新潟久紀ブログ版retrospective

【連載5】空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕(その5)」

●不思議なおばちゃん達と僕(その5) ※「連載初回」はこちら

 世界的にも名の知れた自動車部品製造の大工場がある僕の住む街では、関連の鉄工所なども含め、大戦直後の復興需要期においては男子の手は引く手あまたであったのだろうが、中学卒業したての女子の就職はやはり難しかったようだ。それでも僕の母は、近くの書店に押し掛け気味に雇って貰って手伝い的に勤め始め、数年するとくだんの大工場の工員として採用されたという。男勝りの気質や女性としては比較的大柄な体型も奏功したのかもしれない。
 僕の母がその母親と二人で暮らしたいという形態が貸主の好感を得たのか、早々に母子で住むアパートも近所に借りることができて、晴れて生家から脱出した母は、高度経済成長の後押しで繁忙の度を増す大工場勤めのお陰でなんとか生計を安定軌道に乗せることができたという。更に母子の生活に安住せず、家庭を持つことを目指した母は、当時カジュアルな出会いの場であった社交ダンスの会場で知り合った男性と、その頃の多くの女性と同様に二十歳代前半で結婚することとなった。なんといっても母親、つまり僕の祖母との同居が決してブレることのない大前提であるので、その事の承諾と更に確実性の担保として"実家の跡取りには決してならない"との言質のとれた次男坊を結婚相手に選んだのだという。
 僕の母と父、母方の祖母との生活の中で、先に生まれた兄と僕の5人での暮らしが、物心ついた僕にはデフォルトの生活環境だった。幼い時分には出自のことなど気にしないもの。僕が大嫌いだった幼稚園の帰り道にお迎えの祖母に連れられて立ち寄る"不思議なおばちゃん達の家"が、自身の生い立ちの源であり複雑な事情を経て僕が在るといった経緯に関心が及ぶのは、人生の将来を少しは気にし始めるのが高校三年生になってようやくという、策士であった母とは比べようもなく"おっとりした僕"だったというわけだ。
 困窮から逃れる足がかりを得た母と僕を含むその家族は良かったとして、不憫なのは残されたおばちゃん達である。同居人の中で唯一人の、まともそうで稼ぎ頭にもなり得るであろう十代の娘に出て行かれてしまったのだから。ただし母の祖父である世帯主は母が自分の母親を連れ出してくれただけでも良しと考えていただろう。
 結果論ではあるが、たとえ私生児だろうが子供をもうけさえすれば、人生に新しい展開がありうるということを、この日の夜の母との雑談を通じて僕はしみじみと感じたものだ。生まれてくる子供に関して、心身の障害や経済的な状況など、リスクは色々とあろうが考えれば際限の無いこと。楽観的すぎるかもしれないが、「案ずるより産むが易し」とはよく言ったものだ。

(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」は「その6」に続きます。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
 「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
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