__現在の日本人は、行くところまで行った、人類の意識進化の過程において、いまの日本人以上に高度に達成した民族はいない、いまの日本で出来ないことは世界中で出来ない、日本人がどのよーな生き方をするかが、地球人類に与えられた最後のチャンスとなるであろー
こーした意味合いの記事が、伊勢白山道でアップされたことがあった
「いまの日本人が、歴代の人類最高なのか?」‥‥ 果して本当なのであろーか
ただ、たしかに東日本大震災の被災者として、その規律と静寂そして道徳的な思いやりとで、世界中の人々を驚嘆させた
ひいき目にみなくとも、東日本大震災以来、世界の国々の日本をみる目が違ってきているのは強く感じる
ラグビーのワールドカップでも、ホスト国として国を挙げて類稀な「おもてなし」を実行した日本については、世界中で注目された
目を転じて、YouTubeでの日本自慢や他国との比較をみてみても……
日本は社会主義国かと思えるほど、社会保障は充実しているし、都会と田舎との貧富の差もそーは目立たず、おおむね誰に対しても平等にひらかれた社会だと、当の社会主義国から評価されている
また、イスラム教国でもないのに、日本は清潔であり自ら清掃につとめる国柄で、目上に対する礼儀も子どものうちから身につけて、礼儀正しく敬意をもった人付き合いが出来る
災害時の復旧派遣も迅速で、亡くなって発見された他国の被災者に対して、全隊員が黙祷を捧げるなど、心情的にも思いやりに満ちた対応をしている
国際支援活動においても、その国の人々が自立できるよーな支援を心懸けている、C国のよーに援助はするが人材も物資もC国から持ち込み、内需を喚起することもなく、出来上がったら出来上がったで、無茶な返済条件をつけるといった卑怯な手段を行使することもなく、公平で後々役立つ教育(人材育成)まで添えて支援するといった人道的な支援モデルを確立している日本である
他国から訪問した人々を快くうけいれ、人種差別もしない、アメリカ国籍の黒人たちからすると、本国以上に日本は黒人差別がなく居心地がよいらしい、白人尊重の気風はあるかも知れないが、黄色人種はもちろん、中東のアジア人でも一切差別しない
「郷に入っては郷にしたがえ」の諺通り、他国にいけば謙虚にふるまい、日本語で騒がしく自己主張することもない、他国の料理やら宗教やら尊重して、末席に連なろうとする(真似る)傾向がある
最先端のテクノロジーと伝統文化が融合した稀有な国として、世界中から認められている、アニメ・忍者・弁当と日本独自のものが受け容れられることが増えてきた、日本の皇室を中心とした、世界に類を見ない永い日本伝統の力が正当に評価されるよーになってきた
資源のない日本は、覇権国家となることなく、世界各国と協調しながら、技術国として加工国として、世界経済のなかでその居場所を確保し続けてきた
敗戦からも立ち上がり、自然災害からも復興しつつこんにちがある
ーなるほど、その平均的な教育水準・生活水準・文化水準において、日本に敵う国はいないし、これからも出てくることはあるまい、それぐらい完成度が高い
とすれば、神の視座から観た場合、現在の日本で成しえないことは、こののちどんな国でも成し遂げることが出来ないと判断されても妥当であろー
日本人以上に真摯に神さん(大地の精霊)を祭る国民は、地球上では存在しないのである
日本人が最後の砦である、日本で出来ないことは世界中どこに行っても出来ない
いわば、地球の転機にいあわせた吾々は、ある意味仕合せなのではあるまいか
いまのわたしたちが、道徳的に人類の頂点にあるとゆー事実は、逃れられない責任を自覚させる
とはゆーもののの、いまの日本人はボランティアとか盛んになったにしろ、むかしの昭和以前の日本人からしたら、とんと不出来だと言わざるを得ない
モーレツ社員とは、高度経済成長に適合しよーとした日本人のあがきとゆーか柔軟性があらわれた姿だったろー
技術を伝承してきた職人が、まず激減している、TVでやれプロフェッショナルだの神技だのと伝統的な職人が持て囃されるのは、もはや技術の伝承がままならない処まで来ているからでもあろー
人手不足で、外国人労働者に頼らざるを得ない状況下にある
人手不足だと日本人の間でも、競い合いの余地が生まれない、師弟関係にあった職人の世界で弟子同士のライバル意識がなくば、盤石の腕前をもった職人は出現しにくい
ひとりだけにいくら丁寧に教えても、職人技は伝承されない
日本では、職人は人々に尊敬されてきたから、職人を見る目も厳しい、うまく出来て当たり前の世界である
まー、そこまで到るには年季がかかるわけだが、むかしながらの伝統を無視して即成栽培するかのよーに職人を養成しよーとしても無理がある
大工の間で「太子講」が営まれている土地がまだあるが、あれは聖徳太子が半島から連れてきた大工が、日本における職人の嚆矢であるからである
その、大伽藍を建築できる技術をもたらした聖徳太子は、大工の神様となった、日本最初の弟子となり日本初の大工となった彼らは、真心をこめて法隆寺や四天王寺の建立に腕を振るった
「見えない処までキレイに仕上げる」
とゆー、世界に類をみない高い精神性(仕事に向かう姿勢)は聖徳太子のてがけた仏教(大伽藍)建築を始まりとしている
日本人ならではの繊細さや器用さも必要とされる、それを生れ育ちも違う外国人に求めるのは無理がある
師匠に対する帰依に似た尊敬、目上に対する敬意は日本人でも失われてきたのを如実に感じる
大きく言って、二つの社会的な出来事があった
● 女子高生の嗜好が購買市場をリードした時期があった
企業はこぞって、既存の趨勢に左右されない若い女子のアイデアに耳を傾けた、これはつまり年寄りの経験則を否定したとゆーことである
● パソコンの普及
学校でPC教育をうけて馴染んでいる若い世代に、熟年世代が教えを乞うとゆー逆転現象が起きた
社会が効率よく動くために欠かせないコンピュータを、強引に取り入れた弊害はいまにいたるも解消されてはおるまい
ITベンチャー企業は、世界を席捲したが、比較的若い年齢層の起業家たちへの社会的な信用は高くない、お金を持っているから立てているよーにも見える
このIT業界に、年寄りの入り込む余地はない、まったくない様だ
しかし、シリコンバレーのエンジニア達の多くに、日本の「おーいお茶!」が好んで飲まれているよーに、たとえばアップルのデザインは「禅」の精神から来ているよーに、ここかしこに日本の古来からの実力が認められてはいる
だけど、いまの日本人はどこか変である
昔、和歌山の毒入りカレー事件があって、犯人とされたおばさんは到底極悪人の顔ではなかった、わたしはそのことに甚だしくショックをうけたものだが…… どうやら冤罪の可能性が高いよーなことも聞く(私としては彼女が犯人でないことに安堵している)
もーひとつ、決定的な事件があった、
「オレオレ詐欺」の出現である
あの犯罪の中身を知ったときには、日本人もここまで落ちたかと非道く落胆したものだった(反日外国人の仕業である可能性もあるが…… )
日本人の善意につけこむ、まるでK国人のよーな犯罪である
下町の面倒見のよいお人好しの社交は、この事件で「待った!」をかけられた
相手を疑ってかかる対応をしないと、防げない犯罪であることに、いままでの日本の犯罪史にはない「非道さ」を感じた、ひとの心も変わったと強く認識した事件であった
隣の家でさえ、挨拶もしない都会とゆー生活環境…… そーしたドライさが田舎者には住みやすい処もあったことは否定しないが、都会とは完全に「よそ者」の居住地と化してしまったのであろーか?
田舎の空き家も深刻である、家とゆーものは外壁をはじめ10年単位で手直しが必要な厄介な不動資産である
567でも、日本人学者の質が問われているよな
567と付き合ってまるまる2年も経つのに、なんら気の利いた言葉ひとついえない
あんたら学者辞めた方がいいよ、酷すぎるよ、いつもあいまいな発言でその場を濁して、なんら建設的な意見を言えない
TVでちやほやされて、注射で手間賃を稼ぎ、外国の製薬会社の言いなりになって、上納金をもらっては擁護にこれ勤めたり、忙しいこって、ほんと医者の権威は今回の567騒動でガタ落ちである
こんな日本人が、人類史上最高のレベルまで達した民族なんだとは、思いは複雑である、
地球霊としても、表面に棲息する人類を一掃しよーとしたとて、わかるよーな気もする、地球も最早ガマンの限界なのであろー、随分とやられ放題に荒らされたから
さて、こんな具合に「日本人」とゆーものに自信を無くしかけていた時に、伊勢白山道が出現したのは大事件といってよい
しかし、伊勢白山道のコメント欄に集まる日本人も褒められたものではないのだ
言葉遣い、思考の思い癖、質問内容いずれをとっても、なにか幼稚な印象をうける
日本は「子どもの国」だそーだから、独特なお国柄なのだろーが、これでいいものか、わたしには分からない
自分たちのことを「伊勢白山ダー」と呼んでいるのも、わたしには抵抗がある、どーか頼むから私を一緒にしないでほしい
女性主導の場は、往々にしてぬるい炬燵の中みたいになる
ー新年から日本人への失望に多くの文字を費やしてしまいましたが……
日本人とゆーものの価値が凋落したとて、わたしが日本人であることは変わらない
血に浸み込んだ日本人の血統は、何モノにも代え難い宝である
いま現在の日本人が如何に情け無くとも、眠れる日本人の血は窮地に目醒めることだろー、自分を信じることが信仰のあるべき姿である(釈尊の遺言でも在る)
…… などと無理やり自分を鼓舞するコメントにしてしまったが、もー日本人でなくてもいいかなとも正直思っている、わたしにしては驚天動地な決心である
わさわざ劣化甚しい日本人コミニュティーに居場所を求めなくとも、大地そのものに溶けこみ、非情に気持ちよく共鳴するのもいいよーな気がする
まわりがどーあっても、詰まる処、自分がどーあるかが最重要関心事なのである
他人に期待してはならないし、あてにならない虚仮であるとそろそろ諦観するべきかも知れない
伊勢白山道の読者から、
「非二元を推奨しながら、コメント欄の他読者に文句をつけて分断を生む態度はどーなのだ」
と詰問されたことがある
アドヴァイタ(非二元)ならば、自他の分断へ赴くのは方向違いではないかとの非難だったのだが……
総てをひとつにするのが、非二元ではない
ひとつにしてしまっては、暮してゆけない
この読者は、真我に対するアプローチが違うのだと思う
二項対立なり陰陽なり、それぞれに「極」を設けて対峙させることはある
しかし、それは自我(個我)の内なる世界での出来事である[※ 世界は脳内にあるとは伊勢白山道の言葉である]
真我に対する自我という意味で、二元にはならないのだ
存在(実在する)のは真我だけである
自我は、真我に由来するとゆーか、真我から派生したというべきか、いずれにしても実体は無い
その実体がない(偽実体)同士が分断しようが、対立しようが、それは想念の遊びなのである
真我はなんら影響されないし、そもそもすぐ消え去る
海波の「あぶく(泡)🫧」みたいなものである
彼女(その読者)は、現実界に真我をみたいのだろうが、どうして偽実体のマーヤー(幻影)の現れが、真我であることが出来るであろー
真我の厳しさというものだろー、至福はあれど苦しみや快楽はない
だから、わたしは自我を減らすことなど思ってもみないのだ
自我を減らして真我にいたるとは思わない、屁理屈といわれそーだが、自我が偽もの(偽の実体)だと真にさとったとき、そのとき私は真我である
わたしのイメージでは、ごそっと自我が抜け落ちるのだ
道元さんは、「溶け込む」と言っていたか
自我を減らして「無我」を希求するなぞ、私には意味がない
減らそーとして減らせるものでもないと思う
偽ものだとハッキリわかったとき、自我を容易に手放す(手離す)ことができるに違いない
肉体を持っているのだから、快不快(好き嫌い)の二元はある
肉体がないと、意識が発現されない事情もあるが、肉体もまた自我と同じくわたしの主体ではない、つまり実体(実在)とはいえないのだ
非二元とゆーのは、二元を無くそーとする試みではない、二元は実在しない偽実体であるとの認識であろー(分断を容認したとしても、その二元は根こそぎ抜け落ちる)
偽実体を偽実体とわかっている限りにおいては、二元をあしらうとゆーか二元に遊ぶこともあるのではないか
あくまでも「不二一元」であらゆる事に対処するのが、賢者とゆーものだろーか?
違うんじゃないかな、二元の相対性も一元の偽のあらわれとして享受しないのかな?
エデンの園からの追放=自我の分裂は、神が神をみるための神仕組みなのではなかったか、自我があってこそ真我実現するんでしょ
なんで自我を悪者扱いするの、唯一無二のスプリングボードなんじゃないかい
自我(我よし)を減らしたいだの、自分の自我を捨てて真我になりたいだの、笑止!
自我に実体がない(偽実体である)と気づけば、真我である自分(主体性)があらわれる、わざわざ真我に「成る」必要はない
なにか堂々巡りしている錯覚に陥るが、この循環(サイクル)は「動き」として不可欠なんではないかなと私は思う
_________玉の海草