新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代11「裸足の比角小学校」

●裸足の比角小学校

 テレビや新聞での取り上げも少なく、ましてネットでよそ様はどうかなど知りようもない昭和半ばの頃。比較のしようもないので当たり前と思っていた環境というものがままある。
 新潟の片田舎である柏崎市では義務教育の通い先に選択の余地など無かったので、私は生まれ育った地域の校区割に基づいて、比角小学校へ通うこととなったのだが、そこでの環境や過ごし方が当たり前のものとして身についていった。
 先ずは登校したら学校にいる間中はずっと裸足であるということ。校舎の広い玄関に入ると、幼少の頃はチビだった私にはとても背の高いものに見えた本棚のような木製の下駄箱が並んでいて、靴を脱いで簀の子の上に立ち、自分の名前のついて場所に靴を入れると、そこからは授業だろうが休み時間だろうが裸足で一日過ごすことになる。
 終始裸足というのは季節に関わりない校内ルールであり、今から思えば、凍てつく冬などよく過ごせたものだと思う。それでも、私が小学4年生の年に創立100周年を迎えた伝統校は校舎の殆どが昔ながらの木造であり、廊下や教室などの床は今の様なツルツル加工されたフローリングと違って暖かみを感じるような厚みある板材が張り巡られさていて、冷たくて我慢できなかったという思い出が全く無い。
 感覚が未成熟であったせいもあるのかもしれないが、よくよく振り返っても、当時の床板のなんともいえない足裏触りが冷たさを感じさせないものであったように思える。何らかの特殊な加工や施工の配慮などがされていたのだとしたら知りたいものだ。
 上履き無しの裸足での校内活動となると、しかも板張りの廊下や教室、体育館ということで、現代の親であれば床板のササクレを足裏に刺したり、擦り傷切り傷を負いはしないかと気が気でないということになるかも知れない。ところが、昭和半ばの当時、しかも柏崎市辺りの田舎では、子供達の自宅は我が家も含めて粗末なものも少なくなく、親たちも少しくらいの怪我は成長のためになるというくらいの考えだった。
 今から思うと確かにそのとおりで、小学生くらいの頃にしょっちゅう小さな傷を負いながら、次第に危険の有無や程度に対する感覚が育まれていき、大事を避けられるようになっていったと思い返す。
 裸足の校内暮らしで思い出すのがコの字型の校舎に囲まれた屋外運動場との出入りの時の作法だ。砂地の運動場に体育や休み時間の遊びで飛び出せば、裸足の足は当然に砂だらけで汚れることになる。校舎に戻る入り口へはコンクリートの坂になっていて、その坂上に配された鉄製パイプに並んだ穴から水を流して足に付いた砂を洗い流してから校舎入り口の玄関マットのようなもので水を切って校内に入っていくという仕掛けだった。
 針金でタワシのような粗い繊維を編み込んだようなマットでは、休み時間ギリギリまで遊んで駆け込んでくる大勢の子供達みんなの水切りを受け止めきれず、足裏にのこる水気による小さな足跡達が廊下の先まで続いて薄くなっていく様が懐かしく思い出される。

(「柏崎こども時代11「裸足の比角小学校」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代12「比角小学校で始まる」」に続きます。)
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