教は無我を称えて、生命の中心主体と考えられた我 (アートマンを否定し、否定の赴くところ、我 (アートマンの来世への存続であるところの 「霊魂」 をも否定した。

 

仏教は霊魂というものを認めない…… ()……

しかし、ここに困ったことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、

悪業によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?

我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのであろうか?

 

仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、こういう矛盾撞着に苦しんで、各派に分れて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかったのが、小乗仏教の300年間だと考えられるのである。

この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが……

三島由紀夫 『豊饒の海』 第三巻 「暁の寺」 -新潮文庫- より]

 

 

‥‥ なんのことはない、「唯識」 で、吾々の六感にあたる六識の先に、第七の 「末那識 (まなしき」 を立てて、更にその奥に第八にして究極の 「阿頼耶識 (あらやしき」 を設ける

阿頼耶識 (蔵識) に、経験・痕跡が薫習 (くんじゅう = 香りが衣服に付く様) させられて種子 (しゅうじ = 行為を生む力) が蓄積されるとか、よく出来た循環理論でもってあらわし、要するに輪廻する魂・霊のよーな主体を認めないのです、 「人空 (にんくう = 実体的な常住不変な自我はない) 」 とするのです

 

仏教が我 (アートマンを認めないとは、 「真我 (アートマン」 を認めないとゆー事である

 

よくこんな手の込んだ上書き修正を考えついたものだ、仏教が釈尊の 「本生経 (ジャータカ、前世物語」 を重んじるあまり、こーまでして、 【 輪廻転生する主体を見つけなければならなかった 】 とは同情に堪えない

唯識派としては、唯識の誕生する少し前に誕生した、龍樹菩薩の 「中観 (中道の意味派」 の誤りを補正する意味合いもあったとか……

なんかヒンドゥー教のアドヴァイタ (不二一元論の方が、すっきり纏っている感があるが……

それは、龍樹の天才的理論を、西暦700年頃のシャンカラ (インド最大の哲学者が見事なまでにヒンドゥー教に借用したせいでもあると云う

 

ヒンドゥーのヴェーダーンタは、「ヴェーダ(聖典)の終わり」を意味していて、知性や論理や知識を否定したところから出発している

 

近代でも、聖ラマナ・マハリシやラーマ・クリシュナ (直弟子のヴィヴェカーナンダを含め) 、ニサルガダッタ・マハラジなどの世界的に知られた聖者を生み出した印度の伝統とは凄まじいものがある

次々と死骸が流れてくる、不衛生極まりないガンジス川で沐浴しても、病気にかかる人はいないとゆー、歴代聖者たちの祈りの力…… 

世界宗教会議にも列席した超インテリのヴィヴェカーナンダは、頭から馬鹿にしていた 「偶像崇拝」 で、師ラーマ・クリシュナから神を体感させられたと聞く

真実は、聖典や科学のコトバよりも雄弁に心に響く

>  「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する‥‥ 語りえぬものについては沈黙しなければならない」 (ヴィットゲンシュタイン)

 

 

ー三島由紀夫が、他ならぬ 「唯識」 に目をとめて、その哲理を礎に輪廻転生の物語を綴ったことに、何か惹かれるものがあった

エラノス会議の碩学・井筒俊彦博士が、丹念に 「阿頼耶識」 の究明にあたられていたことを考えると、単なる上塗りの理屈ではないのかも知れない

 

ただわたしは、釈尊の 「無我」 ってのはどーなのかと疑問に思っていて、ニサルガ親爺の 「真我ひとつ」 の明晰さに 「真理のシンプルさ」 を洞察するのであるが如何なものだろーか?

とはいっても、 「世界は私の内にある」 よりも 「私は大自然の一部である」 の方がしっくり来るであろー、謙虚と云われる伝統的な日本人にしたら 「無我」 とゆーものは案外と親和性のあるものかも知らん

「滅私奉公」 とか、 「幕末の無私の志士たち」 とかが無性に好きな民族ではある

 

しかし、車のクラクションにしても 「存在の主張」 であるインド人にしてみれば、大自然 (神) のうちに消え入りそーな 「無我」 とは容認できないものじゃないかな?

まだしも真言密教の 「大我」 の方が、インドには馴染みがあるよーな気もする

やっぱり 「無我」 となると理屈くさくなると思うんだよね、

シンプルに真我 (=Self) ひとつとすれば、自我 (=self) との折り合いもスムーズなよーに感じるのだが、如何なものか?

            _________玉の海草