●不思議なおばちゃん達と僕(その8) ※「連載初回」はこちら
僕が幼い頃から就職して暫くするまでの20年余り、いつまでも変わり映えせず普遍的とすら思えてしまうようであった家族やおばちゃん達の在り様も、各々が歳を重ねていく中で、老いや経年の影響は確実に忍び寄っていた。
平成3年4月10日。県庁の出先機関である福祉事務所に勤務していた僕は、職場に掛かってきた電話で実家の祖母が亡くなったことを知らされた。両親が共働きで多忙な中、僕が幼少の頃に幼稚園の送り迎えやら夏休みなどでの昼食の支度やら、いろいろと世話を焼いてくれたあの祖母だ。"おばちゃん達"の中の長女が亡くなったのだ。
当時、僕の実家は中古で購入した家が老朽化して、豪雪や地震などでもあるともたないということで、全部建替えをしている最中であった。母が勤めていた工場が所有していてかつて社員寮だったという施設が近所にあり、新しい家の建築工事の間、僕の両親と祖母の3人はその一部屋を間借りして生活したいた。その仮住まいが始まって直ぐに祖母は脳梗塞で倒れて即入院。母から毎日インシュリン注射を受けるほど、もともと重い糖尿の祖母は、その影響もあるのか、昏睡のままついに意識が戻ることなく亡くなったのだ。
同居する身内が亡くなるのは初めてであり、仕事の調整もついたし独身だった僕は身軽でもあったので、その日の内に礼服など車に積んで実家のある街に向かった。両親が仮住まいとしている施設は手狭のため、祖母の遺体は入院先から近くの葬儀場に移されているとのことで、そこに直行した。
亡くなった祖母の唯一の実子である僕の母が、こじんまりした和室に安置された棺の傍らで涙ぐんで座っていた。僕の父は葬儀会社と打合せをしているという。私生児の母にとってはただ一人残る直系の親族であり、万感の思いをひとしきり僕に話してくれた。静寂の中で語られる祖母と母の半生に、僕も思い出に重なる部分を懐かしんだりして、長いようで短いような時間が過ぎていったが、母はきちんと実母を看取って送ることができてほっとしていると締めくくった。奔放で自立するにはどこか少し足りない自分の母の生涯を祖父から託された母の長い長いミッションは終わったのだ。お疲れさまでしたと声をかけると小さくなった肩でうつむき加減の母はうなづいた。
親族の葬儀があると、お寺様の有難いお説教を聞くまでもなく、親や自身の先行きのことを考えさせられるものだ。僕のたった一人の兄は、就職で上京してそのまま世帯を構えてしまい、実家の事は継がないと名言していたため、親は早くから僕に親の面倒を看るのだよと言い含めてきた。県内で就職となったことも好都合の僕は、地元で言うところの"もしかあんにゃ"になったのだ。("もしかしたらアンニャ(嫡子)になれる可能性がある"の意の新潟方言)
そして、母とその実母である僕の祖母がセットであったように、実質的に、僕が母なり家を継ぐということは、母以外に誰一人最寄りの血族がおらず年老いていくばかりのおばちゃん達と関わり続けるということを意味していることを、祖母の葬儀のあれこれが落ち着いた時に再認識した。祖母という長女が亡くなり残るは3人となったあの"不思議なおばちゃん達"の"面倒"を名実ともに僕は請け負うということになるのか…と。
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」の「その9」に続きます。)
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「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
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