__ いままで、
「中道・中立・中正・中庸・中観」の解説には、
どれだけ欺されてきたことか。その凡庸な解釈を鵜呑みにしていた自分を今更ながら悔いている。
「二つの中間を歩む、中間に立つ、中間を庸(もちいる)」だからといって、
「二つの極端を避けてほどほどに」という意味じゃないんだよね。
【蛇を頭上にのせた、宇宙人のような 龍樹(ナーガルジュナ)は、釈尊が生前に予告してした聖者であり、釈尊の原初の「仏道」を「大乗仏教」という別物に入れ替えてしまった、仏教史最大の哲学者でもある。上記の本に描かれている、ダイナミックな「転法輪」☸️は、龍樹の「中観(中道観)」の実相をよく表しているように感じられてならない】
釈尊の中道は、初転法輪(初めての説法)において、
「快と苦のどちらにも偏るな、二辺を避けなさい」
と仰ったことから、
「両極端を避けなさい」という意味で通説になってしまったが、そんなありきたりなものではないそうです。
「二辺」つまり二つの対立概念から離れなさい という意味だとか。ヒンドゥー🛕の非二元(アドヴァイタ)です。
孔子の中庸にしても、孫の子思が書いた『中庸』では、「喜怒哀楽未発の中」と述べています。
喜怒哀楽の感情が生まれる以前の「中」ということです。
意識・無意識の生ずる前の真我、仏教の「無分別智」といった処でしょうか。
「中」という文字は、日本語で「あたる」と読むように、ちょうどいいという意味合いもあります。
一休の「この橋わたるべからず」とは、端(二辺)をわたるなという意味ではなく、真ん中の大道(道の真ん中ではない)をゆけと解きます。
Rさん(伊勢白山道)も、グルジェフの自己想起を解説した記事のなかで、4段階の自己想起をした上で、「常に相手と自分との中間を意識する」と云われています。
この「中間」という言葉のチョイスが誤解の元なのですよ。
これは、相手と自分のどちらにも肩入れせずに、斜め上から静観するということでしょ。
聖ラマナ・マハリシの「映画の喩え」📽でいうと、相手と自分とは映像であり、中間とはスクリーンのことだと思います。まー、神の視点でもよいでしょう。
だからして、中道とは「バランスを取る」ことではないのです。「両極端を避けてほどほどに」ではないのですよ。
もし中道の意味する処が「バランス良くほどほどに」であるのならば、釈尊ご自身のたどった軌跡は、中道だと言えるでしょうか。
妻子のある一国の王子の身で、すべてを捨てて出家する、生死の危険が伴うレベルまで極端な荒行(例えば「断息行」では鼓膜が破れるまで極めている)をやり続ける、それらのどこが「中道」なのでしょうか。
菩提樹下での成道以前のことがら故、釈尊ご自身よく分かっておられなかったという解釈も成り立ちますが……
大悟なさった後でも、それを修正することはありませんでした。「中道」をとるといっても、還俗なさったりはしませんでしたし、故国シャーキャ国の滅亡も静観して見送っておられます。
釈尊は、「二辺(二元性)」がある現実が恐ろしかったから、出家したのです。そして見つけたのが釈尊の「無」であり、後世の龍樹があらためた「空」でありましょう。
空=仮=中ということで『中論』を書いています。
釈尊はつねに実践が伴う哲学でしたけど、龍樹はズバ抜けた抽象理論家(物理学者)の感じがしますね。
結論として、中道の意味は「ニュートラル」(エンジンは動いている)が一番実態に近いと思います。
「有る無し」の彼方に控える「無」だとすると、ニュートラルには、中立や中性の他に、「無性」の意味も含みます。
中間色とともに「無彩色」の意味もあり、去勢された動物の意味もあります。
「ニュートラル・カンバセーション」で当たり障りのない会話となります。
ギア⚙の入っていない「喜怒哀楽未発の中」のニュートラル状態(動力源は稼動中)が、「中道」に相応しいと思います。
AとBとの中間を取る(=バランスを取る)といった複雑な操作では、咄嗟の場合に複雑すぎて選択できないと私は思っています。動いているA 、B、その中間なんて、三点も瞬時に把握できないでしょ。
だから、「バランスを取る」じゃなくて、動く映像に心動かさないでスクリーンを意識する「中道」を採用するなのだと思います。静観するというのは、そこまでしなければならないということでしょう。
中道の本来の意味は、「普通」の原義(あまねく通用する)と近いのではないかと推測する。
「道(TAO)」にあた(中)れば、普く通るからです。
※(wikiより、ナーガルジュナの「中観(=中道観)」について)>
「中観」のサンスクリット Madhyamaka は madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある。
ー 中道の奥深い意味を辿ってきたが、それを生活現場に落とし込めば、「ああでもない、こうでもない、無難な道」という処世術もあり得るのかも知れない。
人間には、倒れないように踏ん張る「生存本能」がある。そんなときには、必死に踏ん張っているわけで、必ずしも「中間」を意識してやっているわけではない。
巻き込まれた交通事故にあっても、咄嗟に神がかったように正確な判断をして、九死に一生を得ている素人のケースも、数多く報告されている。
無心にあって、中道(=正しい道)を間違いなく撰びとることが出来るのは、非二元(アドヴァイタ)の神の眼で観ているからではあるまいか。
_________玉の海草