新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代47「鈴木辰治ゼミへの留学生(その4)」

●鈴木辰治ゼミへの留学生(その4)

 昭和61年1月。新潟大学経済学部で学ぶ期限の3月まで残り僅かとなった我が鈴木辰治ゼミの留学生から、地球の反対のブラジルから遠路来日している間に、当時世界を席巻していた日本の経営陣から直接話を聞く機会が持てないかと切り出された。
 当時、世界から羨望の眼差しを注がれていた日本経済は、その実は東京圏に集積された財と知が一極的に牽引していて、地方はその波及効果で潤っていたのであり、親戚を頼りに新潟県に来訪して住まい、新潟大学に留学して来てみても、世界に影響を及ぼすような経営や研究のダイナミズムはとても感じられるものではなかった。
 そんな日本の国内事情もある程度覚悟の上で来日した彼は、新潟だろうがどこだろうが「日本に留学したという事実で箔が付く」などと冗談めいて語っていたが、やはり、留学の成果として自分の目と耳で日本の大企業の経営を現場で体感しておきたかったのだろう。企業の、それも大手といわれる企業の、経営者から経営論を直接聴けるような機会があれば、大学3年生も終わり間近で就活の本格化を控えた私も是非にという思いだった。
 大手企業の幹部との面談の設営となると、さすがに学生風情には段取りし難い話しなので、我らが鈴木辰治教授に相談するしかない。研究室を訪ねて、留学生と私の希望を有り体に申し入れると、相変わらず机を抱えるように忙しく何かを執筆されていた教授は、手を止めて「うーん」と少し唸ってから私に向き直った。
 「うちのゼミの卒業生のつてで、その就職先の役員から話を聴けるようにしてもらうか」と言う教授は笑顔だ。これはかなり確実性のありそうな話しだ。教授は、ご自身で卒業生に電話して頼んでみると言ってくれた。ゼミに関しては放置・放任のきらいが強いが、この即断即決と即実行ぶりがこれまでも学生を魅了してきたのだろうなあと思った。
 相談した日の夕方には、企業視察の訪問先と対応窓口となってくれる我がゼミ先輩の職員の名前と連絡先が、教授から私に伝達された。大変失礼ながら新潟大学の経済学部の卒業生程度ではOBの縁を頼れる企業はそれほど大手は期待していなかったのだが、訪問先は大手エンジニアリング会社であった。日常的な身の回り品やサービスを提供する企業ではないので初めて聞いた時にはピンとこなかったのであるが、いざ訪問先と決まり下調べをしてみると、世界各地で石油資源プラント開発などを手掛けるグローバルで大変に優れた企業であることが分かってきた。
 ネットで直ぐに検索できる現代とは違い、生活者を直接の顧客にしない企業の情報というのは簡単には知り得ないものだった。訪問先の企業を調べるうちに関連する業界や企業も芋づる式に興味が沸いて、気づけばあれこれ調べるようになっていた。新聞や大学図書館、雑誌などで、なんとか細い糸をたぐるように企業の情報を得ていくという手間は面倒ではあったが、その後の就活において、実は容易に知れないところにこそ隠れた優良な勤め先があるのではないかなどと探求させる癖をつけさせてくれたように思える。

(「新潟独り暮らし時代47「鈴木辰治ゼミへの留学生(その4)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代48「鈴木辰治ゼミへの留学生(その5)」」に続きます。)
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