__時を同じうして
・武田砂鉄『わかりやすさの罪』
・池上彰『わかりやすさの罠』
の2冊が刊行された(未だ読んでいないので、画像は載せない)
世間がいかに「分かりやすさ」を求めているか……
また、池上さんに代表される「分かりやすく解説してくれる人」を歓迎する世相がよく現れた出来事だと思う
「分かりやすさ」が絶対的に良いものだと盲信している人びとが多くなったのは、実は最近のことだ
Twitter では、最初の3行しか読まないひとがほとんどである のが現状だとか聞く
「知る」ことに時間を掛けないのだ
わかりやすさ=即座に理解できる ⏳
世間でゆー「コスパ」が悪いことに堪えられなくて、手っ取り早く手に入れたい風潮なのだと思う
むかし(昭和頃)は、自分が「知らない」ことが恥ずかしかった、それ故にもし自分に理解できないことがあっても、自分が未熟なのだと反省して黙っていたものだ
そんな風潮だから、当時知識人の代表たる作家や教授は異常に尊敬されたし、職場の経験ゆたかなせんぱいは神さまみたいなものである
しかし、いつの頃からか、自分が理解できないとなると逆上して「分かるように教えないオマエが悪い!」と文句をつけるよーになって来た
この教師に対する逆ギレは、いつ頃始まったのだろう、なにか「教育」が孕む闇に触れているよーだ
真に賢い人は、子どもにも分かるよーに噛み砕いて説明してくれると、
難しいことを書いている時点で「オマエは頭が悪い」とゆーわけだ
「真理はシンプルである」とゆー命題は、わたしにも共感できる処があり、「複雑さ」に至るインテリジェンスを最重要視するわけではない
アカデミックな権威とは、ある一つの観方に過ぎないことも間々ある
しかし真理はたとえシンプルではあっても、分かりやすくはない
相対性理論が、「E=mc自乗」とゆー美しい数式に帰着するにしても、そこに至る道筋は極めて複雑で誰にでも理解できるものではない
ものごとを厳密に「正確に」描写しよーとすれば、専門用語などつかって難しく「分かりにくく」なる
専門用語とゆーものは身の回りの生活用語(口語)の中に、「そのこと」を表す適切なコトバが見当たらないから、新しく概念を設定するものである
哲学など代表的なものだが、そーした難しさ(=正確さ)を拒んで「分かりやすさ」を追求すれば……
つまり、複雑な実態をもつものを強引に簡素化して「分かりやすく」してしまうと、必ず抜け落ちてしまう「大切な何か」がある
実に象徴的なんだが…… 「フェイク・ニュース」も同じ消息で出来上がる
誰かの主観的なフィルターが掛かった「分かりやすさ」は、決して実相を伝えてはいない
「分かりやすさ」に慣れきった知性は、「分かりにくさ」のとっつき難い拒絶にあって尻尾を巻いて逃げ去る
あたかも、柔らかい物ばかり食べていた者が、硬い物を出されて歯が立たず咀嚼できない有り様に似ている
菓子パンばかり食べていては、顎が弱って、フランスパンは食べられなくなる
「噛む」とゆー行為は「脳」に直結していると聞く、神道では「噛む=神(カム)」である
咀嚼力=理解力 、発達した顎(アゴ)が鍛え抜かれた知性をあらわす
よく噛み砕いて、自家薬籠中の物にしてから……
自らの言葉で相手に合せて説明できる、
これが「分かった」ということであろう。
ー次に記す是枝監督のコトバは、もっと注目されてよい
>「僕は意図的に長い文章を書いています。
これは冗談で言ってたんだけど、ツイッターを140字以内ではなく、140字以上でないと送信出来なくすればいいんじゃないか(笑)。
短い言葉で『クソ』とか発信しても、そこからは何も生まれない。文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか。字数って大事なんですよ」
「だって、世の中って分かりやすくないよね。
分かりやすく語ることが重要ではない。むしろ、
一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています」
‥‥ わたしも、伊勢白山道に投稿していると、必ず「長文やめろ」「難しい」と、短文礼讃の読者から文句を頂戴する
短く端的に言い表せる人は賢いと思い込んでいるのだ、
そして、サクサクとコメント欄を読み進めたい望みをもっている人なのだ
ブログ主のリーマンさんは、易しく説明してくれるし、真理とゆーものを子ども(小学生)にもわかるよーに説くことが出来ると豪語しておられる御仁でもあるのです
しかし、果して予備知識(あるいは体験)のない子どもに、わかりやすく伝えることができるものだろうか
そもそも、言葉だけで深い消息を伝えるのは、無理がある
わたしの観る処、歴代の聖者でそれを成し遂げた人は見当たらない
神秘主義とは、コトバの限界を痛感しており、仕方なく「沈黙」に到り着く
わたしは「神秘」については何処までも「正確さ」をもって追求したい者なので、バッサリと主婦や子どもでも分かる「生活用語」で「分かりやすく」してもらいたくないわけ……
真理つーのは、分かり易いものではない
分かりやすかったら、きっと飽きるでしょ
「分かりやすさ」は、自分がいま既に持っているものを使って説明する
既存の伝統と違うから新しいのだし、同時にわかりにくいのだ
区別するために、違う専門用語をつかうのである
古代中国人は、インドから渡来した仏教の「無」を、すでに自分たちが持っていて何か似ている感じの道教の「無」と一緒くたにしてしまって、「分かった」ふりをしてしまった
この消息に似通ったことが、現代の日本で起きている
誇り高き日本人が、大陸から渡来したものを決してそのまま受け取らなかった日本人(儒学は輸入したが儒教は国内に入れなかった)が、あまりにも変わってしまったものだ
他人にまかせて自分で考えることを怠り、短絡して「分かりやすさ」を喜んで受け入れている
これじゃあ、本物の知性は育たぬよ、いまや「碩学」は絶滅危惧種となってしまった
ほんとうに心配しているのは、TVのコメンテーターの質が素人レベルになってしまった事だ、お笑い芸人を並べても何ら参考にはならない
人生全般なんでも知っている、街のご隠居さんがいなくなった、昔は寿命が短く「人生五十年」とか云っとったから、40歳くらいで立派なご隠居だったと思う
いまどきの40歳は、まだアイドルなんてやってますからねえ、子どもの国・日本だから「老獪」もまた育たぬのよ
_________玉の海草
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