『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 「中道」 の真骨頂㊙️〜 中間(バランス)を取って程々に、とは大違い

2023-01-08 16:16:37 | 小覚

__ いままで、

中道・中立・中正・中庸中観」の解説には、

どれだけ欺されてきたことか。その凡庸な解釈を鵜呑みにしていた自分を今更ながら悔いている。

「二つの中間を歩む、中間に立つ、中間を庸(もちいる)」だからといって、

「二つの極端を避けてほどほどに」という意味じゃないんだよね。

 

 

【蛇を頭上にのせた、宇宙人のような 龍樹(ナーガルジュナ)は、釈尊が生前に予告してした聖者であり、釈尊の原初の「仏道」を「大乗仏教」という別物に入れ替えてしまった、仏教史最大の哲学者でもある。上記の本に描かれている、ダイナミックな「転法輪」☸️は、龍樹の「中観(中道観)」の実相をよく表しているように感じられてならない

 

 

釈尊の中道は、初転法輪(初めての説法)において、

「快と苦のどちらにも偏るな、二辺を避けなさい

と仰ったことから、

「両極端を避けなさい」という意味で通説になってしまったが、そんなありきたりなものではないそうです。

「二辺」つまり二つの対立概念から離れなさい という意味だとか。ヒンドゥー🛕の非二元(アドヴァイタ)です。

 

孔子の中庸にしても、孫の子思が書いた『中庸』では、「喜怒哀楽未発の中」と述べています。

喜怒哀楽の感情が生まれる以前の「中」ということです。

意識・無意識の生ずる前の真我、仏教の「無分別智」といった処でしょうか。

 

「中」という文字は、日本語で「あたる」と読むように、ちょうどいいという意味合いもあります。

一休の「この橋わたるべからず」とは、端(二辺)をわたるなという意味ではなく、真ん中の大道(道の真ん中ではない)をゆけと解きます。

 

 

Rさん(伊勢白山道)も、グルジェフの自己想起を解説した記事のなかで、4段階の自己想起をした上で、「常に相手と自分との中間を意識する」と云われています。

この「中間」という言葉のチョイスが誤解の元なのですよ。

これは、相手と自分のどちらにも肩入れせずに、斜め上から静観するということでしょ。

聖ラマナ・マハリシの「映画の喩え」📽でいうと、相手と自分とは映像であり、中間とはスクリーンのことだと思います。まー、神の視点でもよいでしょう。

 

だからして、中道とは「バランスを取る」ことではないのです。「両極端を避けてほどほどに」ではないのですよ。

もし中道の意味する処が「バランス良くほどほどに」であるのならば、釈尊ご自身のたどった軌跡は、中道だと言えるでしょうか。

妻子のある一国の王子の身で、すべてを捨てて出家する、生死の危険が伴うレベルまで極端な荒行(例えば「断息行」では鼓膜が破れるまで極めている)をやり続ける、それらのどこが「中道」なのでしょうか。

 

菩提樹下での成道以前のことがら故、釈尊ご自身よく分かっておられなかったという解釈も成り立ちますが……

大悟なさった後でも、それを修正することはありませんでした。「中道」をとるといっても、還俗なさったりはしませんでしたし、故国シャーキャ国の滅亡も静観して見送っておられます。

 

釈尊は、「二辺(二元性)」がある現実が恐ろしかったから、出家したのです。そして見つけたのが釈尊の「無」であり、後世の龍樹があらためた「空」でありましょう。

空=仮=中ということで『中論』を書いています。

釈尊はつねに実践が伴う哲学でしたけど、龍樹はズバ抜けた抽象理論家(物理学者)の感じがしますね。

 

結論として、中道の意味は「ニュートラル」(エンジンは動いている)が一番実態に近いと思います。

 

「有る無し」の彼方に控える「無」だとすると、ニュートラルには、中立や中性の他に、「無性」の意味も含みます。

中間色とともに「無彩色」の意味もあり、去勢された動物の意味もあります。

「ニュートラル・カンバセーション」で当たり障りのない会話となります。

 

ギアの入っていない「喜怒哀楽未発の中」のニュートラル状態動力源は稼動中が、「中道」に相応しいと思います。

 

 

ABとの中間を取る(=バランスを取る)といった複雑な操作では、咄嗟の場合に複雑すぎて選択できないと私は思っています。動いているA B、その中間なんて、三点も瞬時に把握できないでしょ。

だから、「バランスを取る」じゃなくて、動く映像に心動かさないでスクリーンを意識する「中道」を採用するなのだと思います。静観するというのは、そこまでしなければならないということでしょう。

 

中道の本来の意味は、「普通」の原義(あまねく通用する)と近いのではないかと推測する。

「道(TAO)」にあた(中)れば、普く通るからです。

 

※(wikiより、ナーガルジュナの「中観(=中道観)」について)>

「中観」のサンスクリット Madhyamaka madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある

 

ー 中道の奥深い意味を辿ってきたが、それを生活現場に落とし込めば、「ああでもない、こうでもない、無難な道」という処世術もあり得るのかも知れない。

人間には、倒れないように踏ん張る「生存本能」がある。そんなときには、必死に踏ん張っているわけで、必ずしも「中間」を意識してやっているわけではない。

 

巻き込まれた交通事故にあっても、咄嗟に神がかったように正確な判断をして、九死に一生を得ている素人のケースも、数多く報告されている。

無心にあって、中道(=正しい道)を間違いなく撰びとることが出来るのは、非二元(アドヴァイタ)の神の眼で観ているからではあるまいか。

      _________玉の海草

 

 


《玉断》 ドリームキラー(夢の破壊者)は言う〜 「夢をもて ♪」

2023-01-08 04:44:02 | 雑感

🔴「夢をもて」なんて言い始めたのはいつから?

進学校において、成績のよい生徒は教育学部にはいかないとは、私の生の実感である。

「先生」と呼ばれる方々は、ほどほどで諦めた経験が多いと思う。

日本の教育現場は、最高の頭脳と徳性を持つ者からは避けられる処に、国策の根本的な誤りがある。教育者は、本来最高の者が担うべきなのである。

その学校教育の現場で、しきりに「夢を持て」と言われ出したのは、いつ頃のことなのであろうか?

 

こういう意見があります。

「夢を持て」と強要する、大人たちがダメすぎる

 

子どもの将来のために「よかれ」と思って、「夢を持て」と励まし続けた結果、子どもから言わせると「ドリーム・ハラスメント」になっていたと。

単細胞で善人づらした、ほどほどで諦めてきた凡庸な大人たちは、

杓子定規な善意から、子ども達の「ドリームサポーター」であろうとして、

かえって「ドリーム・キラー(夢の破壊者)」となっていることに気が付かない。

老子的な現実認識に欠けているからである。

 

 

北野武『新しい道徳』のなかに、こんな言及がある。

今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、やたらとそういうことを子どもたちに強調する。
道徳の授業もそうらしい。

夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。

節約とか節制なんて言葉もあまり見かけなくなった。
時代が変われば、道徳は変わるのだ。

 

夢をかなえた、ごく一握りの人にスポットライトをあてて、夢を見ろと煽る。宝くじの宣伝と同じ程度の話なのに、学校の教師までが、子どもに夢を持てなんていっている。

夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。

夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。俺は心の底からそう思っている。

 

どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。

 

人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
まだ遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。

 

…… 夢破れた凡庸な教師に、学校🏫で教えられた「夢を持て」を、そのまま何の疑いもなく子どもに教えている未熟な大人たち。

[※  昔はよく「でもしか先生」と言われたものだ。「先生にでも成るか」「先生にしか成れない」凡庸な成績の学生さんの行く末を揶揄した言葉である。]

「地に足を着けて生きる」と「夢をもつ」を両建てで進めるのが、成熟した大人のあり方であろう。

「夢を持て」といわれて、現実を見つめずに現実逃避し始めたのは、「団塊ジュニア世代」以降ではないかな。

つまり、きわめて底の浅い人生観といえる。

大人が子どもに厳しいことを言うのは、子どもの人生に責任があるからに他ならない。

夢ばかり語っているのは、精神年齢が子どもなのである。

 

 

🔴ポジティブ一辺倒な危うさ(薄っぺらな人生観)

戦後、自分たちの権利を主張するためにリベラルに便乗した「団塊の世代」は、欲望のおもむくままに「自分探しの旅」と称して、親や大人社会に逆らうようになった。

戦前の日本を全面的に拒絶した彼らは、権威という権威を壊しまくって飽きることがなかった。

その子らが子供を持つ頃には、調子に乗って「夢をもて」だの「有意義な人生をおくれ」だの、「自分らしく個性を磨け」だの、ポジティブ一辺倒なことを口走り始めた。

そんなことを言い始める以前の日本人は、つつましくささやかな幸せを尊ぶ「清貧」が皆の共有する道徳だったのである。(たけし談)

 

史上、ネガティブな思想の代表が、釈尊の「諸行無常」(すべては過ぎ去る)であろうか。

人生に、生きること自体に意味はない、自分が思っているほど自分という存在は確かなものではない。

ほんと、一見、救いようのない達観ですが……

深く思いを致せば(静観すれば)……

本当にそうだとすると、「前向きに生きる」とか「自分の個性を発揮する」とか「有意義な人生をおくる」とかと、別に肩肘はって自分の課題とする必要はないということです。

「自分探し」して、「生きる意味をみつける」なんて、生きてゆく上で特に不可欠なものではない。

それは、日本の高度成長期に全世界的に流行した、リベラルの一過性の思想に過ぎないことが腑に落ちてくる。

 

皮肉にも、親に反抗して好き放題に日本文化を踏みにじった「団塊の世代」の子供たちが成人して就職するころには、日本は「就職氷河期」を迎えていた。

過大な夢を抱かされて、その夢に敗れた子供たちは、ニートに堕ちていった。

 

75歳ー50歳ー25、「団塊の世代」の孫世代は、祖父母からも両親からも(日本古来のものではない)厄介な思想を吹き込まれて、いまがある。

二代に渡る反面教師と、同じ屋根の下で暮らすのも結構なストレスであろう。

往って還る、登って降りる、その帰り道や下り道にも見るべきものはある。

アンチエイジングではなく、エイジング(老い)で徐々に弱ってゆくことの中にも救いがある。

 

遺伝子🧬レベルの生存戦略では、人間はネガティブな情報(危険性)を優先させる。

ネガティブな釈尊と表裏一体、太陽族の王子だった陽気な(ポジティブな)釈尊もいることを忘れてはなるまい。

ポジティブ一辺倒なんて、疲れるし長続きしない。

無理が通れば、道理がひっこむのである。

自然体の内に、安らぎがある。(身の丈に合った分相応の境涯)

 

 

__ 夢を持っている人も、修行に打ち込んでいる人も、将来のために今の時間を使っていることでは同等である。

🔴「修行」を美化しないこと

使い古されて、スピ系の垢がついている言葉「修行」には、

何かしら努力し続けて、報われる図式みたいなウソを感じます。

タモさんの「ジャズな人」じゃないけど……

修行者なんて、「明日の(悟りの)ために生きている人」ですよ。「今を生きている」わけではありません。

ある目的のために、全力で努力することは、目的(例えば「悟り」)に対する凝視があるわけで、それは強い執着ということです。

いわば、明日への執着のために今日という日を犠牲にしている人です。

道元のいうように、修行に果てしがないのならば、準備し続けて終わる人生もあるでしょう。

 

 

__ 最後に、人類全体が己自身にかけた呪縛というか、ポジティブに言えば「夢」。異性と一緒になって幸せになる夢を持てと無意識にけしかけられているが、そのステレオタイプに潜む、本質的な二律背反の罠。リベラルの目指した「自由恋愛」は、社会的な結婚制度の崩壊をもたらした。

男の思い描いた「理想の女」、女の思い描いた「自分だけの男」、互いの夢は決して交わることはないのに、薔薇色のカップルになろうとする悲哀。

「夢をもて」とばかりに、高望みして現実を踏まえない無邪気さは、後年深刻な心のキズを刻むこととなるだろう。

以下の拙稿は、ブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄では、不掲載だったものだ。なにゆえに拒まれたのか、かえって興味が湧いた。

 

🔴人類の男女ツガイ・モデルは崩壊したのか、自由になったら結婚しない皮肉

NHKEテレの特集で100分deフェミニズム』を興味深く拝見した。

お笑いの賢女バービーのMCで、出演者全員女性で、わたしの贔屓の上野千鶴子女史も出ておられた。

 

その筋では、名の通った論客を集めたものだった。

お一人ずつ、フェミニズムに多大な影響をもたらした著作を推薦しながら、話が進められた。

千鶴子さんのは、セジウィック『男同士の絆』であったが、男性社会における女性排除によるホモ・ソーシャルな構図女性蔑視と同性愛嫌悪を共有する男同士の仲間意識)が、イラストで図解されると、ほんとうに分かりやすく理解された。

家父長制そのものが、女性差別だったことに思いあたると慄然とせざるを得ないものだ。

日本の旧家や、庶民でも『寺内貫太郎一家』のような昔ながらの頑固親父は「家父長制」を礎にしている。

ヨーロッパからロシア・アジアまで、貴族から一般家庭までみんなそうである。お父さんは例外なく家庭の支配者だったのである。

女優の安藤玉恵ちゃんのロックな朗読も素的でした

 

【NHK朝ドラ『あまちゃん』にもご出演、あまりの色っぽさに仰天した、知性あふるる女優・安藤玉恵】

 

 

中美津・水田宗子・上野千鶴子の本をかじり、男女の溝について理解が進んでくると、同時にそのどうしようもなさにお手上げするしかないようだ。

ミロクの世の到来(2039年)、半肉半霊とは、最早男女のツガイでは人類は成り立たなくなっていることを示唆してはいまいか。

女に対する、大母性に対する、あらゆる幻像が完膚なきまでに破壊される体感がある。

天照太御神が輝かなくなったと言ってよい。

釈尊のサンガ(僧のコミュニティ)に女性を引き入れた阿難尊者は、果して正しかったのだろうかと、いまでも時々アタマを過(よぎ)る。

 

ービートたけしの云われた、戦前の日本人が尊んだ「清貧」の美徳。

高度成長期では、大量生産・大量消費を謳っていたから、まさしく「清貧」の逆のベクトルを進んだ。それがバブル経済が崩壊して、30年にも亘ってゼロ成長時代を続けた日本国は、また揺り戻して「清貧」の現実性に立ち返るのではあるまいか。

文字通りの「清貧」とは行くまいから、今流行りのコトバで「カチヘン(価値の変化)」ということになろうか。

NO MUSIC, NO LIFE の産みの親、箭内道彦が云っておられた。

特技を生かすじゃなくて、短所で生きるみたいな事がカチヘン(=価値を変える)だと思っている。

 

…… これは、アンチ・エイジングではなく、エイジング(自然に老いる)を受け入れることにも繋がる。「価値とは欠けている何かである」と言ったのは誰だったか?(サルトル?)

堂々と朽ち果てて、没落のうちに生を全うするといった風情になろうかのう。

欠けてゆくことを豊かさに転換する、生存のスキルをこそ「老人力」というのであろう。まだまだ、愉しみは続くのである、

青春が終わったら〜 朱夏〜 そして白秋〜 最期に玄冬

それぞれに、時分の花があるというもの、螺旋状にステージは上昇してゆくみたいですね。終わったら始まる、始まったら終わるもの、何の気なしに移り変わってゆく、そーゆーものであるということで、いいんじゃない。

        _________玉の海草


 どうしても気に障る日本語〜 三度び、「 ❌ 感謝です」

2023-01-08 01:34:26 | 危機感

__ なんて日本語だ! と、呆れかえって許せないのが「誰それに、感謝です。」という言い回し。

面白い解釈を見つけたので、記しておくことにする。

 

 

🔴気になる流行語「感謝です」

いままで、何故この言葉が気に障るのか、日本人🇯🇵として違和感を覚えるのか、ハッキリとわからなかったのだが……

「です」は丁寧表現だから、丁寧さを取り除いた基本文が「感謝だ」になるわけですよ。

 

「感謝です」➡︎「感謝だ」

 

といいかえると、本質的に間違っているのがよく判る。

「感謝だ」とか「感謝である」

なんて誰も言わないでしょ。

「感謝だ」という確言は、明らかに間違った日本語でしょう。

 

「〇〇だ」と〇〇に名詞(体言)を入れると……

例えば、「いまが、チャンスだ。」とかは立派に成立する。

だからといって、「あなたに、感謝だ。」とは言わないでしょ。

だから、こういう言い方を平気でするようになった、日本人のコトバ感覚(センス)が深刻に懸念される。

 

まともな日本人が、「感謝しています」という厳粛な気持ちを、軽薄短小に「感謝です」なんて縮めて言いますか?

 

ニューミュージックの天才作詞家・ユーミンや、私の尊敬する作家まで、還暦以上の方々も「感謝です」なんて平然と使っているんですよ。

嘆かわしいと思います、昨今は詩人も堕ちたものです、世も末です。

どうか国語に詳しい方々のご意見を承りたいものです。

 

 

 

🔴「感謝です」という本音とは?

或るブログのコメント欄で、実にユニークな意見を見つけたので、引用しておきます。

 

「感謝です」= 感謝(みたいなもの)です 

 

私も百歩ゆずって、「感謝(の気持ち)です」ぐらいの軽さかなと感じていました。

 

現代はインターネットが普及して、以前でしたら発信する機会のない人びとが「自分で文章をつくって、発信する」ようになりました。

そもそも、読書しないのに加えて、ネット上に書かれた変な日本語に最初から馴染んでしまうものだから、自然とそれを真似て書くようになったのだと思います。

 

ー他にも、実際目にした気になる書き方を紹介しますと……

なるほどでした。

  管理することによって、マトリックスの世界へ一直線に思います。

…… 納得してないのに議員で決めてしまうのは悶々です

最新チップ技術がこのように使用され活躍しているのは本当に賞賛です

今回の予言はガクブルです

コメ欄は良くみないとですね。

何とかしないとです。

自然霊なら、私を生かしてくれているだけでも感謝しなきゃですよね。

エアコンの取り替えのため、部屋の片付けが労働です

 

📺ニュースより)> 環状七号線で、 トレーラー火災が発生です。[※  何故、「発生しました」と動的な日本語が使えないのか]

 

 

…… まーありがたい事に、意味は通じるものの、おかしな言い方が流行ってきたものだと、頭を抱えてしまいます。ちゃんとした日本文になっていないのです。

最早、報道ニュースの原稿にまで、採用されているのですよ。

マスコミの言語レベルもガタ落ちですし、確実に民度は低下していると思います。

 

日本の先人がたの日本語の使い方を知っておいてから、それを時代に合わないから破るのなら、まだ話は分かるのですが…… 

基本的な日本語の使い方を、そもそも知らないで(人付き合いが希薄でコミュニケーション不足なので)、自分勝手に都合のいいように改悪するのですから、堪ったものではありません。

 

心ある人だけでも、正しい日本語🇯🇵を守っていかないと、大変なことになると危機感をいだいております。

       _________玉の海草