『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 シンプルな極意〜  「しないこと」 

__メジャーリーグの大谷選手は、外でのフリー・バッティングをしなくなった

外で打つと、「もっと遠くへ」と飛ばしたくなって力みが出るからだと云ふ

同じよーに、投球練習も「投げ込み」をしなくなった

監督から「練習のし過ぎ」を戒められているのもあろーが……    大谷選手は練習では100%に持っていかないで、本番で100%のパフォーマンスが出来るよーにしている

この「しないこと」には、単に「練習をしない」ことに留まらない、幾つもの次元が錯綜するが、ここに奥秘があるよーに思えてならない

 

 

その一方で、過剰に「する」とゆー方法論もある

ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄 は、打撃スランプのときに、ただ只管にバットを振り続けたそーだ

もー疲れ切って、バットを持つのさえ辛い状況に追い込まれる

そーした時の、力みの脱けた一振りに、彼の懐く「会心の一振り」が顕われて、その感触を覚え込むとか聞いた

これなんか、剣術の一刀流に伝わる奥義「夢想剣」と同じ消息なんじゃないか

天覧兜割りを成した榊原鍵吉の後継者で、名著『日本剣道史』を著した、直心影流の山田次朗吉は、当時一橋大学生だった大森曹玄老師に教えを垂れて…… 

延々と木刀を振らせ、意識は朦朧として、もはや振り上げるのも敵わないほど衰弱しきったのちに、スゥーと無心に繰り出した大森氏の一振りをみて、「それが夢想剣じゃよ」と仰ったそーだ

剣にしろバットにしろ、シンプルな自然な素振りは、何かを新たに付け足すことよりも、無駄を削ぎ落とすべく「しないこと」によって確立されるよーな印象をうけた

 

さて、ここでメキシコのヤキ・インディアンを名乗る年老いた賢者、類まれな「見る人」の語る世界描写に耳を傾けてみよー

彼の「見ること」は、仏教的にいえば「観る」に相似た、霊視の如き側面もある、度外れた神秘観である

その、メキシコ・トルテックのブルホ(呪術師) ドン・ファン・マトゥス を紹介した、文化人類学者の カルロス・カスタネダ の著作からその辺の消息を窺ってみよー

こんな決定的な言及があるからだ

人は一度あるレベルの自分の力を得れば、運動とかどんな種類の訓練も不必用になる。

なぜなら完全無欠の形をとるのに必要なことは 「しないこと」 をするだけなのだから。

 

‥‥ いわゆる先進国に暮らす吾々が、つねに浴びせかけられている膨大な情報量、われ知らずに「洗脳」みたいな指向性のある意識操作も受けているかも知れない

そんななかで、しなくてもいいことを選別するのは、あるいは「しないこと」を選択するのは、思うほどカンタンでもないよーだ

先述のドン・ファンが、家庭生活と学校生活そして卒業してからの社会生活について、いかなる所見を抱いているものか、先ず聞いてみよー

 

> 子どもと接するおとなはみな、

たえまなく世界を描写する教師であり、

その子が描写されたとおりに世界を知覚できるようになるまで、その役目を果たしつづける。

…… わたしたちがその驚くべき瞬間を覚えていないのは、ただ それと比較すべき対象がなにもないからなのだ。

…… 子どもは、その瞬間から【メンバー】になる。

その子は、世界の描写を知っている。

 

> 世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方 「すること」を知っとるからなんだ。

「すること」が、おまえにその小石と大きな石を分けさせるんだ。

戦士はいつも 「すること」 を 「しないこと」 に変えて、「すること」の作用に影響を与えようとするのさ。

世界は感覚だ。

 

> あらゆるものに それ以上のものがある。

世界は使われるためにある。

わしらが毎日見とる世界は たんなる描写にすぎん。

 

[ カルロス・カスタネダ 『イクストランへの旅』 真崎義博訳 より引用]

 

 

 

‥‥ つまり、人間社会とゆーものが吾々に強要する「ある見方」を覚えこむことが、取りもなおさず「教育」と云われるもの なのだろー

社会制度を成り立たせる「共通認識」と、われわれの本能に基づく「人間本来の生き方」との間に齟齬があるから…… 

社会VS反体制(=個人の自由)の構図のなかで、わたし達は明確に線引きして同じ土俵に上げなかった、曰く「社会常識」と「個人の悟り」

 

ートルテックの「見る者」ドン・ファンは云ふ

>あそこにある、あの岩が岩であるのは 「する」 からだ。

見つめることは 「する」 ことだが、

〔トルテックの〕見ること 、それは 「しない」 ことなんだ。

あの岩が岩であるのは、

おまえがやり方を知っとるすべてのことのせいだ。

わしが 「する」 ことと言っとるのは、そのことだ。

たとえば、知者なら岩が岩なのは、「する」 ことのためだってことを知っとるから、岩に岩であってほしくないときは、

ただ しなければいいのさ。

世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、「する」 ことを知っとるからなんだ。

世界を止めるためには、

「する」 ことをやめにゃいかん。

 

>日常的な世界が存在するのは、わたしたちがそのイメージの保ち方を知っているからで、

逆にもしそのイメージを保つのに必要な注意力をなくしてしまえば、世界は崩壊する。

[※  引用同上書より、上記文中〔〕内は私挿入]

 

‥‥ この「すること」を止める、「しないこと」にとどまるのは、あたかもヒンドゥー・アドヴァイタの道における 「概念(観念)化を止める」 消息と酷似していよー

つまり自我を脱して、本来の真我に還るとゆーことになるか

無としてあることで、私はすべてなのだ。

> 探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。

> 真我は近くにあり、それへの道は易しいものだ。あなたがすべきことは、ただ何もしないということだけだ。

[※  ニサルガダッタ・マハラジ 『 I AM THAT 〜私は在る』 より]

 

 

わたし達は、コミュニケーションに便利なコトバとゆーものに宿命的に縛られている、

つまり 言葉=観念 にがんじがらめにされている

言葉の生まれる以前に立ち還らないと、「しないこと」が意識できない

大谷選手と同じで、「練習しすぎ」ならぬ「概念化しすぎ」で固定化された認識しか持てないのは、生きる上で致命的な欠陥となろー

マルティン・ハイデッガーは「決めない(決定しない)ことにも勇気が要る」と云ったが…… 

白黒つけたり、新しい専門用語を産み出して区別分類したりして、やれ学問だ科学だと言っているうちに…… 

次々と概念を足していって、複雑系におちいり、にわかに収拾がつかなくなる

老子じゃないが、減らしてゆく処に真実に近づく道がある

その点で、「数学」は抜きん出ていて、グルジェフの云ふ「客観科学」と言えるかも知れない

量子力学においても、観照者の有無が影響を及ぼすのだから、「しないこと」も当然関わりがあろー

 

おそらく、ずば抜けた達人やアスリートは、この「しないこと」に目覚めている人なのだろー

凄腕の職人でもしかり、普通の職人が拘らない処に徹底して拘るあたりに、「しないこと」が潜んでいるよーに勘ぐっている

この「しないこと」を奥義としたのが、かの 「無住心剣術」 ではないかと思う

ただ頭上に太刀を引き上げて振り下ろすのみとゆー、至極単純な剣理なのだが、当時敵する者はいなかったほどに強かった

千回試合して無敗なんて、それまでの塚原卜伝とか宮本武蔵の生涯仕合数と比べても異常な対戦回数である

新陰流から派生した「無住心剣術」は、「禅」をアメリカに紹介した禅マスター・鈴木大拙 もお気に入りの剣術で、著作のなかでも触れている(なんと、この幻の「無住心剣」をアメリカの読者は知っているのだ)

たがいに相競って「相討ち」が普通なのに、無住心剣では極意が「相抜け」 で、双方無キズで仕合が終わる

大拙は、「相抜け」に禅の妙味を観た、なるほど無住心剣術は流祖・針ヶ谷夕雲が参禅悟道して開いた流派で、「無住心剣術」の名前も『金剛般若経』の「応無所住而生其心」から参禅の師が付けてくれたものだ

 

まー、強引にククルと「真理はシンプルである」とゆー命題を後押しする重要なひとつが「しないこと」であるとは言えまいか

ただ、人は「しない」とゆー否定的な指針で生きることは出来ない

結果から顧みて、帰納的に「しないこと」の意味を納得することは出来るが、脳の構造からも「否定形」をモットーにして生きることは難しい

だから、厳密には「する/しない」の「しない」ではないのだ

見つめるのではなく、ぼんやりと全体を「見る」、いわゆる「遠山の目付け」 と似ているよーでもある

この逆説的な消息は、ケーベル博士『神と世界』にも言及があった

《神は在る》 は即ち 《神が在る》 ことである。

 《神は無い》 はこれも又 《神が在る》 ことである。

 

‥‥ ケーベル博士の「神」を「実在」あるいは「存在の栄光」と言い換えてもよいとタルホは云っていた

「神はいない」と言える土台は他ならぬ「神の恩寵」により現出しているとゆーか、設定されていると言えよーか

 

 

‥‥ まー、「する」「しない」 を人間の本性から根本的に選ぼうとするとき、盤珪の「不生」は大事だと思う

 

【画像= 盤珪禅師の書、「不生」の仏心】

 

「万事は、不生でととのうものを」 、と云い切った盤珪の「不生禅」は、白隠よりわずかばかり先に生まれ、独特すぎるあまりに後継者もなく絶滅してしまったが…… 

不生(生まれないもの)は、不滅(滅しない)

始まりがあれば、終わりがある

始まりがなければ(不生)、終わりがない(不滅)

生まれるものは死ぬものである

生まれないもの(不生)は、死ぬことがない(不滅)

その「生まれないもの(不生)」が、存在と呼ばれるものである

まー、「実在」でも「真我」でもよいが

禅でゆー「父母未生前の本来の面目」である

ここから「私は在る(存在する)」にゆきつく

父母未生前(両親が生まれる前)に私が在るのならば、わたしは「生まれて」はいないのだ

存在とは、生まれるものではない

この「不生(=不滅)」の存在性に、盤珪さんは「仏性」を観たのですね

じゃあ、わたし達もそこに「神性」を観てもいいと思います

ここらへんまで、認識を拡げないと「しないこと」に触れ得ない感じがします

 

 

いまや、ほとんど読まれることも無くなったよーだが……  このカスタネダとゆー作家は、最初は UCLA の文化人類学者として、フィールド・ワークの一環として最初の著作『呪術師と私』を書いた学者畑の人間である

 

この本が出版された年(1968年)は…… 

映画 『2001年宇宙の旅』 が公開されたり、LSDやマリファナ、ヒッピー達の奇行が流行っていたり、いわゆる「ニューエイジ運動」の渦中にあった

 

カスタネダの処女作も追随するよーに、当初はドン・ファンとゆー怪しげなインディアンから幻覚誘発性植物「ペヨーテ」や「デビルズ・ウイード」などの処方を聞いて、マインド・トリップするよーなフィールド・ノートになっていた

 

しかし、長い間ドン・ファンと伴に過ごすうちに、この得体の知れない男の持つ「知の体系」に取り込まれていって仕舞う

 

ドン・ファンは、ヤキ族のインディアンを自称したが……詳細に訊ねると、古代メキシコ (トルテックのシャーマンの流れを汲む ブルホ  ( brujo =呪術師・医者等の意)    であることが分かった

 

その軽妙洒脱で、深い人生経験による認識から紡ぎ出される語り口は、私の内ではグルジェフに匹敵する

ユーモアたっぷりだが、凄みのある怖さが漂う

 

彼は自らをナワールと称し、超越的存在にして人間の意識を糧とする『イーグル』に呑み込まれないように闘う 「自由」 の戦士であるとの記述や……  

独特の世界観の中で、地球には48本の帯があるといった記述が……  不思議にも、グルジェフの「月の捕食」や水素表の48番に符合する

 

かれらの「知」に参入している先達は「ナワール」と尊称されている、この「ナワール」は吾々の認識している世界「トナール」と対になるものである

 

ナワールの世界の奇譚は、物語としても一級の読み物の価値があると私は観ている

「非有機的存在」 とゆー、いわゆる「悪魔」の原型なのだが、現実世界からみれば荒唐無稽な設定にしても、そぞろに生々しい恐怖(閉じ込められた意識の恐怖) が感じられ、ラブクラフトの『クトゥルフ神話』に優に匹敵しよー

 

ナワールとトナールを往き来する、不死性をもった伝説のブルホ、極めて妖しげな術者も現れる

 

ドン・ファンを育てた先師、ナワール・フリアンやナワール・エリアスの人物描写も冴えた筆致で……

ブルホ仲間のシルビオ・マヌエルや女性修行者のラ・ゴルダや強烈なドニャや優雅なフロリンダ等と頭の堅いカスタネダとの諍いや遣り取りは頗る面白かった

 

スペインの侵略と占領による酷政に立ち向かったことから、メキシコのトルテックは「小暴君」への対処法を援用して、非有機的な「盟友」と付き合う方法を会得してゆく

 

上記の「しないこと」発言は、その暴君(現地人の命など気にも留めていないスペイン人侵掠者)の圧政下に発動したわけで、命懸けのトライアルであったことを忘れてはならない

単なる言葉の遊びや、観念の遊戯などでは微塵もないのだ

それ故に、この深い叡智は何処からもたらされたものなのか? 長い間疑問だった

 

このカルロス・カスタネダの一連の著作群「呪術師ドン・ファン」シリーズは、作家 吉本ばなな 女史のぞっこん愛読書でもある

 

 

 

伊勢白山道の見立てでは、ばな子女史は歴代卑弥呼に仕えた第一巫女であった

「卑弥呼」とは中国側からの蔑称表記で、正式には「日見子」 である

当時、日見子は三輪山に参拝して祈りを捧げていたから、大物主の大神に仕えた巫女が「ばな子(ばななさんのHN)」さんであったわけである

大物主大神は、伊勢白山道に拠れば、地球規模の大精霊(宇宙から飛来した)で、インカ・アステカ文明の生け贄を求める大神とご同体との事

 

メキシコのトルテックも、トルテカ文明(9〜12世紀)とかでアンデスやマヤと同源であったはずである

まー、『ジョジョの奇妙な冒険』にあらわれる「石仮面」の文明でもあるわけで、奈良の桜井あたりの三輪山でも血に塗れた暗黒の歴史があるのである

皇女倭姫命は、それを嫌い、三輪山から伊勢の地にご遷宮なされたものだと聞く

宇宙規模のケツァルコアトル神(「羽の生えた蛇」)の大蛇形象、大神神社の眷属も巨大な黒い大蛇で、三輪山を七回り半するくらいの日本最大の眷属神だと云ふ

で、世界的な霊能者と対談しても、影響をうけるどころか、相手の霊能力を無力化してしまうほどの霊力をお持ちだとゆー吉本ばなな女史(伊勢白山道の審神による)は、やはり霊的に近いものをお感じになるものか、トルテックを継ぐカスタネダに心酔なさっているのである…… カスタネダ本の帯に推薦文までお書きになっている

【ご神体が三輪山そのものである大物主大神は、マヤ・アステカ文明などの大神・ククルカンと同体であるらしい。地球規模の大神霊で、どの系統の神にも属さない別格のご神格。宇宙からのマレビトであったのだろう。】

 

そこで、ドン・ファンの実在について、伊勢白山道に質問投稿して訊ねてみたことがある

応えは、土着信仰の霊力をもった無学な人物(実在した)を参考にして、ドン・ファン像を創り上げたそーです

 

日本でも内宮の「天照太御神」は土着信仰であるし、連綿と受け継がれて来た土着の信仰とゆーものは、大地(国魂)に根差すだけに意外に深い奥行きを持つものかも知れない

因みに、外宮の「白山神」は地球全体を覆うレベルの神霊であるそーである

 

ドン・ファンの知の体系(メキシコのトルテック由来)、

ヒンドゥー(インド)に連綿と伝承される非二元の体系、

グルジェフのスーフィー(イスラム教)やチベット密教などを統合した知のシステムはいずれも、

一様に人間の「自らを縛りつけたリミッター」を解除する智慧を伝えているよーに思えてなりません

「しないこと」に含まれる叡智には、底知れない広がりがあります

 

ー最後に、実際的にわたし個人にとって「正しいこと」とは何かを決める貴重な目安として…… 

ブルホに伝わる深妙な選定法を記しておきましょー

ヘナロが言うには、

 

【正しい選択か 間違った選択しかない】のだそうだ。

・間違った選択をすれば、身体でそれがわかる。

・正しい選択をすれば、身体がそれを知り、緊張がとれて、選択が行なわれたことをすぐに忘れてしまう

 

すると、そうだな、ちょうど銃に新しく弾薬をこめなおすように、つぎの選択にたいして身体の準備がととのうのだ。

[※  ヘナロとは、ドン・ファンと同じ系統の「見者」で、愉快この上ない陽性のナワール、「ドン・ヘナロ・フローレス」 のことである]

 

‥‥ なるほど、「忘れる」とゆーことには大いなる恩寵が働いている

「忘れられる」とゆーことは、天の摂理の自然さ(=正しさ)に順い、身を任せて安心しているとゆーことを意味しているものかも知れない

         _________玉の海草

 

     

 

 

 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「小覚」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事