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裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 の抜き書き (2)

2022-01-22 15:12:00 | 歴史・郷土史
__きょうは、敬愛する作家・隆慶一郎へ文句つける形になるが、史実は表面も裏面も正確に伝えなあかんからな。
 
以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠るものである。
 
さっそく抜き書きしてみよー。文中、段落替えした「‥‥ 」以降がわたしの声である。
 
 
第6章 東の傀儡子(くぐつ)と西の遊女
 
> 水辺の巫女をルーツとする平安時代の遊女たちは、水上交通の要衝である淀津(京都府大崎町)や神崎(兵庫県西宮市)、江口(大阪市東淀川区)などの宿を拠点とし、小端船(こはしぶね)で川を行き交い、都の公卿や皇族とも交流していた。また、当時の遊女たちは女性の長者に率いられた文字どおりの水商売、歌舞音曲の技に生きる芸能人であって、身請け証文に縛られた後の世の遊女とは性格を異にしていた。
 
 
‥‥ 「遊女」ってゆーと、男が遊ぶときの「あそびめ」の印象が強いが、「遊女」の初まりは高位の身分の者である。
なぜなら、「神の遊女」が本来の意味だからである。
 
 
> …… 江戸吉原の遊里を舞台にした時代小説『吉原御免状』(隆慶一郎著)のなかに、
「遊女屋の主を『遊女が長(きみがてて)』と呼ぶのは、江口・神崎以来の色里の習慣であり、同時にこれは傀儡子族の首長であることを明かす言葉でもあった」との記述がある。
文中の「遊女が長」は、吉原の創設者である小田原浪人 庄司甚内の子孫、庄司勝富が記した『洞房梧園異本』のなかで、甚内が徳川家康に言上したとされる名であり、それが平安時代の江口や神崎にまで遡るという話は、いまだ聞いたことがない。先に申し上げたとおり、古代の遊女は女性の長者、すなわち母が率いた組織であり、「長(てて)=父(てて)」が入り込む余地はなかったのである。
さらに問題なことは、傀儡子(傀儡とも書く)と遊女の混同である。近世の遊里の作法は、豊作や豊漁を祈念して、神役の男と巫女が呪的に睦み合う「神遊び」という祭事を踏襲したものであり、客は「大神(だいじん)」、客の取り巻きは「末社(まっしゃ)」と呼ばれていた。
つまり、近世の遊女は古代の「巫女=遊女」の模倣であって、傀儡子とは何の関係もなかったのである。平安の末期あたりから、傀儡子にも巫女の側面が具わってくる。
しかし、「神遊び」は、あくまでも「巫女=遊女」の職掌なのである。
だからこそ、平安中期の学者官僚 大江匡房は、花柳界の女性についての随想を記した際に、その一つを『遊女記』、もう一つを『傀儡子記』として明確な区別をつけている。
 
 
‥‥ ネットのサイトに『隆慶一郎ほとんど事典』と云ふ、注目すべき批判サイトが存在して、微に入り細を穿って一言ひとこと隆慶一郎の文章にケチをつけている。その参考文献は膨大な冊数に及び、よく研究・勉強なされているのが一読すぐに分かる。
わたしは、このサイト(ブックマークしている ♪)を紐解く度に、批判とはかくあるべきものだとの思いを強くする。これだけの重厚な批判をあいうえお順に列挙するには、大変な力量と教養そして時間が不可欠である。
 
このサイトを、味読するたびに頭を過ることは、「この人はほんとは隆慶一郎が大好きなのではあるまいか?」と。
 
この御仁は「野に遺賢あり」をまざまざと感じる。
彼が仰るには、隆慶一郎は民族学者の網野善彦の中世職能民の説に拠っていると思っているが、実は東国(江戸)にあっては「道々のもの」「公界往来人」「上ナシ」はほとんど意味がないとする、都近くの西国でのみ機能した不文律だったのかも知れない。
聖別は差別を生む。西国での部落差別は酷いが、東国とくに東京以北ではほとんど見られない。縄文系狩猟民には「血の穢れ」がないからである。
そんな消息と相通ずる気がした。
 
[※   たしかに隆慶一郎『吉原御免状』は、池波正太郎を初めとする選考委員(村上元三もか?)の強硬な反対により直木賞を逃したと云われている。
前評判が高かった隆慶一郎作品は「さまざまな文献を引用して書いているが、吉原に関する基本的な時代考証が書けていない」という欠点から早々と落選した。」(『読売新聞』夕刊 昭和61/1986721日文化面より)
シナリオライターであり、映画人でもある池田一朗(隆慶一郎)は確かに時代小説を舐めている処は見受けられたのだ。]
 
 
傀儡と遊女を混同しているとは、なるほどそーだが、隆慶一郎の「吉原」の描写はそれまでに見たことのない異空間を描いてあって、一言で云えば「アジール(治外法権の避難所、聖域)」なのだが、私はその「流れ者」感に烈しく感動したものだ。
吉原を創設した庄司甚内なる者が相州乱破の風魔(忍者)の系統をひく者だとはつとに知ってはいたが、『吉原御免状』の吉原風俗とゆーか吉原の掟は、随分とエキゾチックな感触がして、散楽やら越天楽のリズムを想わせた。
剣豪小説としてのチャンバラ描写も秀逸で、庄司甚内は「道々の輩(ともがら)」らしく、刀身のしなる中国系の軟剣をつかうのである。
主人公が宮本武蔵の秘蔵弟子でミカドのご落胤、幕府方の裏柳生忍者群と戦う設定も読み応えがあり…… 
柴田錬三郎と五味康祐の本格剣豪小説が大好物の私からみても、ほんとうに久方ぶりに顕れた一流の剣豪作家であった。
手に汗握る、飯を食うのも忘れる体の至福の読み物であった。
なかでも印象に遺っているのが、吉原で生まれ育った「おしゃぶ」とゆー娘(庄司甚内の血筋)である。ちょっと手塚治虫の『ブラックジャック』に出てくる「ピノコ」と似通った魅力がある。
 
この作品は、作者が還暦すぎてから世に出た処女作なのである。なんと松岡正剛の『千夜千冊』にもエントリーされてある。
吉原に秘蔵されている「神君御免状」には、庄司甚内と徳川家康との間で交わされた吉原創設の許しが書かれているのだが、徳川家康が「無縁」「道々の輩」であることが明示されてある箇所があった。実は世良田二郎三郎なる道々の輩が徳川家康として身替わりとなって生きていた証拠となるものが、この御免状には書かれていた。
このミステリーが、五味康祐『柳生武藝帳』に匹敵するよーな仕掛けとなっている。
重大な秘密に箔をつけるのは、いつも天皇家である。
この道筋をつけたのは、無縁の職能民と友だちになった後白河院の遺徳なのかも知れないな。お孫さんの後鳥羽院が、日本の「職人」が尊敬される礎を築いた御方である。
 
 
> …… 『吉原御免状』では、川原の天幕に野営しながら箕(み)や笊(ざる)を作り、里に出てそれを行商していた漂泊民の山窩(さんか)を、傀儡子の同族として紹介しているが、これも鵜呑みにはできかねる。
山窩はウメガイという両刃の短刀や、テンジンという自在鉤(かぎ)を携帯し、それらを身分の証にしていたという。もちろん、この二種の鉄器は金物屋で誂えたわけではなく、鍛冶に鍛えてもらった物でもない。あくまでも山窩の自作である。つまり、山窩とは朝廷の支配の外にいた鍛冶・鉱山師の末裔、すなわち鬼の一類なのである。
同じ漂泊の民として、山窩と傀儡子の間に交流があったことは想像に難くない。
 
 

【山窩の日常使いしていたウメガイ】

 
 
‥‥ 北海道のアイヌが日常つかった「マキリ」とゆー小刀は、北前船の湊町・酒田で作られた。私のご先祖は酒田で刀鍛冶をしていたと伝承されているが、おそらく出羽三山の「月山鍛冶」の系統であろー。酒田には西暦700年代に渤海国から千人規模の移民があったと伝わるから、おそらく渡来系の鬼の一族だったに違いない。
日本海沿いの「庄内」とゆー地方は、一種独特な風土で欧州におけるスペイン・フランスの「バスク人」みたいなもので、回りとは隔絶している特徴がある。
隣接する山形県の内陸部や秋田県南部ともまるで異なる土地柄・人柄で、なんの繋がりも感じられない異質な雰囲気がある。
おそらく、渤海は高句麗系で古代朝鮮の血なので、その混血によるものだと思われる。
司馬遼太郎も、庄内には随分と関心を持たれたが『街道を行く』にまとめることが出来ず、お手上げだった土地である。
 
 
> たとえば、鍛冶神である宇佐八幡宮(大分県宇佐市)では、傀儡子舞が奉納されていたのである。
 
 
‥‥ 宇佐八幡は、弓削道鏡事件でもクローズアップされる神社ですね。道鏡も産鉄民との関わりが深いのだが、きわどい処で負けてしまう。
 
 
> では、傀儡子とは、いかなる「種族」であったのか?……(略)…… 
『傀儡子記』の文を途中まで意訳すると、
「一所に定住することなく水場や草地を求めて移動し、穹盧氈帳(きゅうろせんちょう=テント)に暮らす傀儡子の様子は、北狄(北方の蛮族)の風俗に似ている。
傀儡子の男たちは皆弓矢を使い、馬に乗って狩猟をしている。または曲芸や手品、人形使いの技に長けている。
かたや女は妖艶な化粧をして、媚態を見せながら歌をうたい、男を誘惑して一夜の契りを結ぶ。好いた男がいると、金襴錦の衣や黄金の装飾品、螺鈿細工の箱など高価な品を贈って関心を買おうとする。
農耕とは無縁で役人を恐れず、夜になると百大夫(ひゃくだゆう、道祖神の一種。求愛や遊芸の神)を祭って鼓を打ち、舞い踊っては馬鹿騒ぎをする」といった内容となる。
 
[※ 文中の北狄とは中国大陸の北宋を基準にしたもの、すなわち、その北方に暮らしていた粛慎(しゅくしん=みしはせ)や扶余(ふよ)、女真ほかツングース系諸民族を差しているのである。満州からシベリア沿海州の辺りを領土としていた渤海国との交流からも知れるとおり、古代の日本はツングース系の民族と関わりを持っていた。]
 
 
『遊民の系譜』(杉山二郎著)によると、粘菌の研究で知られる在野の大学者 南方熊楠は、柳田國男に宛てた書簡のなかで、ヨーロッパの漂泊民であるジプシー(ロマ)と傀儡子の生態が似ていることを指摘している。
ジプシーが、故郷とされる西北インドから放浪の旅に出たのは11世紀前後のこととされている。
いっぽう、奈良時代の文献に傀儡子の記述は存在しない。そして『傀儡子記』の成立が推定12世紀の初頭。
これらの事柄からみて、ジプシーの一派が東回りのルートを経て海を渡り、平安時代の日本にたどり着いたとしても、あながち不思議ではないのかもしれない。
 
 
 
 
‥‥ この『遊民の系譜』とゆー書籍は、世に知られぬ名著にちがいない。
青土社から刊行されたものだが、もー装丁の荘重なるオーラを裏切らないコンテンツで、ページ内の字面もすこぶる佳いし、ルビも工夫が凝らされている。
 
〈〉内が貼られてあるルビを示す
≫ 蝟集〈むれあつまり〉した
≫ 閑話休題〈あだしごとはさておき〉
≫ 姦事〈いけないこと〉
≫ 儒学や墨子の徒〈えらいせんせいがた〉
≫ 廉潔〈さっぱりして〉、退譲〈へりくだり〉
≫ 豪富〈いやみなかねもち〉が
≫ 当意即妙〈ツーといえばカー〉の頓智〈あたまのひらめき〉をはたらかせる
 
‥‥ とまーこんな感じのルビで、まさに行間を読める文章となっている。
センスのある漢字の羅列は嬉しいもので、かの著者独特のルビが和様の口語を加味して風流極まりない。
女真とかいかにも異国情緒にあふれて、意外に国際的な展開となっている処に浪漫が滲み出る。
 
 
> …… 傀儡子は大陸の北方を故郷とするツングース系民族であると推測される。
 
> 傀儡子は、単なる遊芸の民でもなければ狩猟民でもなかった。傀儡子は疾走する馬上から矢を射るという、極めて難しい技術を保持していた騎馬民族だったのである。
 
> 大陸の草原で鍛えられた傀儡子男の騎射の方法が、東国の武装集団、すなわち源氏の武者たちに伝わったのではないかと、筆者は推測しているのである。
その証拠として、月代(さかやき)と丁髷(ちょんまげ)の発祥が平安時代末期であることがあげられる。
江戸中期に編まれた『貞丈雑記』によると、月代は武者が兜をかぶる際に、気が逆上して苦痛なので額から頭頂部にかけての髪を剃ったことが始まりであるという。
だが、本当にそうなのであろうか。兜をかぶる際に髪を剃ると勝手が良いのなら、月代の風習は世界中に普及していたはずである。
しかし、筆者が知る限り、僧侶でもないのに頭頂部を剃る民族は二種しか存在していない
その一つが日本人、もう一つは弁髪の女真人である。また、丁髷を後ろに垂らすと、そのまま弁髪になることも事実なのである。
 
 
‥‥ ひとくちに「弓馬の道」と云われた坂東武者が、大陸の騎馬軍団に由来するなど興味は尽きない。
 
 
> …… 『傀儡子記』に、傀儡子の本場が美濃や三河・遠江(とおとうみ)などの東国であるとしていることも見逃せない。
 
> かたや、遊女は船で河川を行き来する水の民であり、各地の水軍や廻船商人を統括していた「海の武士団」平氏の本拠である都から瀬戸内にかけての西国が本場であった。
これは、網野善彦が提唱した「西船東馬」の構図そのものである。
 
> …… 西国の遊女と平氏が特別な関係にあったという話は伝えられていない。ただ、棟梁の平清盛が、男装した遊女である白拍子を寵愛した逸話が『平家物語』に残されているばかりである。
 
 
‥‥ この白拍子こそ、平清盛の母とされていて、わたしの先祖(平重盛)の御母堂である。
白河院のお手つきを平忠盛が引き取ったと聞く。平氏は日宋貿易に力を注いだわりには、「遊女」や鬼の一族とは付き合いが薄いよーだ。
 
 
> いっぽう、源氏の歴代の棟梁と傀儡子の間には、注目に価する濃密な関係が構築されていた。
 
 
‥‥ 源義経もまた、京は鞍馬の鬼一法眼(天狗)に師事したとか、京八流の剣術を引いている。山本勘助もそーで、タタラ民の身体的特徴そのもの(火床を見つめる眼と、鞴を夜通し踏み続ける脚を痛める=片目片びっこ)である。信玄公は勘助を通じて鍛冶・鉱山師のネットワークと契りを交わしたものだろー。
 
 
> 源為義は青墓宿(岐阜県大垣市)を拠点とする傀儡子の長者大炊(おおい)の姉を妻として、乙若・亀若・天王・鶴若という四人の息子を得ていたのである。
巫女から発した遊女は賤視されていなかったとみえ、遊女腹の公卿や皇族の名が後世に伝えられている。
 
> この為義は…… (略)…… 江口の遊女との間にも、強弓の使い手として名高い鎮西八郎為朝を儲けていた。
 
> …… 建久元年(1190)十月、頼朝は青墓を訪れ、大炊の娘らを召し出して褒美をとらせたる。
 
> 源氏の棟梁たちのほかにも、傀儡子との交流で知られた人物がいた。
「ハイ、ドウドウ」と馬を御する傀儡子に特有の三度拍子に魅せられ、今様(いまよう=流行歌)に傾倒して、歌謡集『梁塵秘抄』を世に残した後白河法皇である。
 
> 長年にわたる歌謡三昧の逸話を、後白河が口述筆記させた『梁塵秘抄口伝集』によると、
彼は十歳の頃から今様を愛好し、昼夜を分かたず没頭、声を出しすぎて湯水を飲むのも苦痛なくらいに喉が腫れても、なんとか工夫して歌い続けたという。
 
> この一種異様な物好き
> この規格外の趣味人
 
> 後白河は洛中の男女や召使の者、江口や神崎の遊女、諸国の傀儡子女のなかで、今様の心得があるほとんどの人と付き合い、合唱してきたと豪語している。
この身分を越えた交際により、後白河は貴顕としては異例の世間知と人脈を得たのである。しかも、彼は青墓の老いた傀儡子女 乙前(おとまえ)を宮中へ招き、師弟の契りを結んで、ともに暮らすという離れ技までやってのけた。
趣味が高じた結果、後白河は傀儡子の「縁者」になったのである。
この後白河の奇行が、後に歴史を動かすことになる。
 
 
‥‥ かの崇徳院は後白河法皇の実兄であるとゆーことは、ともに妖女・待賢門院藤原璋子(たまこ)の息子たちである。「もののけ」と呼ばれた白河院の血筋なのであろーか?
後白河院は、うちのご先祖平重盛がお仕えした帝ではあるが、ストレスフルな主上でもあり、死に追いやったよーな印象もあり、複雑な心境である。
しかし、道々の輩を懐に入れる大器量は疑いよーもなく、親の鳥羽院や兄の崇徳院からはバカにされたが、風雅の道を極めた天子といってもよいのではあるまいか。
惜しいことだが、後白河院が夢中になった「今様」の節回しは現代に伝わっていない。
はたしてどんなリズムでどんなメロディーだったのであろーか、何か隠された「香道」のよーに奥秘の匂いがするのは私だけであろーか。
『吉原御免状』でも、御水尾帝のご落胤たる主人公は、諸手をあげて「無縁」「公界」の者たちの後ろ楯を得るのである。
非農工民たる「道々の輩」が、唯一天皇陛下には忠誠を尽くすのは、後白河院以来の伝統なのであろーか。
後白河院は、もともと皇太子候補ではなかったし、まったく期待されてはいなかった。
このへんは、八代将軍吉宗と似通った境遇を感じるが、「運」に恵まれた天子さまと云えるだろー。
 
現在TVアニメで『鬼滅の刃』〜遊郭編が放送されているが、吉原の描き方が一面的な感じは拭えない。若い女性作者だからよく知らないのか?
吉原遊廓は、「鬼」が隠れていられるほど広くはあるまい。治外法権で曲輪内の遊女たちが逃亡できないよーに閉鎖的であるはずである。
鬼滅の刃は大正ロマンの系譜を継ぐ作品といってもいいかも知れないが、昭和ロマンも分からず大正ロマンは語れまいよ。
明治維新で神社重視して名刹寺院をぶっ壊し、大正な終りの関東大震災で明治に残っていた江戸風情の建物が潰滅してしまった。十二階建ての浅草「凌雲閣」が崩れ落ちたのは象徴的な出来事だった。
そして太平洋戦争での空襲がトドメを刺した。海の民と山の民とは同族だから、都会が空襲で全滅するまでは、たぶん交流のよすがは細々と繋がっていただろーと思われる。
何故なら、大阪も東京も「水運の街」であるからだ。舟をつかった生活が根付いていたからである。
「海の民」が川沿いを伝って山間に入り込み「山の民」となったそーである。
長野の奥まった「安曇野」は、海の民「アズミ」の一族が山の民となった土地である。
そのへんの、歴史の地下水脈みたいな推進力を知りたい。
五木寛之『戒厳令の夜』や『風の王国』は、そーした表に出ない動きを活写したものかも知れない。描かれた人間たちが「生きている」実感があるんだよね。
 
永い伝統を守ってきた人たちには、なにか天地造化のちからみたいなものを帯びる気配がある。
最近、YouTubeで知られるよーになった、武田信玄公を護った陰の家系を継ぐ人物を見つけた。その一子相伝の技は「影武流合気体術」と名付けられた、徒手の戦場武術である。この宗家の「受け身」がふんわりと見事なまでに軽やかなのだ。
達人の佇まいは、こわいまでに静かである。
いまの世でも、おられるのだな、先祖のご遺志を継いで生きている者が。
            _________玉の海草