__ グルジェフの『注目すべき人々との出会い』には、グルジェフに負けず劣らずの個性が目白押しである。畏れるべき人物のまわりには、凄いレベルの友人たちが犇めいているものである。ひとりの傑出した人物が出来上がるには、数多の同じような偉材が背景にいることは確からしい。
【グルジェフ自身による自著・森羅万象三部作のうち、第二作目がこの『注目すべき人々との出会い』である。造語に溢れて故意に難解にしあげられた大著・第一作の『ベルゼバブの孫への話』や、未完に終わった第三作の『生は<私が存在し>て初めて真実となる』と比べれば、グルジェフが邂逅した偉大な人物とのエピソードをまとめたこの本は、物語性もあり、一番読みやすいかも知れない。この本に記された太古から続く秘教スクール・サルムング教団については、オカルティスト達が躍起になって居場所を特定しようとしたものである。】
● “ 存在に「語り」かける ”
[2009-11-29 19:54:43 | 玉ノ海百太夫]
グルジェフが、旧友・スクリドロフ教授と連れ立ち、必死の潜入行を試みていた途次……
ギリシア人繋がりで邂逅した、世界同胞団の俗名「ジョバンニ神父」から学んだとして、知識と理解について注目すべきことを書き留めている
―ある人が他の人に何かを話すとき、
話し手自身の内に形成されている資質の如何によって、聞き手に認識されることの質が異なると云う
その実例として、世界同胞団の二人の高齢の同志について触れている
> ひとりはアル修道士、もうひとりはセツ修道士と呼ばれている。この二人は、わが派の全僧院を定期的にまわり、神性の本質のさまざまな面について説明するという仕事をすすんで引き受けておられる。…… 略……
聖者としてほとんど優劣つけがたく、同じ真理を語っているにもかかわらず、この二人の同志の講話はわが同志すべてに、とりわけわしに異なった効果を及ぼす。
セツ修道士の話は、まったくのところ極楽鳥の歌のようじゃ。その話を聞くと、人はいわば内面をさらけ出したようなかたちで忘我境をさまよいだす。
その言葉はさらさらと小川のように流れ、聞き手はもうセツ修道士の声を聴く以外何も欲しくなくなってしまうのじゃな。
ところが、アル修道士の話はほぼ正反対の効果を及ぼす。
話し下手で、曖昧なのは明らかにお歳のせいじゃろう。彼がいくつになるのか誰ひとり知らない。
セツ修道士も大変な老齢で三百歳とも言われておるが、まだまだかくしゃくとしておられる。それに比べて、アル修道士の老衰は目に見える。
セツ修道士の言葉を聞いた瞬間に受けた印象が強ければ強いほど、その印象は霧散してしまい、ついには聞き手の中に何一つ残らない。
しかし、アル修道士の言葉は初めはほとんど何の印象も残さないが、あとになって日に日にその骨子がはっきりとしたかたちをとり、全体が胸(ハート)の中に沁み渡って、永久にとどまるのじゃ。…… 略……
『セツ修道士の話は彼の 心から出て、われわれの心に作用するが、
アル修道士の話は彼の 存在から出てわれわれの存在に作用するのである。』
さよう、教授(スクリドロフ)。知識と理解はまったく違ったものじゃ。
存在に通ずるのは理解のみで、知識は存在の中の束の間のありようにすぎない。
知識は古くなれば新しい知識にとって替わられる。結果的に見れば、いわば虚から虚への移り変わりでしかない。
人間は理解を求めねばならない。
-引用『注目すべき人々との出会い』より
● 補足
[2009-11-30 23:59:36 | 玉の海百太夫]
ジョバンニ神父は、こーも云われています
> …… 理解というのは、いまも言ったように、意図的に学んだ情報の全体と、個人的な経験とによって得られるものなのじゃ。
それに対して知識とは、言葉を機械的に特定の順序で暗記することにすぎない。
人生の途上でいま述べたようにして形成される内的理解を、他人に分け与えることは、たとえ心からそう望んだところで不可能なのじゃ。
-*G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』棚橋一晃監修・星川淳訳・めるくまーる社-より
…… 宮沢賢治が「自然の書を読む」といい、寺山修司が「書を捨て 街に出よう」といった消息……
釈尊の「拈華微笑」、禅の「不立文字 教外別伝」もまた……
イスラームの大賢ムーサー・ジャールッラーハが「神の不思議な創造の御業を実際にこの目で見るために、世界中を旅する」のも同様に、自らが直
面し直接触れて理解する『体験知』の見地に立ってのことだったのでしょー
存在に作用するのに、必ずしも言葉(≒知識)は必要ではないつーことなんですナ
無言の教えとゆーものは、確かなものです
【碩学・井筒俊彦に、アラビア語とイスラム文化を伝授した大賢者・ムーサー。】
グルジェフの、「エニアグラム」をはじめとする数々の叡智はイスラム由来なので、イスラム学者を代表する大賢ムーサーにも触れておこう。
● 本場のイスラーム社会で哲学者として活躍され、地元の人々からも 大いに尊敬された学者に 故・井筒俊彦がいます。 掛値なしに碩学と呼べる最後の人と評されたほどの御仁です
彼が生前、司馬遼太郎と交わされた対談『二十世紀末の闇と光』の中で…
驚くべき天才学者 ムーサー・ジャールッラーハ との邂逅を 懐かしく振り返っておられます。
とにかく“イスラーム世界にその人ありと知られた大先生”との事で、『コーラン(クルアーン)』『ハディース』は固より
“イスラームでやる学問の本なら 何でも頭に入って(暗記して)いるから、その場でディクテーションで教えてやる”(ムーサー・談)って具合で…
本一冊持たずに 空手で一所不在に諸国を漫遊しているぉ方なのです 。出逢った頃は 世界旅行の途次、日本に寄られ 在日イスラーム・コミュニティーの世話になっていたのでした。
そうした大学者の家庭教師に 井筒は「何のための世界旅行ですか?」と単刀直入に尋ねている。
その応えを 以下に引用する。
「 神の不思議な創造の業を見るためだ。それが本当の意味でのイスラーム的信仰の体験知というものだ。本なんか読むのは第二次的で、まず、生きた自然、人間を見て、神がいかに偉大なものを創造し給うたかを想像する」 (ムーサー)
● グルジェフ『ベルゼバブ』より
> 毎日、日の出時に、
そのすばらしい輝きを見ながら、
おまえの身体全体のさまざまな無意識の部分と
おまえの意識とを接触させ、その状態が長く続くようにしなさい。
そして、無意識の部分が意識的だと想定して、
その部分に次のことを自覚させなさい。
もし無意識の部分が、おまえの機能全体を妨げるならば、責任ある年代になっても、その無意識の部分のためになる善をなすことができないばかりか、
その部分を含むおまえという存在全体は、われらが「共通の永遠なる創造主」に奉仕することもできなくなり、
その結果おまえは、誕生し生存していることに対する恩返しをするにも値しない存在になるであろう。
…… 昔からご来光を拜するのは、「無意識」に語りかける手段だったのですナ
● ―グルジェフは云っている
『隣人を見つめ、その人の本当の意味を知り、その人がやがて死ぬということを実感すると…
あなたの中にその人への憐憫と慈悲がわき起こり、ついにはその人を愛するようになる。』
> 『人々があなたに言うことではなく、あなたをどう思っているかを考慮しなさい』(グルジェフ)
> 『われわれは過去をふり返り、人生の困難な時期だけを思いだし、平和な時期は少しも思いださない。後者は睡眠である。
前者は奮闘であり、それゆえに人生である』(グルジェフ)
『ベルゼバブの孫への話』の中で……
グルジェフの敬愛する、トルコの賢者ムラー・ナスレッディンの格言を引用してみよう。
愛弟子ウスペンスキーの精緻なる理論書『奇蹟を求めて』と、グルジェフ自身による自著『ベルゼバブの孫への話』との違いは、大雑把に言って前者は論考・評論の形をとっているが、後者は壮大なスケールのSF寓話物語である。
そして、『ベルゼバブ』には、ムラー・ナスレッディン・ホジャ(Mullah Nassr Eddin)
の格言が鏤められていて、それが巧まざるユーモアに誘なう処が、決定的に違うのである。
つまり、レベルが段違いである証しである。
例えば、聖仏陀の教えに対する、知ったかぶりの大ぼら吹き(ハスナムス)による歪曲についてはこんな具合です
「もとの香りだけがかろうじて伝わってくるわずかな情報」(M=ムラー・ナスレッディン)
―他にも
「あらゆる誤解の原因は、すべて女性の中に探らなくてはならん」(M)
「その中には何でもあるが、ただ核、あるいは芯だけが欠けておる」(M―現代人の精神について)
~ずる賢さでは誰にもひけをとらない、われらがルシファーもうらやむほどの「とてつもない、でたらめな」お話をでっちあげた
「人間にーとってのーあらゆるー真のー幸福はー彼らがーすでにー経験したーこれもまたー真であるー不幸ーからーのみー生じるーことがーできる」(M)
~偉大なる自然、われらが共通なる母
「どんな棒にも必ず2つの端がある」(M)
~もし馬鹿騒ぎ(汎宇宙的な生の原理)をするのなら、送料も含めて徹底的にやれ
~いわゆる「率直で信頼にあふれた相互関係」が確立された時にだけ善きことを受け入れることに対する抵抗が消えるという人間特有の性質
~時間が経ってもおさまらない立腹というものはない(ロシア諺)
「自分の膝は飛び越えられないし、自分の肘に口づけしようとするのも馬鹿げている」(M)
「高まりゆくジェリコのラッパのよう」(M)
『魂をもつ者は幸いなれ、また魂をもたぬ者も幸いなれ、
しかし魂を受胎し、産み出そうとしている者には、嘆きと悲しみがあるであろう』(聖キルミニナーシャ)
● “アジア人の作法~ 全人的に付き合う”
[2014-05-22 01:28:59 | 玉の海]
(*星川淳・訳『注目すべき人々との出会い』より)
―グルジェフの、
「いまだ母なる大自然からそう遠く隔たっていないアジア人たち」
に対する信頼感は、
老ペルシア賢者の話に託して吐露される
> それはヨーロッパ的な意味での知性ではなく、アジア大陸で理解されているところの聡明さ、つまり知識だけではなく【実存にもとづく聡明さ】をそなえた人であった。
> 地理的条件その他によって現代文明の影響から隔離されている今日のアジア大陸の住民のすべてが、ヨーロッパ人よりも遙かに高度の感受性を発達させていることは周知の事実である。
そして、感受性が常識の基盤であるために、これらアジア人種は、一般的な知識量の少なさにもかかわらず、現代文明のただ中にいる人々よりも、ものごとについていっそう正しい見解を持っている。
観察対象についてのヨーロッパ人の理解は、すべてに万能の、いわば『数学的情報』だけに頼っている。
それに対してアジア人の大部分は、ときには感受性だけで、ときには本能的直観だけで対象を把握してしまうのだ。
……… そんなアジア人にものを尋ねる際の作法について、グルジェフが解説している条りがある
>…… 私たちはくだんのエズエズーナヴーランに近づくと、
【しかるべき挨拶】をしたうえでその傍らに腰をおろした。
その地方の民族のいろいろな礼儀に従って、私たちは【本題にはいる前に】、彼と【よもやま話】を始めた。
…… G(グルジェフ)が云うには
ヨーロッパ人は、「頭の中にあることはほとんど必ずと言ってよいほど口に出る。」
ところが、アジア人にあっては、「精神の二重性が高度に発達している。」ために、外面は懇切丁寧であっても内面では何を考えているか油断はならない
> アジア人は自尊心と自愛に満ちている。その地位にかかわらず、彼らのひとりひとりが、自分の人格に対してすべての人からある種の扱いを受けることを要求するのである。
彼らの間では、本題は背景にしまってあり、それを持ち出そうと思ったら、話のついでのようなふりをしなければならない。
> この人の前に出ても、私たちがすぐに質問を切り出さなかったのはそのためだった。必要なしきたりを守らずにそうすることは厳禁だったのだ。
…… この辺りの呼吸は、うちの田舎の長老に払う礼儀に通じるものがある
不躾にいきなり、返答を求めるのは無礼なのだ
人間同士の信がない場合、情報のやりとりは無意味なものとなる
● [2014-05-23 00:56:00 | 玉の海]
きのうの “アジア人の作法” の舞台となった
パミールからヒマラヤ越えの探検行を、盟友カルペンコと伴にしていたグルジェフ等一行は……
奇観がつづく迷路のよーな山岳路を案内できる唯一のガイドを、途中失ってしまいます
筏をつくり、川路を進むために木材の調達のために地元の民に教えてもらう必要にかられました
道を尋ねる場合もそーですが、しかるべき礼儀を踏まなければ、ウソを教えられてもしょーがないのです
このコミュニケーションは、命懸けであり、ひとつ間違えば路頭に迷うこと必定でしたから……
そーした危機を数知れず潜り抜けてきたグルジェフのアジア人観には、心から感服致しました
> アイゾール人はずる賢い悪党として知られている。
トランス・コーカサスにはこういう諺さえあるほどだ。
『ロシア人を7人煮ると
ユダヤ人が1人できる。
ユダヤ人を7人煮ると
アルメニア人が1人できる。
そのアルメニア人を7人煮ると
アイゾール人がやっと1人できる。』
…… いまや世界にその名を轟かせる華僑とて、ユダヤ商人と比べたらまるで歯が立たないと聞く
世界のずる賢いランキングは凄まじい
グルジェフが育ったアレクサンドロポルは、当時ロシア領だったが現在はアルメニア領である
通った学校のあったカルスも、当時ロシア領であったが現在はトルコ領である
それゆえ、ロシア生まれのアルメニア人とゆーことになろーグルジェフの初期の著作は、アルメニア語で書かれている
● “ 御コロナ様でも関係ないさ ”
[2021-04-24 00:26:25 | 王ヽのミ毎]
グルジェフに「超努力」とゆー造語があるが、試練の先を見据えた言葉だなと思う
霊的な「所得」なんでしょーな、きっと
> 「われわれはいつも儲けています。
だからわれわれには関係ありません。戦争であろうがなかろうが同じことです。
われわれはいつも儲けているのです。」(P. ウスペンスキー『奇蹟を求めて』より)
‥‥ この発言は、風雲急を告げるロシア革命前夜、偶然グルジェフと列車に乗り合わせた著名なジャーナリストが、この不思議な東洋人(グルジェフとは知らなかった)との会話をある新聞に掲載したことから、知られることになった
> ロシア革命の混乱を避けながら逃亡を続け、
そしてその逃避行そのものをワークに変換してしまうグルジェフという男。
多くの者が恐怖にとりつかれ、幻想と狂気に陥っていったあの大混乱を、実に「ずるく」泳ぎぬき、
コンスタンティノープルへ、さらにはヨーロッパへと脱出していった男。――この逃避行は本書(『グルジェフ伝』)の圧巻のひとつであり、またこれまでのどの類書よりも詳しい ものだ。
そこからは、コーカサスの山々を越える弟子たちの不満の声や荒い息遣いさえ聞こえてきそうである。
その苦難を、グルジェフはひとつのワークに変えてしまった。
【儲けて】しまった。
いつも、どんなことがあっても、たとえそれが戦争でも、そこから「儲け」を出す。
これがいかに至難の業であるかは、日々のちょっとしたことに苛立ち、怒り、嘆き、困難を避け、あるいは先送りしようとしている私/われわれの日常を振り返れば一目瞭然であろう。
われわれの通常の一日は、まったく「儲け」がないまま終わってしまう。「儲け」もないまま、喜怒哀楽に振り回される日々が続く人生の中で、誕生の時に渡された資金は数十年で底をつき、まったくの無一文になって塵に還っていく。
[※ 浅井雅志『トランスパーソナル心理学の一源泉としてのグルジェフ』より]
‥‥ 呆れた力業とゆーか一大プロジェクトですよね、
革命の大混乱の中、自分の家族どころか大勢の弟子まで引き連れて次から次へと脱出行を成し遂げつづける
平然と弟子の「ワーク」として、その試練を提供しながら、ともに乗り越えてゆく
グルジェフは、その費用の金策も独りで間違いなく行なった
弟子から借りて質入れした宝石を後年律義に探し出してそのものを返している
グルジェフにとっては、いまのこの御コロナ騒動も何の支障もあるまい
正しく受け容れることを知っているとゆーことか
詰まる処、「生活費」の捻出なのだが、グルジェフの場合これに霊的「活動費」が加わる
“ 物質的問題について ” とゆー小篇(正確には速記録、『注目すべき人々との出会い』の巻末に収録されている)がある
これが、涙なしには読めないグルジェフの金作り(つまり「物質的問題」あるいは金策)物語で……
本当か嘘か、ニューヨークでアメリカ支部の資金を稼ぐために、ドル肥りの富豪たちから寄付を募る腹づもりで語ったものだった
優秀なセールスマンは「どうか買ってください」なんて哀願トークはせぬ様に、グルジェフも「どうかお金を寄付して下さい」などとは一言もいわないのだ
グルジェフは、素知らぬ素振りで売りつけるよーな真似はしない、これから売りますよ ♪と宣言してから見事にその通りになるのである
潤沢なドル保持者に呼びかける口上はこんな具合である
「…… 私のポケットそのものがドルの種を蒔くにふさわしい肥沃な土壌であり、そこで芽を出したドルは、種を蒔いた者に客観的意味合いでの人生の真の幸福をもたらす性質を持つにいたるということに、皆さんの誰もが気づくような語り方をするつもりである」
ただでさえ困難な寄付募集を、グルジェフは通訳を介して行なうのである(声の抑揚が大切らしい)
いかに人間とゆーものを熟知しているか窺える
そんなグルジェフの心に刻印されているモットーは、トルコの賢者ムラー・ナスレッディン(ナスレッディン・ホジャ、トルコの「一休さん」みたいな庶民の人気者)の格言より
「人生のいかなる状況にあっても、つねに有益なるものと、意にかなうものを結びつける努力をせよ」
上記の逃避行中も、これで乗り切ったのだろー
_________玉の海草
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