新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代38「鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その2)」

●鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その2)

 坂道を登る先が白くぼんやりし始めて、あれよあれよと霧が立ちこめ始めた。視界が殆ど効かなくなる。ヘッドライトを点灯するが昼間の霧中というのはやっかいなもので、何の役にも立たない。そうこうしている間にも車は登り進むが、ハッと気づくと路面が真っ白になっている。先行車のものと思しき轍のラインがわずかに路面のダークグレーを見せているが、それも次第に薄くなっていく。
 車を所有して半年足らずで初めて県外へ足を伸ばす長距離ドライブにおいて、よりによって大変な所へ踏み込んでしまったとようやく気づく。鳥海山の標高は2,236mあり、その山腹を走る「鳥海ブルーライン」は、観光道路とはいえ標高は最も高い所で1,100mもあることを知ったのは後日のことだ。下界では秋の穏やかな一日であっても、山の上は既に早い冬を迎えており、加えて山の天気は変わりやすいと言われるとおり、あっというまに状況は激変してしまうのだ。
 次第に白さを増す路面を慎重に運ぼうとするが、なんといっても山道であり、坂道でカーブが次々と続く。そのたびにカリーナは後輪を左右に滑らせ、時にガードレールに最接近しようものなら、霧の合間から眼下に深い崖下が視界に飛び込んでくる。ずいぶん走ったと思うが中々道路の最頂部に到達しない。これも後から知るのだが鳥海ブルーラインは全長34kmもあるのだ。微妙なアクセルとシフト操作を長く強いられた足に震えが来るほどになってきた。
 気持ちは不安から恐怖へと移りゆき、ついに遠くから先行車のものと思しき車のスリップ音が聞こえてくると、いよいよ絶望感に至る。事件事故の報道を目にすると「自分は違う」と思いがちだが、死に至る場面というのはやはり不意にやってくるものなのかもしれない。これまでの人生で何の縁も脈絡もない山の崖から車で転落して死ぬかもしれないということになるとは。無常観というかああ無情というか…。
 「遺言でも書いておけば良かった」。そんな悲壮感にくれながらこれまでの短い人生を走馬灯のように頭に巡らせながら、舵取りをして徐行で進んでいくうちに、いつのまにか車体は坂を下るようになっていた。山道の最頂部の部分にはおそらく展望台とか休憩できる駐車スペースがあったのであろうが、深い霧でそれにも気づかぬままだったようだ。
 恐怖の道程の半分くらいは終わったのだろうという安心感はつかの間、下り坂というのは車の制動と制御がかえって難しい。引き続き後輪を滑らせてヒイヒイいいながら緊張の山下りが続く。それでも、降る雪は下界に近づくにつれて少なくなってきて、心理的には少し緊張が和らいできた。
 自分的には命からがらの思いで下界に到着してみると、果たして、何事もなかったかのように小春日和のような秋の穏やかな風情だ。まさに緊張と緩和。このコントラストは何事かと拍子抜けしてしまった。
 この恐怖体験により、車で出かけるにあたってはさぞかし準備を欠かさず慎重になったのだろうと思われるかもしれないが、そこが私の不遜なところであり、この時の危機を"乗り切った"感がかえって妙な自信を付けてしまい、運転の無茶も続けるようになってしまった。今から思えば、初の愛車カリーナ号を廃車に追い込む事故へと続く、"終わりの始まり"であったのかもしれない。

※初の愛車カリーナ1400DXの最期については「仕事観の形成と就職するまで編6「店じまいと儚い車持ち」編」(リンク)をごらんください。

(「新潟独り暮らし時代38「鳥海山の悲劇。そしてお別れの愛車カリーナ(その2)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代39「大学の醍醐味のゼミナールを決める(その1)」」に続きます。)
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