今日2月3日は 節分ですね。
節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日を指します。
節分とは「季節を分ける」ことをも意味しています。 江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多いようです。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払い行事が執り行われてきました。節分の行事は宮中での年中行事であり、延喜式では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていました。これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれたものです。
『続日本紀』によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行われました。『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年(文安4年)に「鬼外福内」を唱えたと記されています。
近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになりました。一部の地域では、縄に柊やイワシの頭を付けた物を門に掛けたりするところもあるそうです。
節分の日付は現在は毎年2月3日ですが、これは1985年から2024年ごろまでに限ったことであり、常にそうではないのだとか。
1984年までは、4年に1度の閏年に2月4日がそれでした。 2025年から(2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日になるのだとか。(ほんまかいな)
節分は立春の前日であり、厳密に言うと立春は太陽黄経が315度となる日です。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできないのだそうです。
なお厳密には、基準とする標準時によっても節分の日付は異なるのですが、日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることは少ないみたいです。
邪気を追い払う為に、この節分には古くから行事が執り行われています。
豆撒き
豆撒き(東大阪市・徳庵神社)豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べますよね。また、自分の年の数より1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもあるようです。
豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。 寺社が邪気払いに行った豆打ちの儀式を起源とした行事であり、室町時代の書物における記載が最も古い記載であることから少なくとも日本では室町時代以降の風習であると考えられます。初期においては、豆は後ろの方にまくことが始まりだったそうです。
一般に使用する豆は、お祓いを行った炒り大豆 (炒り豆) です。 北海道・東北・北陸・南九州では 落花生をまくのだとか(大豆よりも回収し易く、殻ごと撒くため地面に落ちても食べられる、等の利点があるため)。
豆を撒く際には掛け声をかけます。掛け声は通常「鬼は外、福は内」ですが、地域や神社によってバリエーションがあるようです。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としています。
家庭内での豆まきで、「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いといいます。炒った豆を神棚に供えてから撒く地方もあるみたいです。
大きな神社仏閣では、節分の日に芸能人・スポーツ選手・等が来て豆をまくようなことも行なわれ、イベント化しているとも言えますが、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであったのだとか。
以前は豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたというが、豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったことによるそうです。
また炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものである為、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるといいます。
霧島連山 新燃岳の噴火が続き 都城は大被害。
専門家の話では 噴火してマグマを吐き出しても 地中でマグマが絶え間なく噴出し続け、マグマ貯まりに一定量補給がされているとのこと。 この噴火活動はいったいいつおさまるんでしょうか 被災地の皆様にお見舞い申し上げます。
今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
注)ブログ記事のうち「節分」については Wikipediaから抜粋・加筆したものです。