『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 書初め〜 表記について

2021-07-07 01:47:24 | 日本語

ブログ『伊勢-白山 道』において、私の舌鋒鋭い批判投稿がコメント欄において出禁になった模様で…… 

投稿が不掲載になる有り様である(リーマンさんの文章表現が気に入らないだけなんだが)

仕方なくとゆーか、ついにオリジナルでとゆーか、ブログなるものをしてみんとぞ思ふ

とりあえず、私なりにネット用の独自表記をつかうことに致します

ネットの文章については個人的な趣向で「音声表記」にしているからです
「こういう」→「こーゆー」
「〇〇と言う」→「〇〇とゆー」
「そうです」→「そーです」


> 1904(明治37)年度から使われた『尋常小学読本』には、このようないわゆる棒引き仮名遣いが書かれていた。
たしかに、「病気」は「ビョーキ」と発音するので、じっさいの発音に近い表記にしたのだろう。
しかし、日本の仮名の歴史において、棒引き「ー」は使われてきたことがない。
[※ 沢辺有司『日本人として知っておきたい〜 日本語150の秘密』より]

 

‥‥ まー、こんな感じで意外にも前例があるのである

あくまでも表記を「口語」の音声表記にするだけで、由緒ある日本語を乱す気持ちは毛頭ない

 

おそらく、こーした文体とゆーか表記は、なんとなく底しれない作家として敬愛措くあたわざる橋本治の初期小説『桃尻娘』シリーズの影響が深く胸の奥底まで快く浸透しているからだと思う

橋本治って、現代作家のくせに『窯変源氏物語』(全14巻。1991〜93, 中央公論社刊)の中で、光源氏目線で話をすすめるために、「漢詩」をわざわざ平仄から勉強して創ってしまうよーな巫山戯たお仁なんです ♪

> 「…… 俺がまたややっこしい人で、処女作書いたあとで、それを読みふけりすぎて、自分の処女作に影響されてしまったという困った人だから。」(橋本治)

‥‥ 参りましたね、わたしはこれでも、近頃日本でめっきり少なくなった「読書人」である、3000冊は読んでいるのに、橋本治には正味参りました

以上



3 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-12-09 21:49:26
此方でしたか、探しておりました。
百太夫で検索したり…
出禁と言うより“道”への導きですね。
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Unknown (玉の海草)
2021-12-11 12:33:28
「百太夫」様は、遊廓の神さまの御名ですので、とんだご不敬を働いてしまったことを、いまだに後悔いたしております
怖いもの知らずで、リーマンさんにも真っ向から盾つきました(それだけ信頼しているからです)
どーも、言霊を仰るわりにご自身では和歌の一首も詠まれないし、何よりもあの文章の未熟さは到底赦せませんでした、おそらく大学の卒業論文など書いておられないのではないでしょーか(日常的にレポートを書いたとは思えない文体、読書量不足が致命的です)
霊視で内容をつかめるから読書しないとゆーことは、歴然たる文章表現力の違いをもたらすことに気づかされ、零能者の長時間にわたる読書もムダではなかったと今更ながら感慨深いです
釈尊にしても老子にしても、あんな風な言葉の練れていない文章(語彙も乏しい)を書くよーな人だったら私は信用しません、読みません
無学な神懸り人とかもおられますので、たとえ訥々とした文法的にも可笑しな文章であっても精いっぱいの誠意は感じられ、それはそれでよろしいわけですが…… 親のスネかじって大学まで進んだにも拘らず、あの文章は生けません
昭和38年生れの神筋にしては、あまりにも基礎的な素養が欠けています

三島由紀夫みたいな華麗な日本語を駆使しろと云っているわけではないのです、平易な作文で十分なのに、クセの強い悪文といってもよい文章レベルです(最近は少しよくなってきた ♪)
…… とまあ、こんな具合に舌鋒鋭く烈しい批判を二十回位は投稿しているのではないか知らん(勿論不掲載です)
リーマンさんの文章を添削して、普通ならばこー書くだろーと代替文も進言済みです
本を出版しているとゆーことは、売文家として責任がありますから、一切の容赦はありません
「御座位ます」の表記一つにしても、世間的には影響力が大きいのです
リーマンさんの日本語は、後世に語り継いで遺してゆきたいほどの日本語ではありません(その内容情報は有り難く聴聞いたしますが)
理系の大学生だったとはいえ……
もー少し国語の勉強をして欲しかった、文章力とは単なる「技術」です

一ヶ月位は完全出禁だったと思います、いまは幸いにも概ね掲載いただいております、リーマンさんやルーシェさんそして大先輩がたに御礼を申し上げる機会を逸することは避けたいので
、出禁とならないよーに大事に投稿しております
ブログ主の和文感覚が日本人らしくないだけに、読者の方にも酷いのがおられます
最早「感謝です」なんて、市民権を得ているみたいですね、実になげかわしい
真っ当な日本人が多いコメント欄だと思っておりましたが……
最近は世代交代も進み、読むに堪えないよーなのも少なくありません
「感謝の全集中」だの「感謝の行」だのには笑ってしまいました
「感謝」とゆーものを修行にしてしまっては意味がないでしょー
もし子孫が、修行の一環として「供養(=感謝)」したとしたら、ご先祖は喜びますか?
オカルト(隠された知識)の初歩をはき違えています
リーマンさんのブログ更新が止まった時、リーマン信者は奈落の底に沈むことでしょー
なんのための伊勢白山道なのか、真理探求の旅の初めから伊勢白山道があった人びとには分からないのかも知れない
返信する
Unknown (玉の海草)
2022-01-02 04:11:43
年明けに不図、「感謝行」って、初っ端は誰が云ったんだっけ?
回峰行とか不断念仏行みたいに、ずいぶんと仏教系の重い言葉だが…… と

ルーシェ検索であたってみたら、なんと2007年の2chに於いて
初出は、リーマンさんご自身の発言でした
このコトバをお使いの読者の方々、文句をつけて済みませんでした
あなたがたは、リーマンさんの真似をしただけだったのですね
(ただ、リーマンさんはその後つかわなくなったよーです)
但し、わたしはつかいません、この場合のリーマンさんの言語感覚(命名)は容認できません

「感謝想起」って、色んな解釈があり色んなフェーズはあるとは思うのですが……
本来は「生かして〜」の聖句によって、「生かされている自己存在」を想起して、【生かされている感謝】を捧げるものです
この前段はグルジェフの「自己想起」にあたり、後段は参拝(礼拝)にあたるかも知れません
グルジェフは自己を想起している時、もっとも人は「人間らしく生きている」と自分の経験を観察して覚ったが故に「自己想起」をすすめたのです
伊勢白山道の読者の方々が、「感謝行」とゆーコトバでどんな内容を意識しているかは分からないが、「感謝」とゆーことを何か事務的に「行」にしてもらいたくないと切に望みます
自分がいま生かされていることへの感謝の思いを噛み締めることなく、
あっちにも感謝、こっちにも感謝、身の回りの八百万に感謝をばら撒く、いわば感謝の安売りみたいな小狡さ・計算高さを感じる
「感謝しかない」なんて、すぐに短絡する
浄土系の「妙好人」の報恩感謝はそんな安っぽいものでは断じてない
なんでもプログラムを与えられると真面目にそれを「行じる」日本人、事あるごとに「頑張ります」と宣言しては、何も責任をとらない単なる気分屋の集まりで、時間つぶしに「行」をされてもなあ〜と嘆息する私は、かなり辛辣かしら?
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