![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0a/1f778230a3d14656b1f95b70d4ece3c1.jpg)
困った事に、天気が良いと無性に外に出たくて仕方なくなる。「暗い部屋でサックスの練習なんか、してられるか~い!」と簡単になってしまう。僕はミュージシャンに向いてないのだろうか。
昨夜は・・というか、今朝6時頃まで阿佐ヶ谷のマンハッタンでジャム・セッションに興じていたので、今日は家でのんびり映画でも見ようと思っていた。しかし、目が覚めたのは朝の10時。外は良い天気。散歩の虫がウズウズして来て家を飛び出す事に。
毎回、何処に行くかなんてあては無い。只ひたすら歩くのみ。今日は氷川台から石神井川沿いに西へと行くルート。日差しは柔らかく、風も心地良い。気が付いたら豊島園まで来ていた。
歩きながら考えていたのは、「人間の幸せについて」。(笑)
それは相対的であり、これが幸せだと言う確固たる定義は無い。そして、今、目の前に有る日常こそが幸せだとするのが一般的だ。その日常を死守するために人は努力する。目の前の幸せに気が付かない者は愚かだとされる。でも、アーティストっていう人種は、リスクを負ってでも理想を追ってしまう所が有る。目の前の幸せに気付いていても、そこに満足する事が果たして正直な自分の気持ちなのか?と思い悩む。僕にはこれらの両極端な性質が存在していて、相容れることは決してない。自分の人生をチェンジさせる事によって生じるリスクが現実となった時に後悔する事は、後悔する前から分かっていたし、かといって、後悔する事を避けて漫然と暮らしていたら、きっと自分の気持ちに嘘をついた・・と、それはそれで後悔するに違いない。という事は、「後悔」自体が無意味だと言う事だ。
「ここまで来たんだったら、光が丘公園まで行ってみよう。」
うちの近所の散歩を日課としている間に、コースも決まってきてマンネリ化している。ついでに買い物・・とか言ってると、結局、買い物がメインになってたりする。(苦笑) 光が丘は江古田からは遠いし、しかも、豊島園から廻り込むってのは距離的にもかなりロスが有る。でも、光が丘って色々思い出も有るし、好きな場所でもあるから行ってみたい!豊島園通りを北上して行く。
また、歩きながら考える。(ベートーベンなら、散歩しながら音楽が溢れ出ていたのだろうけど、僕の頭の中は全くの無音だ。やっぱ、ミュージシャン向いてないかな。笑)
僕は過去の幸せに固執する傾向が有る。ま、誰しもそうだとは思うんだけどね。でも、幸せの記憶というのが僕には強烈過ぎて、多分、人生の中で何度も再生もしくは再現したくなるのだろう。光が丘が好きなのは、団地群とデカイ公園が、子供の頃に住んでいた場所に似通ってるからだと思う。一種の懐古趣味だ。その他にも色々思い出が有るのだけど、それを頭の中で再生したくなるのだろう。幸せの記憶と言っても、ごく普通の日常生活に他ならないのだけどね。「楽しい思い出はそのまま記憶しておいて、新しく楽しい思い出を作っていけば良い。」とある人に言われた事が有る。蓋し名言だが、今現在に幸福感が無ければ、中々過去の思い出を単純に「楽しい思い出」として保存する事は難しい。まず現在を修復しなければ、過去の良い思い出に縋り付く老人の様なものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/b4/77ca73b24a68ea7b9c405e7238f45e4c.jpg)
そんなこんなで2時間歩いてようやく到着。
「昔、中村橋から自転車でここまで来て、よく練習したよなぁ。」とまた思い出に浸る。(笑) 金は無かったけど夢は一杯有った。今振り返ると、結構、その夢の多くは実現しちゃってるんだよね。だから、今寂しいのかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/2e/43b59518d8c253672752e97b7ea966be.jpg)
仲の良いカップル、親子、子供のはしゃぐ声・・。広い敷地内のあちこちに「幸せ」が有る。家に一人で居ても、その幸せを感じる事は出来ないけど、ここに来る事で、まぁ、ちょいとお裾分けして貰う。う~ん、何とかしなきゃね、オレ。(苦笑) それにしても、俺の頭の中、全く音楽ならないなぁ・・。昔、ここで書いた曲も有るのに。
グキ!!痛ッ!
腿とスネの間の筋を歩き過ぎで傷めてしまった。帰りは電車だな、トホホ。中年男の哀愁は、バッチリ漂ってる自信は有る。
昨夜は・・というか、今朝6時頃まで阿佐ヶ谷のマンハッタンでジャム・セッションに興じていたので、今日は家でのんびり映画でも見ようと思っていた。しかし、目が覚めたのは朝の10時。外は良い天気。散歩の虫がウズウズして来て家を飛び出す事に。
毎回、何処に行くかなんてあては無い。只ひたすら歩くのみ。今日は氷川台から石神井川沿いに西へと行くルート。日差しは柔らかく、風も心地良い。気が付いたら豊島園まで来ていた。
歩きながら考えていたのは、「人間の幸せについて」。(笑)
それは相対的であり、これが幸せだと言う確固たる定義は無い。そして、今、目の前に有る日常こそが幸せだとするのが一般的だ。その日常を死守するために人は努力する。目の前の幸せに気が付かない者は愚かだとされる。でも、アーティストっていう人種は、リスクを負ってでも理想を追ってしまう所が有る。目の前の幸せに気付いていても、そこに満足する事が果たして正直な自分の気持ちなのか?と思い悩む。僕にはこれらの両極端な性質が存在していて、相容れることは決してない。自分の人生をチェンジさせる事によって生じるリスクが現実となった時に後悔する事は、後悔する前から分かっていたし、かといって、後悔する事を避けて漫然と暮らしていたら、きっと自分の気持ちに嘘をついた・・と、それはそれで後悔するに違いない。という事は、「後悔」自体が無意味だと言う事だ。
「ここまで来たんだったら、光が丘公園まで行ってみよう。」
うちの近所の散歩を日課としている間に、コースも決まってきてマンネリ化している。ついでに買い物・・とか言ってると、結局、買い物がメインになってたりする。(苦笑) 光が丘は江古田からは遠いし、しかも、豊島園から廻り込むってのは距離的にもかなりロスが有る。でも、光が丘って色々思い出も有るし、好きな場所でもあるから行ってみたい!豊島園通りを北上して行く。
また、歩きながら考える。(ベートーベンなら、散歩しながら音楽が溢れ出ていたのだろうけど、僕の頭の中は全くの無音だ。やっぱ、ミュージシャン向いてないかな。笑)
僕は過去の幸せに固執する傾向が有る。ま、誰しもそうだとは思うんだけどね。でも、幸せの記憶というのが僕には強烈過ぎて、多分、人生の中で何度も再生もしくは再現したくなるのだろう。光が丘が好きなのは、団地群とデカイ公園が、子供の頃に住んでいた場所に似通ってるからだと思う。一種の懐古趣味だ。その他にも色々思い出が有るのだけど、それを頭の中で再生したくなるのだろう。幸せの記憶と言っても、ごく普通の日常生活に他ならないのだけどね。「楽しい思い出はそのまま記憶しておいて、新しく楽しい思い出を作っていけば良い。」とある人に言われた事が有る。蓋し名言だが、今現在に幸福感が無ければ、中々過去の思い出を単純に「楽しい思い出」として保存する事は難しい。まず現在を修復しなければ、過去の良い思い出に縋り付く老人の様なものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/b4/77ca73b24a68ea7b9c405e7238f45e4c.jpg)
そんなこんなで2時間歩いてようやく到着。
「昔、中村橋から自転車でここまで来て、よく練習したよなぁ。」とまた思い出に浸る。(笑) 金は無かったけど夢は一杯有った。今振り返ると、結構、その夢の多くは実現しちゃってるんだよね。だから、今寂しいのかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/2e/43b59518d8c253672752e97b7ea966be.jpg)
仲の良いカップル、親子、子供のはしゃぐ声・・。広い敷地内のあちこちに「幸せ」が有る。家に一人で居ても、その幸せを感じる事は出来ないけど、ここに来る事で、まぁ、ちょいとお裾分けして貰う。う~ん、何とかしなきゃね、オレ。(苦笑) それにしても、俺の頭の中、全く音楽ならないなぁ・・。昔、ここで書いた曲も有るのに。
グキ!!痛ッ!
腿とスネの間の筋を歩き過ぎで傷めてしまった。帰りは電車だな、トホホ。中年男の哀愁は、バッチリ漂ってる自信は有る。
「普通」の会話をしてみたい、「普通」の文章を書いてみたい・・・。
関東地方では、散歩の最後には地井武男が絵手紙を書きます。(TV番組で)
僕もそうしたいのですが、散歩で一番インパクトが有ったのが、行きつけのスーパー。放火されて焦げてました。そんなもん絵手紙にしてもなぁ。
「ちい散歩」ですね。なんかBSで見たことがあります。「中畑のおじさん」が結構毒吐いてたのでびっくりしました&ちっとも面白くないのでびっくりしました(笑)
芸能界では絵が描けるというのは、仕事を得るために意外と重要なポイントなのかなあ、とちょいちょい思います。
S口宏の息子も、よく国内、国外問わず、国営放送さんに鉄道で色々連れて行ってもらってるけど、特に気の利いたこと言えるわけでもありません。それでも連れて行ってもらってるのは、絵が上手やからだと私はふんでます。
M森A土ちゃんも、今やかなり「きわきわ」ですが、いまだにテレビに出させてもらえてるし、絵描き歌で。(あ、あの人は本職か)
宮地さんも「絵描きサックス」とか「サックス漫才」とか、色々手を広げてみましょうよ~。
・・・はっ!?私ったらまた失礼なことを・・?
「おまえ、なにゆ~てんねん!」
「もう、やめさしてもらうわぁ!」
など、決定的なツッコミのイントネーション等を採譜し、サックスで表現。しかし、先端を行き過ぎてたようで、全くウケませんでした。っていうか、何をやってるのかさえ伝わってなかったようです。僕の横に一応「通訳」つけたんですけどね・・。
面白いと思ったんだけどなぁ。