__わたしのご先祖も「刀鍛冶」で、「たたら製鉄」の出自を匂わす苗字である。「まつろわぬ(伏わぬ)人々」つまり大和朝廷に税をおさめない「道々の輩(ともがら)」の一族であったであろー。
行者、山伏、河原者、能楽師、忍者、鉱山師、鍛冶屋、鋳物師、木地師、巫女、遊女、傀儡子、渡世人など諸々の漂泊する異能民は、アウトサイダーとして「表の世界」に出張って来なかった
渡来人経由で伝わった製鉄技術は、特殊な製鉄集団を形成した。鉄器をつくりだす特殊な技術ゆえに、神さま扱いされたり、反対に邪慳にされたり、定住することなく(大量の木材が必要なため)、日本全国を巡り歩いた
砂鉄から鉄をつくるとき、山は崩すし、川は汚すし、まわりの樹林は燃料として伐採するしで…… 土地の農民と仲良くしなければ成り立たない仕事だった。
そーした生活形態が、「大黒さま」としてよく表されている。大黒天が担いでいる袋はタタラ製鉄の鞴(ふいご=送風器)を象徴し、打出の小槌は鉄を叩く金槌を象徴し、大黒天が踏みしめている米俵は「鉄をつくる」とすぐ買い上げられ大金を手にすることを象徴している。打出の小槌でザクザク黄金が産みだされるとゆーわけなのである。たたらの民は「大黒さま」を信仰する。
【おなかに描かれた摩尼宝珠は、神道でウカノミタマ命(稲荷大神)が富の象徴として持ち、熊野大社の起請文(牛王宝印)にも描かれるよーになり、仏教の豊川稲荷(キツネの稲荷神を祀る神社ではなく、ジャッカルのダキニ天を祀る曹洞宗の寺である)や大黒天(マハーカーラ)にも付けられるよーになったのではあるまいか?)】
ヨーロッパにあるとき完成した形で現れたヴァイオリンのよーに、永く続いた青銅器の時代に突然「鉄」の製錬が始まって、謎の王国「ヒッタイト」(BC1600年頃)が鉄の武器をつかって無敵を誇り、古代エジプトのラムセスII世を撃破した。ヒッタイトが滅んでから門外不出だった製鉄技術はユーラシア大陸を東漸して「スキタイ」へと伝わり、戦闘を介して漢民族へと伝播する。かくの如く、鉄器をつくれる国は圧倒的な武力を発揮したのである
鉄器のうち、とくに武器と農具は、青銅器の耐久性と比べ画期的な性能だったから、まさに生活を根底から変えた。
ーこれからご紹介する本は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』(新人物往来社刊) である。エッセイ風だが情報量が多すぎて気軽にまとめられない「名著」である。それゆえ、抜き書きしてそれに対してコメントする形で、鉄の文化を担った先人の業績(歴史に隠れた貢献)を記しておきたい
それじゃあ、始めます。「‥‥ 」以下は私の文章です。
第1章「鬼の長者」より
> 鬼もまた魔物の一種、「毒をもって毒を制す」という諺のとおり、鬼瓦は家内へ侵入しようとする魔物を退散させる呪術なのである。
> 鬼をもって鬼を制す
‥‥ 大江山の鬼退治も、源頼光と四天王は「鬼」のサイドの人間である。体制内に取り込まれた鬼である。『仮面ライダー』もまた、改造人間同士で戦う構図であり、古くは渡来人系の異国人・坂上田村麻呂を、古代東北の独立を守っていた蝦夷のアテルイにぶつけるよーに、(大和朝廷にとっての)異端に対して別の異端を以てあたる構図である。
> …… 八岐大蛇とは剣を産む存在、すなわち鍛冶集団の象徴といえる。また、八つに分かれた長い蛇体は、鍛冶職人が砂鉄を採取する河川や複数の支流に通じている。八岐大蛇の神話は、斐伊川など出雲の河川で砂鉄を採り、蹈鞴(たたら)という伝統的な鞴(ふいご)で砂鉄を鉄や鋼(はがね)に変え、農具や工具・武器を作っていた鍛冶集団が、須佐之男命、すなわち大和の勢力に敗れ、服属した過程を物語っているといえるのである。
> 古代の鍛冶職人は、金や銀・銅や水銀などを採掘し、精錬する鉱山師(やまし)でもあった。
‥‥ 山を熟知している者たちのネットワークがあったとゆーことだろー。徳川幕府の金山奉行・大久保長安は能楽大蔵流の太夫であった。能役者や忍者や山伏は全国を行脚するから顔馴染なのであろー。観阿弥と服部半蔵と楠木正成が親戚なのは知られている。
> 古代の鍛冶職人は祭政一致の王であり、神官であった。国作りの基礎となる鉄製の武器や農工具を作る古代のハイテク技術が、神技や呪術とみなされ、崇敬の対象になっていたとしても何ら不思議はないのである。また、鍛冶の工程に祈禱や呪術が混入していた可能性も高い。
‥‥ 高温の火を熾して「鉄」をつくりだす異能は、農民からすれば十分神がかったものである。聖別されたと云えば良い印象があるが、要するに村八分で差別されたことと思う。蹈鞴製鉄の長(おさ)の呼称が「村下(むらげ)」とゆーのも気になる。どーみても敬称ではない。
> 鉄製の武具や農工具が作れるということは、独立した国が作れることと同義であった。
> 平安中期に編纂された『和名類聚抄』のなかに「於邇(おに)とは隠(おん)の音が訛ったもの。鬼物は隠れて、形を顕すことを望まない」との一節があるが、まさに至言である。鬼を「おに」と訓読みするのは平安時代からのことで、それまでは「もの」と読まれていた。
この「もの」は死霊や精・神霊を表している。たとえば『日本書紀』には、天皇の敵として葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)にひそむ「邪鬼(あしきもの)」や、「姦鬼(かだましきもの)」などの記述がある。漢字発祥の中国における鬼の意味も死霊であり、「おに」という概念は存在していなかったのである。
‥‥ 大神神社の大物主大神のよーに、「物」は畏霊を示す。「モノ」「コト」は日本古代のキーワードである。
> 朝廷の鍛冶司(かぬちのつかさ)
> 小林一茶が詠んだ「百福のはじまるふいご始めかな」
> 民族学者の谷川健一は著書『鍛冶屋の母』で、……
> 伊吹山の猛風「伊吹おろし」
> …… 伊福部(いふくべ)という姓の一族が、古代から伊吹山の周辺に住んでいたことを指摘しているのである。
この伊福部はもとより、福田・福沢・福井など「福」の字がつく姓は鞴を使って金属を吹き、精錬する鍛冶屋や鉱山師と関係している。それが証拠に、金属を溶かす炉の炎を象徴する火男(ひよつとこ)の相方は、いわずと知れたお多福(おかめ)である。
‥‥ 言わずと知れた、映画『ゴジラ』の作曲家・伊福部昭がその末裔である。名門である。
[※ wikiより引用ー伊福部家は因幡国の古代豪族・伊福部氏を先祖とする[58]。本籍地は鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。]
> 伝統的な蹈鞴製鉄で名高い島根県の安来市に伝わる安来節に合わせ、火男の面をつけた人が滑稽な身ぶりで踊る「泥鰌すくい」は、鉄を作る大鍛冶による川砂鉄の採取の作業が原型になっていると思われる。
‥‥ この辺りに、現在唯一のタタラ場があったはず。日本刀の作刀に必要不可欠な「玉鋼(たまはがね)」は、現代科学の技術を以ってしても作ることが出来ず、極めて効率の悪い「たたら製鉄」に頼るほかないのである。
> 火男とお多福は祭の神楽に欠かせない福の神であり、古代国家の根幹である農具や工具・武具の原料となる鉄を生み、金・銀・銅などの財(たから)を生む「吹くの神」である。
> 酒呑童子が暮らす丹波大江山の屋敷が、門も塀も建物も全て鉄で作られた「鉄の御所」だという記述は、童子の生業が鍛冶や鉱山師だということを示している。
> たとえば『御伽草子』や謡曲『大江山』には、不可解な童子の言葉が残されている。頼光に騙されて毒酒を飲み、首を討たれる際に、童子が「鬼に横道(おうどう)なきものを」と訴えているのである。朝廷から派遣された正義の味方であるはずの頼光が嘘をつき、童子の方は「鬼は横道(卑劣な行為)をしないのに」と抗議しているのである。
‥‥ タタラ師ネットワーク特有の「仁義」があるよーである。裏世界の掟は、命に関わるものだけに厳しいものであろー。
> …… 酒呑や酒天・酒顛・朱点などの文字が当てられている奇妙な名について考えていただきたい。大酒呑みだから酒呑、もしくは親に捨てられた「捨て」が酒呑になまったという説もあるが、筆者は「朱点」に着目している。
朱は別名を丹(に・たん)、化学の世界では硫化水銀と呼ばれる顔料であり、赤土(辰砂・丹砂)として地表に露出している。水銀を扱う業者は、この赤土を釜で蒸留して水銀を得るのである。
松田寿男は全国を踏査し、水銀鉱の赤土が存在した場所にニュウと発音する地名があり、丹生都比売(にゆうづひめ)を祭る神社が存在していることを実証した。
‥‥ 出羽三山の湯殿山にも「丹生水上神社」がある。湯殿山の水銀鉱床の濃度が高いので「即身仏」が生まれたものらしい。即身仏ミイラは湯殿山にしか存在しない。弘法大師の晩年は、明らかに水銀中毒の症状が見られると思うが如何なものか? 高野山の水銀鉱床の濃度は日本一高いそーだ。水銀を体内に摂取すると死んでも身体が腐らないとか……
> 古代の水銀は金や銀に準じる稀少で高価な金属であり、塗料や白粉(おしろい)、金メッキの材料費、もしくは薬物として利用され、中国への主要な輸出品であった。
‥‥ 神社仏閣の朱色は、水銀をつかって出すと聞く。
第2章「河童と怨霊」より、この章は天満大自在天神・菅原道真公に関する裏の歴史を紐解いている
> 江戸時代の中期に 医師の寺島良安が編纂した百科事典『和漢三才図会』をひも解くと、その40巻「寓(猿)類・怪類」のなかに川太郎(がたろ)すなわち河童の記述がある。
‥‥ 河童伝説とタタラ場は一致する。
> 道真が配流先の筑紫で詠んだとされ、水難よけの呪いとして世に伝わっているという奇妙な和歌が、収録されているのである。
いにしえの約束せしを忘るなよ 川立ち男氏(うじ)は菅原
「昔、約束したことを忘れるなよ。川立ち男の氏は菅原であるぞ」
「川立ち男」は河童の別称
‥‥ 菅公とタタラ産鉄民との間で交わされた密約を想像させる。
> 『妖怪談義』(柳田國男著)
冬がくると河童は山へ入って山童(やまわろ)になるとの話
> 河童の「童」すなわち童子とは、…… (略)…… 成長しても大人として認知されなき牛飼童や寺院の大童など、特種な階層の男子をさしている。
河童とは…… 川の童子、いっぽう山童は山の童子
‥‥ 能楽の金春禅竹『明宿集』のなかで、宿神は「翁」であると示唆している。古来、翁と童子は「死」に近い故をもってか神的な存在とみなされている。能の「三番叟」は翁舞で、一座の長者が担う最も大切な舞である。伊勢白山道も童子形の神が一番怖いと云っていた。純粋さは容易に残酷さにも成るからかも知れない。
> 季節労働者
> 鍛冶屋である河童は春夏秋の3シーズンを河原ですごして砂どり、すなわち川砂鉄の採取にいそしむ。そして、冬は山へ入り、山肌を掘り崩して渓流へ流し込む「鉄穴流し(かんながし)」の手法で山砂鉄を採取し、蹈鞴吹きにより鉄を生産していた。
山から流出する土砂により、下流の稲を痛めつけないため、昔の鍛冶屋は農民と契約し、稲の収穫が終わってから作業を開始していたのである。
> たしかに、菅原氏の前身である土師(はじ)氏が任されていた墳墓の構築と、鍛冶や鉱業の間には何の関係もないようにみえる。だが、巨大な墳墓を構築する工具を得るためには、鍛冶の知識と技術が不可欠である。
また、墳墓に並べる埴輪を焼くための窯には、炉を作る技術が関与している。さらに埴輪作りは、溶けた金属を流し込む鋳型の製作にもつながっている。以上の理由により、土師氏の本体は鍛冶屋であったに相違ないのである。
> …… 河童が人と相撲をとる話は日本全国に散在している。
> 道真の祖先である能見宿禰
‥‥ 週刊少年チャンピオン連載の格闘哲学マンガ『刃牙道』の主役は現在、二代目野見宿禰である。「バーリ・トゥード(何でもあり)」の仕合のなかで、古代相撲のポテンシャルを模索している意欲作である ♪
> 能見宿禰を祭神とする相撲神社
> 相撲神社を摂社としている穴師坐兵主神社(あなしにますひようず)
> 「兵主部(ひようすべ)」は河童の別称
> 垂仁天皇32年秋7月6日、能見宿禰は殉死者の代わりとして、墳墓へ埴輪を立てることを奏上する。その意見を天皇は認め、土師臣の姓を彼に下賜した。
> 仏教が渡来した後の大化2年(646)に薄葬令が発せられ、仕事の量は否応もなく減少した。
‥‥ せっかく天皇直々のお声がかりで埴輪作りに精を出していたのに、リストラされたよーなものである。陰陽道でも死の穢れを忌むよーになって、踏んだり蹴ったりの有様であった。
> そこで土師氏は先祖代々の生業を捨て、学問で生きる文官へと転進……
> …… 天応元年(781)、桓武天皇の家庭教師を務めていた土師宿禰古人(ふるひと)ほか15名が、居住地(奈良市)の地名にちなんだ菅原朝臣(あそみ)への改姓を許される。
以後、古人の息子の清公(きよきみ)は遣唐使の一員として入唐、帰国後に文章博士となった。また、孫の是善(これよし)は文章博士や大学頭を歴任し、菅原氏にとって初めての公卿である参議に昇る。
そして、曾孫の道真が4代続いた学者官僚の地位を土台とし、藤原氏の勢力拡張を憂えた宇多天皇に重用されて、目覚しい栄進を遂げることになる。
‥‥ 道真公は、西暦903年に太宰府でお亡くなりになる。京都に御霊(ごりょう)神社があるよーに、非業の死・無念の死を遂げた高位の人々は歴代幾たりもおられたはずである。
> …… なぜ、道真の霊ばかりが特別な扱いを受けてきたのだろう。一説に、分祀社が1万2000社を超えるという圧倒的な道真の神威は、どのように形成されていだたのだろう。
> …… 同年(天慶2年・939年)12月、上野国府(群馬県前橋市)で一人の歩き巫女が神がかり、「我が八幡大菩薩の位を、息子である平将門に授ける。その位記は菅原道真の霊魂が記す」と将門に宣託した。このことにより、将門は意を強くして「新皇」を僭称することになる。
武家の守護神である八幡神とともに、道真の怨霊が将門の謀反を支持したのである。
> 北野天満宮の由緒書『北野天神縁起』の絵巻
> …… 巻6、延喜3年の項では、道真の怨霊の化身である雷神が内裏の清涼殿の上空に出現し、四方八方に雷を落として、宮中の人々を追い散らす様子が描かれてある。
問題は、その雷神が赤肌のいかつい裸体に下帯一本、怒髪天を衝き、額に二本の角を生やした赤鬼として描かれていることである。
> なぜ、雷神が鬼なのであろうか。平安時代に編纂された『日本霊異記』や『今昔物語』に登場する雷神は人間の子供の姿であり、荒ぶる鬼の面影は微塵もないのである。
> …… この『北野天神縁起』の絵巻を作った絵師は、道真の本性が鬼であること、かつて大和王権に対抗していた出雲王朝の鍛冶・鉱山師の末裔であることを、読者に向かって暗示しているのである。
> …… 道真の怨霊の神格化に奔走した人々、すなわち道真の逸話を諸国に広めた演出者たちは、出雲系の人々であった。
> 京都の西市(にしのいち)に近い右京七条二坊(下京区)に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ・綾子・奇子)に道真の霊が憑依し、「右近の馬場がある北野の地に社殿を建てて、私を祭りなさい」との託宣があったという。
‥‥ 他にも、大宰府の竈門山(かまどやま)の山麓や、近江比良宮(比良山)の山岳修験〜神官の神氏は三輪氏と同族、道真公の子守役をしたとされる伊勢神宮の度会春彦(=白太夫)率いる白衣の神人たちが天神の布教活動として諸国を遍歴した模様である。
> とにもかくにも、道真の霊は北野の地に鎮まり、御利益のある天神に昇華された。その宗教的パフォーマンスを最終的に演出した者は、多治比文子でも神氏の父子でもない。
王権に害をなす怨霊を掌中に収め、自身と子孫の繁栄の道具として利用した、途方もない大役者がいたのである。
その名は摂政関白藤原忠平、怨霊に取り殺されたという時平の弟である。兄とは違い、忠平は道真と親しかったとされている。少なくとも、彼は道真の左遷に関与していなかった。
怨霊や雷神の噂が世に広まり、災厄が重なるなかで、忠平は文子や神父子のスポンサーとなり、北野天満宮の創建を援けた。
‥‥ さすがに藤原氏は転んでも只では起きないね、この後の子孫が道長卿で、ちょうど千年まえに「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」などと詠んで、後世の人びとの顰蹙を買ったわけである。いまでも、「歌会始め」や「香道」や伊勢神宮の神官の顔ぶれなどに藤原氏の勢力を見ることが出来る。
あまりに重厚な「裏事情」で、第ニ章までしか辿れなかった。(続く)
_________玉の海草