●不思議なおばちゃん達と僕(その28) ※「連載初回」はこちら
~そして思い出深い「空き家」が残された。~
平成29年11月24日。僕は当時出向していた市役所の勤務中に妻からの電話を携帯で受けた。真ん中のおばちゃんが遂に息を引き取ったという。市役所は丁度、僕の住む街と母の住む実家やおばちゃん達の家のある街の中間地点にあったので、電話を受けてまもなく終業時間になると、そのまま車で実家へと向かうことにした。二三日前から何時亡くなってもおかしくないとの状況を母から聞いていたので、不謹慎かもしれないが、礼服など葬儀に臨める支度を車に積んでおいたのだ。
11月の半ばを過ぎると新潟では何時雪になっても珍しくはないのだが、この日の夕方の車での道中は、日暮れ前からボサボサと大粒の雪が降り始め、みるみる道路や辺りを白くしていく。僕は慌てず落ち着けというサインだなと受け止めて滑らないように特に山あいのバイパスでは気を付けてノーマルタイヤの車を進めた。1時間ほど掛かる道中で、遺体が葬儀場に移されたことと母もそこに居るとのの連絡を携帯で受けて、指示された葬儀場に直行すると、広々した葬儀式場に置かれた棺の傍らに母が座り、周囲では花や供物の搬入や飾り付けの業者スタッフが忙しくかつしめやかな雰囲気で作業していた。
知的障害があり、屋内や家の敷地内が主な行動範囲で、専ら世話を受ける立場だった年少おばちゃんとは異なり、真ん中のおばちゃんは、自立し難い姉弟だけの貧困な家庭において、実質的に家を支えてきた世帯主である。回覧板などで近隣とのやりとりもそれなりにあった人だ。こうした人の葬儀に際しては町内会の慣習でお互いに寄り合うことになっていた。母と僕は、葬儀会場は20人程度は入れる会場を選び、世話になった近所の方々に精一杯のお返しの気持ちを示そうと通夜振る舞いにも力を入れることにした。ご近所は、我が家と同様に若手が転出したパターンの世帯が多く、参列してくれる面々は皆高齢者たちであるから、故人の家で僕の母が生まれ育ったことを知っているので、葬儀会場の装飾や通夜振る舞いのグレードから滲む母の長年に亘るお礼の持ちがよく分かるに違いない。
僕は仕事の都合なども勘案して、その日と通夜の二晩、地元に泊まる予定でいたのだが、最近のセレモニーホールは遺族用の宿泊施設が充実していて、葬儀会場に隣接した結構なホテル並みのツインの洋室で母と共に泊まらせてもらうことにした、防水対応のテレビモニター付きのジェットバスなども備えられ、暗い雪道で緊張した運転を続けてきた僕には有難かった。また、洋室仕立ての設えが礼服への着替えやらに便利。葬儀の主宰に関わることが無かった間に、施設が遺族視点で進化していることに感心した。
加えて会場は、地元の主要道路沿いに立地し、高速バスの停留所も真ん前にあるという便利さだったので、僕の妻や子供達も離れた街の住まいから高速バスで通夜に駆けつけた。前日の降雪は雷を伴う暴風と時折雹のような激しいあられを降らせる模様になっていたが、おばちゃん達の家の近くで葬儀場の送迎バスに乗り合わせたご近所の老人達も、足元の不便無く通夜にお越し頂けた。真ん中のおぱちゃんは94歳での往生だったので、57歳で若くして急逝した僕の父の時のような悲壮感などが無く、会場設営や通夜振る舞いなどの至れり尽くせりぶりを通じて、母にきちんと送ってもらえて故人も幸せだったねとの穏やかな声が皆から聞かれた。
セレモニーホールでの葬儀というのは、良くも悪くも形式が完成していて、同じような進行にはなるのだが、遺族側の立場、特におばちゃん達のような同居家族ではない親戚の立場としては、誰から見てもオーソドックスと思ってもらえるスタイルがあることは助かるものだ。滞りなく通夜から告別式、火葬を終えて、遺骨を菩提寺に預かってもらうと、実家への帰路で僕も母も遂に安堵できたものだ。
僕は翌日からの仕事の都合もあるので、もう一泊してゆっくりというわけにはいかない。実家で、妻や子供達が礼服を着替えたり帰り支度をしている間、少し慌ただしく番茶を啜りながら、僕は母に長年にわたるおばちゃん達の対応に労いる声を掛けていた。母は、ずっと重くて気がかりであったことが無くなって楽になったというより、自分なりにできることは全て精一杯やりきってきたという気持ちでありむしろ満足感が心に広がっているようであった。
暫く苦労の思い出話などを母として過ごしていると、僕の家族も出立の準備が出来たようだ。母に見送られる間際、「おばちゃん達を皆、できる限りのことをして送れて本当に良かった」と改めてしみじみと言う僕に、母は「後は残された家のことだね」と言う。以前から何度か話題にしてきてはいるが、おばちゃん達が存命の間は具体的に扱いをどうするかはさすがに気が引けていた。ただ、売るにしろ貸すにしろ色々と煩瑣な手続きや関係者とのやり取りが想定されることから、高齢の母は「僕に任せる」としてきた事案だ。様々に"いわく"も思い出される"おばちゃん達の家"をどう扱うべきか。葬儀にまつわる手伝いや気苦労での疲れからか車内で寝息を立てる妻や子供達を横に僕は、雪が止んで雲の合間から日差しが差し始めた山あいの国道バイパスを、少し茫洋とした心持ちで真っ直ぐに車を走らせていた。
11月の半ばを過ぎると新潟では何時雪になっても珍しくはないのだが、この日の夕方の車での道中は、日暮れ前からボサボサと大粒の雪が降り始め、みるみる道路や辺りを白くしていく。僕は慌てず落ち着けというサインだなと受け止めて滑らないように特に山あいのバイパスでは気を付けてノーマルタイヤの車を進めた。1時間ほど掛かる道中で、遺体が葬儀場に移されたことと母もそこに居るとのの連絡を携帯で受けて、指示された葬儀場に直行すると、広々した葬儀式場に置かれた棺の傍らに母が座り、周囲では花や供物の搬入や飾り付けの業者スタッフが忙しくかつしめやかな雰囲気で作業していた。
知的障害があり、屋内や家の敷地内が主な行動範囲で、専ら世話を受ける立場だった年少おばちゃんとは異なり、真ん中のおばちゃんは、自立し難い姉弟だけの貧困な家庭において、実質的に家を支えてきた世帯主である。回覧板などで近隣とのやりとりもそれなりにあった人だ。こうした人の葬儀に際しては町内会の慣習でお互いに寄り合うことになっていた。母と僕は、葬儀会場は20人程度は入れる会場を選び、世話になった近所の方々に精一杯のお返しの気持ちを示そうと通夜振る舞いにも力を入れることにした。ご近所は、我が家と同様に若手が転出したパターンの世帯が多く、参列してくれる面々は皆高齢者たちであるから、故人の家で僕の母が生まれ育ったことを知っているので、葬儀会場の装飾や通夜振る舞いのグレードから滲む母の長年に亘るお礼の持ちがよく分かるに違いない。
僕は仕事の都合なども勘案して、その日と通夜の二晩、地元に泊まる予定でいたのだが、最近のセレモニーホールは遺族用の宿泊施設が充実していて、葬儀会場に隣接した結構なホテル並みのツインの洋室で母と共に泊まらせてもらうことにした、防水対応のテレビモニター付きのジェットバスなども備えられ、暗い雪道で緊張した運転を続けてきた僕には有難かった。また、洋室仕立ての設えが礼服への着替えやらに便利。葬儀の主宰に関わることが無かった間に、施設が遺族視点で進化していることに感心した。
加えて会場は、地元の主要道路沿いに立地し、高速バスの停留所も真ん前にあるという便利さだったので、僕の妻や子供達も離れた街の住まいから高速バスで通夜に駆けつけた。前日の降雪は雷を伴う暴風と時折雹のような激しいあられを降らせる模様になっていたが、おばちゃん達の家の近くで葬儀場の送迎バスに乗り合わせたご近所の老人達も、足元の不便無く通夜にお越し頂けた。真ん中のおぱちゃんは94歳での往生だったので、57歳で若くして急逝した僕の父の時のような悲壮感などが無く、会場設営や通夜振る舞いなどの至れり尽くせりぶりを通じて、母にきちんと送ってもらえて故人も幸せだったねとの穏やかな声が皆から聞かれた。
セレモニーホールでの葬儀というのは、良くも悪くも形式が完成していて、同じような進行にはなるのだが、遺族側の立場、特におばちゃん達のような同居家族ではない親戚の立場としては、誰から見てもオーソドックスと思ってもらえるスタイルがあることは助かるものだ。滞りなく通夜から告別式、火葬を終えて、遺骨を菩提寺に預かってもらうと、実家への帰路で僕も母も遂に安堵できたものだ。
僕は翌日からの仕事の都合もあるので、もう一泊してゆっくりというわけにはいかない。実家で、妻や子供達が礼服を着替えたり帰り支度をしている間、少し慌ただしく番茶を啜りながら、僕は母に長年にわたるおばちゃん達の対応に労いる声を掛けていた。母は、ずっと重くて気がかりであったことが無くなって楽になったというより、自分なりにできることは全て精一杯やりきってきたという気持ちでありむしろ満足感が心に広がっているようであった。
暫く苦労の思い出話などを母として過ごしていると、僕の家族も出立の準備が出来たようだ。母に見送られる間際、「おばちゃん達を皆、できる限りのことをして送れて本当に良かった」と改めてしみじみと言う僕に、母は「後は残された家のことだね」と言う。以前から何度か話題にしてきてはいるが、おばちゃん達が存命の間は具体的に扱いをどうするかはさすがに気が引けていた。ただ、売るにしろ貸すにしろ色々と煩瑣な手続きや関係者とのやり取りが想定されることから、高齢の母は「僕に任せる」としてきた事案だ。様々に"いわく"も思い出される"おばちゃん達の家"をどう扱うべきか。葬儀にまつわる手伝いや気苦労での疲れからか車内で寝息を立てる妻や子供達を横に僕は、雪が止んで雲の合間から日差しが差し始めた山あいの国道バイパスを、少し茫洋とした心持ちで真っ直ぐに車を走らせていた。
【第一章 空き家になるまで 完】
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」の第一章にお付き合いいただき誠にありがとうございました。続きは近いうちにupしていきたいと思います。下記のツイッターやブログでの別件連載「へたれ県職員の回顧録」もご笑覧いただければ幸いです。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
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