●不思議なおばちゃん達と僕(その7) ※「連載初回」はこちら
僕は、大学進学と同時に実家のある街を出て、県内ではあるが他市でアパート暮らしを始めた。当時の大方の男子大学生と同様に、サークル活動やアルバイトなど独りでの生活を謳歌し、年間を通じて地元には殆ど帰省しなかったので、家族はもとより、まして"おばちゃん達"とのやり取りなど、ほぼ皆無となった。
僕も「盆暮れくらいは」と実家に顔を出してはいたが、うちの両親ときたら、父は高卒、母は中卒での勤め人であり高等教育には殆ど興味が無かったことと、僕の兄が数年前に大学生活を終えていて親も大体の事は承知していたので、次男坊の大学生活の話しなど酒の肴にもならなかった。一方で、近所のおばちゃん達もそれなりに細々とでも暮らしていけていたようで、学生でしかない僕に話すような課題など無かったのだ。そう。昭和の末期頃は、おばちゃん達も両親も僕も、身心の健康などは穏やかで心配のない時季だった。
それでも僕は、社会人となってからひょんな事でおばちゃん達と意外な接点を持つことになる。
就職4年目に二番目の職場として赴任した福祉事務所において、福祉六法現業業務、すなわち福祉ケースワーカーとして勤めることとなった。当時は入所型の福祉が必要でも施設や収容人数が限られていて、僕が担当していた地区で施設での生活が必要な者も、必ずしも住所地で入所できるものではなく、広い新潟県内に散在する施設に個別の事情や状況に応じて入所していた。
入所したら対象者との関係はそこまでということではなく、福祉サービスの提供内容や公費負担が適正かどうかなど定期的に確認を行うこととなっていて、ケースワーカーは日程調整の上で順次現地施設を訪問し、本人と職員と面談するのである。
そんな現地訪問調査が続いていた秋のある日、僕の実家のある市の隣町にて、身体上又は精神上著しい障害があるために日常生活を営むことが困難な者が入所する施設を訪れた際、目当ての人と施設職員らとの面談を終えての帰り際に、本当に偶然であるが、居室の名前表示に目がいった。そこには、あの"布団の中でうごめいている"所しか僕が幼い頃に見たことがなかったおじちゃんの名前があったので。
施設職員に自分が親族であることを伝えておじちゃんに挨拶したいと申し出ると、事細かな事情説明を通じて僕が親戚であることに間違いないという心証が得られ、4人部屋への入室を許可していただいた。ベッドの上で片方の膝を抱えてぼうっと座っていたおじちゃんは、そもそも僕が幼い頃には布団の中でうごめくだけでその姿を殆ど見ることができなかったものだから、正直「こんな人だったんだ」というのが率直な感想だった。
当のおじちゃんも、目線だけを少しばかり僕に向けて「あんた誰だ」と言わんばかりの怪訝そうな迷惑そうな表情を少し見せると、また遠くへと視線を戻してしまった。それでも、整髪や髭剃り、ジャージのような室内着など、こざっぱりとしていて、施設の方々から良いお世話を受けていることが見て取れた。
もともと、その名前を見た瞬間から、感動の対面など全く考えようもなかったのだが、これまで殆ど関わりが無かく、思い出も僅かばかりとは言え、自分の親族が良くして頂いている姿を見ると、なんだか嬉しく込み上げるものがあったのだ。おそらくそれまでの生涯に会ったことが無い相手でも、また真偽が定かで無くとも、そんな気にさせるのではないだろうか。「血縁」というものは。
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」の「その8」に続きます。)
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「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
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