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人生の本当の目的は何か? ルパート・スパイラ

2024-12-07 12:42:07 | ノート

人生の本当の目的は何か? ルパート・スパイラ

Rupert Spira
The True Goal of Life | Rupert Spira
https://www.youtube.com/watch?v=NTh56DJ2_LQ&t=243s

感想:
ルパート・スパイラはエゴを完全に取り除く必要はなく、「私」という存在の本質的な性質に注意を向けることで、誰でも無限の意識、つまり本来の自己に還ることができるという。 そして本来の自己に還ることが人生の目的であり、この体験は幸福の体験と同じだと言う。  なぜそれが幸福なのか? それを本動画で説明している。
奇跡講座のデイビッド・ホフマイスターが言う”Unwind your mind.”は「神に戻る」ことであり、それはルパート・スパイラに言わせれば、本来の自己に還るということなのだろう。 


しかしここで自分に問いかけてみる。 ルパート・スパイラの言うとおり、人生の目的は幸福、至福なのか? それは状態としてはその通り。 でも奇跡講座はその先を教えてくれる。 

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以下訳:

質問者:人生の目的について質問があります。 これについて何か言えますか? 人生に本当の目的はあるのでしょうか? 

Rupert:人生の目的は幸福を見つけることです。 

質問者:それだけが目的ですか? 

Rupert:そうです。 

質問者:昨日お話ししたように、私は少し異なる背景を持っています。 『奇跡のコース』という教えから来ていますが、そこでは、私たちは最終的に神の心に帰る、神に戻ると信じられています。 あなたがしばしば神の心の無限性について話しているのを聞きますが、これには類似点がありますか? 

Rupert:はい。 神は幸福の宗教的な名前にすぎません。 
幸福とは、自分自身の存在をそのまま知ることです。 それが幸福です。 自分の存在を知るということです。 この存在を知るという共通の名前は「私」です。 
私たちは自分のことを「私」、あるいは「私は」と呼びます。 この同じ体験に対する宗教的な名前が「神」です。 私たちが自分自身の存在を知ることを見過ごしたり、自分自身の存在を一連の思考や感情と混同したりすると、「私」の本質的な性質を覆い隠してしまいます。 それゆえに、分離した自己は常に不幸であり、常に幸福を求めています。 

分離した自己は、純粋な存在という私たちの本質的な性質への制約です。 それは「私は身体である」というのと「私は」であることとの違いです。 
ですから、知識の道と信仰の道は同じ道なのです。 神を求める人、幸福を求める人、自己探求を実践する人、祈る人――彼らはみな同じものを求めています。 

Rupert:これには驚くかもしれませんが、アムステルダムにいる間は驚かないかもしれません。 最初の夜に言及したと思いますが、ベン・アドさんがホテルの北側に、散歩に連れて行ってくれたときの話です。 
キングズスクエアから始まり、すべてのコーヒーショップを通り抜け、その後、バンジーカプセルがあるキングズスクエアに行きました。 このカプセルには2、3人が乗ることができ、それが約30メートル上空に射出されてから急降下します。 それだけでなく、上下するだけでなく、こういうふうに前後にスイングもします。 そして、地面にぶつかる直前、約5メートルのところでゴムにキャッチされ、また上に跳ね上がるのです。 人々は自ら進んでこの経験をしようとしていました。 

質問者:愛を求めているのですね。 

Rupert:彼らは何をしているのでしょうか? 
そして、なぜでしょうか? 
それは…彼らは死の恐怖を自ら呼び起こしているのです。 これは自己生成的な死への接触です。 30メートル上空から地面に向かって急降下する。 身体に「死ぬ準備をしろ」というメッセージを送っているのです。 
そして、身体の抵抗すべてが湧き上がります。 しかし、彼らは安全だと分かっています。 つまり、非常に安全な状況の中で死の恐怖を体験しているのです。 なぜそうするのでしょうか? この激しい恐怖の中で何が起こるのでしょうか? そこには一種の降伏があります。 

これは…人々は激しい恐怖を誘発し、その後の解放を体験するためにそうしているのです。 その解放の中で、有限の心はその源へと飛び込みます。 有限の心は死の恐怖です。 
有限の心は極度に緊張した恐怖の状態に巻き込まれ、その後解放されます。 そして、その解放の瞬間、心はその源へと戻り、本来の性質を味わうのです。 

それから私たちはそこから歩きました。 道を渡ると教会があります。 たぶん、聖ニコラス教会です。 その中に入って5~10分ほど座っていました。 ちょうどミサが始まったところで、人々が入ってきて祈っていました。 彼らは何をしていたのでしょうか? 
なぜでしょうか?  彼らも同じことをしていたのです。 彼らは同じ体験を求めていたのです。 彼らは神の中に溶け込むことを望んでいました。 分離の感覚を失うことを望んでいました。 つまり、バンジージャンプをしていた人々が引き起こそうとしていた体験と同じ体験を求めていたのです。 

それからさらに歩きました。 赤線地区を通り抜け、ある通りを歩きました。 通りの両側の窓には、一部はカーテンが閉じられており、一部はほとんど裸の女性が広告のようにドアを開けて出てきたりしていました。 
なぜ人々はそこに行くのでしょうか? 人々はその体験に何を求めているのでしょうか? この融合の中に何を見出そうとしているのでしょうか? 

質問者:よくわかりません。 

Rupert:いや、あなたも分かると思います。 私たち全員、自分自身の経験から、この融合の瞬間、特にオーガズムの体験の中に、ある種の自己の喪失があることを知っています。 

そこには分離感の解消があります。 それがすべての人がそこに行く理由です。 本当に数分間の快感のためだと思いますか? いいえ、違います。 それはその瞬間の融合、その瞬間の、今回は激しい恐怖ではなく、強い感覚の中で、分離した自己がその限界を超えて拡張されるのです。 その瞬間、分離感が崩れ、この融合が起こるように見えます。 そして、その瞬間、まさに同じ体験が起こるのです。 有限の心がその源に戻るのです。 

Rupert:これらの三つのケース――バンジージャンプ、教会、赤線地区――は同じ体験です。 実際、分離した自己が求める唯一の体験は、自分自身の分離したアイデンティティを失うことです。 
分離した自己が他の何かを求めることは不可能です。  分離した自己が持つすべての欲望は、自分の分離状態を終わらせることだけを目的としています。 そして、人々はその体験をさまざまな方法で見つけます。 

私が知っている最も直接的な方法は、ここで話していること、ラマナ・マハリシがアートマ・ヴィチャーラ(自己探求)と呼んだものです。 これは「自己に留まる」ことであり、対象や感覚を通らない最短の道です。 

実際、人々がバンジージャンプで誘発しようとしている死の恐怖は、ラマナ・マハリシに自発的に起こったことでもあります。 彼の覚醒は、まさに同じ体験によって引き起こされました。 ただし、彼はバンジージャンプをする必要はありませんでした。 彼はただ突然、死ぬのではないかと感じ、その身体が実際に死の体勢を取り、身体的な死の症状を経験しました。 そしてその瞬間、彼の中で自分の本質を探るという自発的な探求が起こりました。 しかし、それは死の恐怖によって引き起こされたものでした。 

質問者:では、いろいろな方法でその目的に到達することができるということですね。 最終的な本当の目的は、本質の実現を達成することでしょうか? 

Rupert:はい、本当の目標は、意識が自ら課したすべての制限から解放されることです。はい、それは自然な状態に戻ることです。それはゴムバンドのようなものです。 「注意(アテンション)」という言葉は、もともと「引き伸ばす(アテンデレ)」という意味があります。 意識が有限の心の形をとるたびに、それは自らを制約します。 本当に制約してしまうのです。 そしてそれは犠牲です。 それは世界として現れるために、自らを制約しなければならないのです。 しかし、その代償があります。 それは自由を失います。 そして、それに伴って本来の平和や幸福を失います。 

意識がその本来の存在を見過ごすことで、その中にある、あるいはむしろそれ自体である平和と幸福が覆い隠されてしまうのです。 それゆえに、分離した自己、つまり制約された意識が、常に心の奥に傷を抱えているのです。 これが、分離した自己が幸福を切望する理由です。 分離した自己とは、制限が課された無限の意識に他なりません。 
すべての自己は幸福の経験を知っています。それは記憶です。私たちは皆... 幸福がどんな味か知らなかったら、どうやって幸福を追い求めることができるでしょうか?  ですから、すべての分離した自己の中心には、平和、愛、幸福の記憶があり、私たちはそれを、幸せな子供時代を過ごした場合の子供時代の経験としばしば関連付けます。 しかし、それは実際には過去の何かの記憶ではありません。それは今存在しているが、重ねられた信念や感情によって覆い隠されている何かの記憶です。分離した自己が行うことはすべて、これらの制限を取り除くためだけに行われます。 

質問者:しかし、有限の自己を完全に取り除くことなく、それを達成することは可能ですか? 

Rupert:どういう意味ですか? 

質問者:つまり、有限の自己の中でこの目標を達成することが可能であるべきだと思うのですが。 

Rupert:はい。 それは誰にでも可能です。 なぜなら、誰もが自分自身を「私」として知っているからです。 その「私」の本質は無限の意識です。 しかし、それは信念や感情によって覆い隠されています。 そのため、本来の無限の「私」としてではなく、分離した自己として感じられ、経験されます。 しかし、どちらの場合も同じ「私」なのです。 

Rupert:そこには無限の意識があります。 そして、信念や感情が覆い隠されていることで、それが有限であるように見えているだけです。 この覆い隠しがあることで、私たちの本質的な平和や幸福が失われています。 これが、覆い隠された意識、つまり分離した自己が元の状態に戻りたいと切望する理由です。 

質問者:では、ヴェールを完全に取り除かなければ無限の心に戻ることはできないのでしょうか? 

Rupert:その通りです。 ただし、覆い隠しを取り除く必要さえないのです。 ただ、「私」と呼んでいるものの本質的な性質に注意を向けるだけでいいのです。 ほとんどの人は「私」と言うとき、思考や感情、感覚、知覚の集合体を思い浮かべます。 しかし、もし本当に「私」に注意を向けるなら、ただ「気づいている」という体験が見つかるだけです。 そこには思考や感情の集合体はありません。 「私」というのはただ「気づいている」という体験です。 

この体験は、知性、健康、富、信条、国籍、年齢に関係なく、誰にでも等しく利用可能です。 なぜなら、誰もが「私」という体験を知っているからです。 「私」または「私は」という体験は、本質的な存在を指します。 それは、思考や感情など何か他のものと混ざり合っていない純粋な存在です。 この体験は、誰にでも24時間いつでも利用可能です。

そして、これが人生の目的なのです。 分離した自己にとって唯一の目的はこれです。 分離した自己がするすべての行動は、自分の限界を取り除くためだけに行われています。

なぜ「幸福が人生の目的である」と確信を持って言えるのか。 それは、あなた自身の経験からも分かることだからです。 幸福であるとき、何かをさらに求める欲望はありません。 幸福であるとき、すでに満たされています。 何かをする理由がなくなります。 なぜなら、何かをすることで得られると考える幸福をすでに手に入れているからです。 

質問者:ただ、幸福にも種類があると思いますが。 

Rupert:幸福に種類はありません。 ただ幸福があるだけです。 例えば、5歳のとき、誕生日におもちゃの車をもらったら幸福でした。 10歳のとき、地元のサッカーチームに入れたら幸福でした。 15歳のとき、隣の女の子が笑顔を向けてくれたら幸福でした。 20歳のとき、大学に合格したら幸福でした。 25歳では…という具合に。 

質問者:すべて外的なものが原因ですね。 

Rupert:いいえ、そうではありません。 どの幸福の体験も、実際には同じ体験なのです。 たしかに外的な出来事によって引き起こされたように見えるかもしれません――車、サッカーチーム、隣の女の子、大学、最初の仕事など――ですが、実際の幸福そのものの体験はいつも同じです。 チョコレートの幸福、車の幸福、ガールフレンドの幸福、大学の幸福、というような種類はありません。 ただ幸福があるだけです。 

Rupert:そのことに気づいたことはありますか? 幸福はいつも同じ体験なのです。 だから、それを引き起こすと思われる物事に依存することはできません。 これが明らかになると、人生の中で本当に重要な啓示となります。 幸福がいつも同じ体験であり、それを引き起こす物事によって条件づけられることはないということが明らかになったとき、それは深い気づきです。 

幸福は外的な物事によって与えられるものではなく、内側から来るものであるということです。 それゆえに、幸福は私たち全員の中に常に潜在的に存在しています。 それは外部の状況によって引き出される可能性はありますが、外部の状況によって与えられることは決してありません。 ただ、外部の状況が引き金となるように見えるだけです。 しかし、それが体験されるたびに、常に私たちの内側から湧き出し、それは常に同じ体験です。 

質問者:では、外部から引き金が引かれる場合と内部から引き金が引かれる場合の違いはないということですか? 

Rupert:そうです。 その引き金自体は重要ではありません。 なぜなら、幸福そのものはその引き金に依存していないからです。 ここで私たちが行うこと、つまりバンジージャンプをする人々や教会に行く人々、赤線地区に行く人々と私たちが異なるのは、ここでは直接幸福の源へ向かうということです。 これが「ダイレクトパス(直接の道)」と呼ばれる理由です。 幸福が宿る場所、つまり自分自身の存在の認識に直接向かうのです。

私たちは対象や状態を介しません。 それがたとえ微細な瞑想状態であっても、それを介しません。 それが「ダイレクトパス」と呼ばれる理由です。 これは最も短い道であり、実際には道ですらありません。 だから時には「道なき道」とも呼ばれるのです。 なぜなら、「知りたいと思う私」と「知られる私」の間に違いがないからです。 「気づいていること」と「気づいていること」の間には距離がないのです。 

質問者:私にとっては非常に驚くべきことですが、少しずつ慣れなければなりませんね。 

Rupert:幸福を心の状態として考えないでください。 幸福は、自分自身の存在を知ることのための共通の名前です。 それは自分自身を知っているということです。 


エゴは解消される必要があるのか? ルパート・スパイラ

2024-12-06 12:54:43 | ノート

Rupert Spira
Awareness Veils Itself with Its Own Activity
Youtube https://www.youtube.com/watch?v=9Ba96sAY61A&list=PLhitJLV_Mjl0VoKAatZIaMPK68ue1-KRr&index=1

感想: 
エゴについて、実在しないものをどうやって解消できるか。 ルパート・スパイラの言葉は、奇跡講座の教義の最初に書いてある下記の言葉:「実在するものは脅かされない。実在しないものは存在しない。ここに神の平安がある。」に通じている。 夜道の向こうに見える蛇のようなものへの適切な対応は、蛇を攻撃することでも、逃げることでもなく、近づいてよく見て、それがただの棒切れであることを見極めることだとだということ。 仏教の言う「諸法無我」を極めること。 奇跡講座がエゴの引き起こす苦しみ(幻想)に多くの注意を払わない理由、それは実在しないからだ。 初めから蛇はいなかったからだ。 無いものに対しては攻撃も、防衛も、分析も意味がない。
「エゴは決して作られたことがなく、存在したこともありません。それは決して破壊されることも解消されることもありません。  」という文章は般若心経の「無無明亦、無無明尽」(無明もなく、また無明の尽くることもなし。)に通じる。

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以下訳:

エゴは解消される必要があるのか?

エゴが解消される必要があると提案することは、まずエゴが存在していることを前提とします。  
もしエゴが存在するならば、無限の意識は無限でなくなります。なぜなら、有限と無限が同時に存在することはできないからです。  
無限の中には有限のための余地はありません。  
したがって、エゴの存在を主張することは、意識の存在や神の無限なる存在を否定することになります。

質問: でもエゴは幼い頃に作られるものでは?  

回答: エゴは決して作られたことがなく、存在したこともありません。  
それは決して破壊されることも解消されることもありません。  
ただ一つの自己、一つの目、一つの現実があり、それ自体が思考や感情、知覚という形を取ります。そして、そうした思考・感情・知覚の活動の中で、それは自身を覆うヴェールをかけたように見えるだけです。  
自身の活動によってヴェールをかけるのです。  
その結果、それ自身を制限されたものとして認識するようになります。ちょうど、映画がスクリーンの活動であるのに、スクリーン自身を覆い隠すことは決してないのと同じように。

質問: では、「エゴは解毒されるべき」という話をしていた時とどう違うのですか?  

回答: それは異なる質問に対する別の答えでした。

例えば、スコットランドから来た誰かが「バクランドホールへの行き方」を尋ねたとします。Googleは「M6を南下して右折」と教えるかもしれません。  
一方で、ブライトンから来た人には「M23を北上して左折」と言うでしょう。  
同じ場所への道案内が、一見矛盾するようでありながら、実際には同じ指示なのです。

質問: それはあまり役に立たない答えですね。  

回答: 以前「エゴを解毒する必要があるか」という答えは、特定の人(ヨアキム)に向けたものでした。この「エゴを解消する必要があるか」という答えは、あなたに合わせたものです。

質問: でも、自分のエゴを解消しないと、自分が本当に輝けない気がします。  

回答: その「解消したい」という感情自体がエゴなのです。

質問: そうですね、それを解消したいです。  

回答: その「解消したい」という感情、それこそがエゴという幻想的な現れです。  
しかし、実在しないものをどうやって解消できるでしょうか?

質問: その答えを知りたいです。まるでひびの入ったクリスタルのように感じます。  

回答: それでは、ヴェーダンタ(Vedantic)伝統からよく知られた比喩をお借りしましょう。  夜、暗い道を歩いているとします。目の前の道に蛇がいるように見えます。  
その結果、あなたは恐怖を感じます。  どうやってその蛇を取り除きますか?  
「この恐怖から解放されるためには、蛇を取り除かなければならない」と思うでしょう。  さて、どうしますか?  

質問: 撃ちます。私はアメリカ人ですから。  

回答: (笑)
私が隣にいたら同意するかもしれませんが、それでは蛇を撃つことはできません。  
実際には、それは蛇ではなく棒です。  
あなたはそれを蛇と見間違えただけです。  

質問: ああ、棒だったんですね。それは蛇じゃない。  

回答: すみません、この比喩に慣れていると思い込んでしまいました。申し訳ありません。

質問: いえ、聞いたことはあります。 
 
回答: では、暗い道を歩いていて、蛇のように見えるものを目にしたとします。それは実際には棒です。  さて、どうやってその「蛇」を取り除きますか?  

質問: 棒だと気付くことでしょうか?  
回答: そうです。そして、その結果、恐怖が消えます。  
つまり、あなたが「それは棒だ」と理解することが、蛇の幻想を取り除く方法なのです。  
では、どうやってそれが棒だと気付くのでしょうか?  

質問: 近づいてよく見るしかないと思います。  

回答: その通りです! 近づいて、よく見るのです。そして、どうなりますか?

質問: ああ、それが棒であって、蛇ではないと分かるでしょう。  

回答: 完璧です!  
あなたが蛇だと思い込んでいたものは、実際には棒でした。ただ、十分近づいていなかったからそう見えたのです。 それが棒だと気付いた瞬間、恐怖は消えます。  
では、「個としての自分」という感覚、すなわち「別個の自己」という感覚はどうでしょう?  
それは蛇のようなものです。解消することはできません。なぜなら、それは実際には存在していないからです。  
では、なぜそれが「別個の自己」として現れ、結果として苦しみを引き起こすのでしょうか?  
それは、ただ私たちがそれをはっきりと見ていないからです。  
では、別個の自己の現実を知るにはどうすればよいでしょうか?  
まさに、見かけの蛇の現実を知るために行ったことと同じことをするのです。近づいて、触れて、真実を見極める。  
棒を見るという行為が、見かけの蛇の「解消」なのです。  
しかし、実際には何の解消も必要ありませんでした。なぜなら、蛇は最初から存在していなかったのです。  だから、破壊することも、解消することも、不必要だったのです。  
必要なのは、棒の現実を見ることだけです。  

これが、この伝統(ヴェーダンタ)において、私たちが苦しみに多くの注意を払わない理由です。教えは、人々に届くために、苦しみをある程度受け入れ、対話するかもしれません。  しかし、そこに多くの時間を費やすことはありません。つまり、蛇に多くの時間を費やさないのです。  
私たちは直接、その実体を見に行くのです。それが蛇に対処する方法です。

質問: ここで少し補足してもいいですか?  
その時点で、私がここに来た理由でもある道筋を感じます。それは、自分が頭の中で繰り返してしまう思考のループから離れて、「それは自分ではない」と距離を置くことができる道です。  
「それは私の心であり、私はそれを知っている存在である」と気づくのです。この道は私にとって非常に役に立ちました。  
しかし、ここから「ハートの道」への進む過程では、愛が痛みと絡み合っているように感じます。そのため、両方を同時に感じることがあり、それを分離するのが難しいのです。
つまり、頭の道(知識の道)は私にとって簡単でした。しかし、ハートに至る道、愛の道は痛みと絡み合っており、それを完全に乗り越えることが難しいと感じます。  

回答: しかし、それは2つの異なる道ではありません。  
それらは最終的には同じ道です。もし私が「今、あなたが最も愛しているものに注意を向けてください」と言ったら、あなたはどこに向かいますか?  

質問: 自分の内側ですね。  

回答: そうです。  
それについてもっと言葉にしてみてください。簡単ではないかもしれませんが、できるだけ具体的に、あなたが最も大切にしているものに向かうとき、どこに向かうのか教えてください。

質問: 子どもたちのことを思い浮かべました。  

回答: いいえ、子どもたちについての思考は、あなたの人生で最も大切なものではありません。なぜなら、それは約3秒で手放してしまうからです。思考があなたにとって最も大切なものであれば、あなたはそれを簡単に捨てたりしないでしょう。  
今も、その子どもたちに関する思考はすでに消えてしまいました。 それが本当に大切なものであれば、そう簡単に消えるはずがありません。 
では、本当に大切なものに行ってみてください。

質問: 難しいですね。  

回答: 完璧です!  
では、次に私が「あなたの経験に気づいているものに注意を向けてください」と言ったら、あなたの意識はどこに向かいますか?  

質問: 同じ場所です。  

回答: 完璧です!  
最初の道は愛の道でした。  
次の道は知識の道でした。  
しかし、それらをよく探求すると、あなたはそれぞれ同じ道をたどり、同じ「場所のない場所」に到達しました。  

質問: 確かにそうですね。

回答: そうです。  
ですから、私はあなたに、両方の道を均等に旅することをお勧めします。そして、2つを行き来しながら探求を続けてください。  
そうすることで、あなたの心(ハート)も、頭(知性)も、この探求に等しく関与することになります。  
そして、最終的には両者が一つに融合するのです。


ジョアン・トリフソン インタビュー

2024-11-26 13:11:46 | ノート

ジョアン・トリフソン インタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=LjQs6g0n2Dc&t=295s

訳者から:
ジョアン・トリフソンは、私のすぐ近くにいてくれる覚者だと思う。 ラマナ・マハルシのような人はもう超人のような印象があって、私とはかけ離れた存在のような気がするが、この人はずいぶん近くにいてくれる。 
私たちは、昔から覚者にあこがれる。 そして何か通常では考えられないような事を、その人たちが起こすのを望んでいる。
水の上を歩いただとか、一度死んだとか、死者を生きかえらせたとか、そんなことをしてくれたら、もう最高なのだ。 だから、そこまではできないにしろ、腐ったものを食べても病気にならないとか、蛇にかまれても平気だとか、痛みを感じないとか、そんなことをしてくれるだけで、何か熱狂的な気分になる。 自分もこの人にあやかれば、この平々凡々とした自分が変わって、凄いことができるかもしれないなんて想像する。 一瞥体験をしたとか、第三の目が開き、超能力を身に着けたなんていう人はYoutubeにもけっこう登場する。 また覚醒した瞬間から、死ぬまで変わることのない至福感を保ち続けられると夢想する。 それはそれでいいのだが、これも自我の拡大の一形態であることに変わりがない。 オーム真理教の教祖は自分を最終解脱者だと言った。 覚者であることをアピールした人はその信奉者のためにそのイメージを演じ続けなければならなくなる。なかなかしんどいことだろう。 

私はこれらのことが全てインチキだと言っているのではない。 イエスは確かにそんな奇跡を起こしたのだろう。 そうでなければ、とっくに大衆に忘れ去られていたはずだ。 問題は、奇跡を起こす人の方ではなく、奇跡を望む人々の方にある。
 
ジョアン・トリフソンは曹洞宗に学んだ人だ。 そのため、「無念無想! カラスがカーと鳴いた瞬間に大悟した!」なんてことは言わない。 ましてや、覚醒したとか、見性したとか、純粋意識や真我のような言葉は遠ざけている。 道元自身がこういうことを諫めて、悟りを得るために坐禅をするのはだめよと言った。 
フツーに生きて、フツーに苦しんで、フツーに喜んで、フツーに失敗して、それでやっぱり普通の人とは全く違うのだ。 その微妙なところを、トリフソンは教えてくれる。 

トリフソンはまるでどこにでもいるアメリカのおばさん(今ではおばあさん)であるが、生まれた時から、片方の手が無く、若いころはドラッグ、暴力をふるったり、刑務所に入ったり、それでアル中になり、強迫的に指を傷つけるまで噛むという癖があった人だ。 

教えはとてもシンプルである。 それは非二元の要諦である、「無我」(自分は無い)ということに尽きるように思われる。 たったこれだけのことを、本当に極めていったらどうなるか、ということを身をもって我々に教えてくれる。

先日より、兵庫県の斎藤知事の件で、多くの人はずいぶん惑わされただろう。 私はもう、何が真実なのかわからない。 それと同じようなことをトリフソンはドナルド・トランプについても言う。   

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以下翻訳:

○ 導入

ジョアン・トリフソンを紹介したいと思います。彼女は、今ここにある、常に変化し、常に存在する生きた現実を生涯にわたって探求してきました。彼女の骨太のアプローチは、直接的で、現在の経験と意識的な存在の常に新鮮な生き生きとした状態に根ざしています。ジョアンの主な師匠は、よりシンプルでオープンな方法で活動するために伝統を捨てた元禅の師、トニー・パッカーでした。ジョアンは集まりを開催し、5冊の本の著者でもあります。『死』『自己改善の終わり』『掴むべきものはない』『道路の上で水で描く』『非二元性に関する講演と対話』『ハートランドの目覚め』『あるがままのエクスタシー』『骨組みだけの瞑想:私の人生物語への目覚め』です。

ジョアンは貴重な宝石で、私の新しい友人です。彼女と話すのは楽しかったです。彼女の生々しい正直さは新鮮で、私は彼女の本を何冊か読み終えたところです。それでは、ジョアン、ありがとう。ようこそ、ジョアン。

○ ジョアン・トリフソン:

こんにちは。私の声が聞こえますか?うまくいってる?たぶん、うまくいっていると思います。はい、うまくいっています。ああ、オーケー、よかった。オーケー、よかった。

こんにちは、エマーソン。ここに来られてうれしいです。私がこれから言いたいのは、哲学や信念体系のことではありません。
今ここで直接的に体験することです。これを探求し、これを楽しんで、これになることです。どこかに行くことや、何かを達成すること、何かを直すこと、何かになることでもありません。
今ここにあるもの、あるがままのことです。この瞬間のありのままの現実に同調すると。ありのままの現実とは、解釈する前の感覚的エネルギーの現実のことです。

ただ聞くこと、見ること、呼吸すること、感じること、この瞬間のありのままの現実です。それに同調すると、何に気づくでしょうか。

一つ気づくのは、すべてが変化しているということです。

実際、禅で言われているように、無常とは徹底して進んでいくことなので、実際には無常というものは存在しません。なぜなら、無常となるようなものは実際には決して形成されないからです。

流動とは、その徹底的な変化です。ですから、もちろん、家や山など、いくつかのものは非常にゆっくりと変化していて、私たちはそれに気づきませんが、実際には原子レベルでは常に変化しており、私たち自身も一瞬一瞬ごとに常に変化しています。

私たちの経験は変化し、考えは変化し、感覚は変化し、私たちの心が注意を払っているもの、注意の焦点は変化し、移り変わっています。

ですから、私たちは、継続的な徹底的な変化があることに気づきます。しかし同時に、私たちは、すべてが常に不変で、まさに今、ここに、この即時性、この存在性の中にあることに気づきます。

そして、それは常に動いているにもかかわらず、決してここから離れることはなく、まさに今、ここ以外の場所には決して行きません。ですから、それはちょっと興味深いことです。

また、私たちが注意を向けるもの、感覚、見かけ上の物体、思考、感情など、何であれ、注意を向けるものすべてに無限の変化があることにも気づきます。

本当に深くそれに心を開くと、それは無限で、続いていき、終わりはありません。

無限なのです。ですから一方では、形、色、感覚、形態、無限の変化があります。しかし同時に、すべてが1つの全体として分割されていない、シームレスな出来事として現れています。
映画と同じように、さまざまな形、色、形態、キャラクターなどがありますが、すべてが1つの動画、1つの映画として現れています。
そして、今ここにあるものも同様で、1つの全体としてシームレスな出来事です。
ですから、私たちはそれに気づくことができます。そして、実際の経験には内側も外側もないことに気づくことができます。
単に、自分の内側と考えるものと自分の外側と考えるものの境界がどこにあるかを探しても、実際には境界は見つかりません。
内側が外側に変わる場所を私たちは実際に見つけることはできません。
私の手は私の内側ですか? それとも外側ですか? それはあなたの内側ですか? それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
この声はあなたの内側ですか、それとも外側ですか? 私たちにはわかりません。
内側と外側、あるいは見かけ上のものと別のものの間には、実際には区別はありません。

私たちは、何かがそうではないとされているものから、何かを本当に切り離すことはできません。なぜなら、すべてのものは何らかの形で他のすべてのもので構成されており、実際の境界線はないからです。
また、決定や選択がどのように行われるかに注意を払えば、それらが自然に起こっていることにも気付くでしょう。
決定を下そうとすると、これをする、あれをするな、という矛盾した考えがあることに気付くでしょう。そして、これらの考えは私たちが起こしているのではなく、ただ起こっているだけであり、突然浮かび上がってくるのです。

そして突然、私たちは明らかに決定を下したようで、その決定的な瞬間をそれより早く起こさせることはできません。
それはすべて、驚くほど自発的に起こっているのです。
そして、私たちが自分を探すとき、振り返って、誰が話しているのか、誰がこれを言っているのかを見てみると、誰がこれらの言葉を言っているのかに再び注意を向けても、何も見つかりません。

彼らはただ口から出ているだけです。そして誰がそれを聞いているのでしょうか?

見てください。そこに誰かいるの?
私たちが自分を探すときに見つけるのは、思考、心象、感覚、常に変化するもの、そのような流れだけです。
しかし、私たちが見てみると、そこには本当に自分はいません。
つまり、私は何者でもなく、同時にすべてなのです。

この会議の名前と同じです。私は何者でもなく、すべてなのです。
ええと、もちろん、映画「ウェイクアップ・ライフ」では、私もジョーンとして、この特定のキャラクターとして登場しており、私たちは現実のその側面を否定することはできません。

現実、この生きている現実には、無限の異なる次元があるようです。
そして、特定の次元や視点に固執したり、とらわれたりしないことが非常に重要だと思います。
ですから、私たちは毎日の普通の生活を無視することはできません。
しかし同時に、私たちが実際に単なる経験のレベルでそれに注意を払うと、そこに存在すると思うものは、実際には何も見つけることができません。

私たちは、私やあなた、世界、世界の状況、これやあれやを実際には見つけることができません。

それは興味深いですね。
そして、何が起きているかに注意を払えば、習慣的な思考パターンが浮かび上がってくることにも気づくことができます。
たとえば、数年前に禅センターで初めて一日中座っていたとき、自分が抱いていたすべての思考が未来に関するものであることに気づきました。
それまで見たこともありませんでした。私は「わあ、これは本当にすごい」と思いました。すべての思考が未来に関するものなのです。
そして、そのパターンは魔法のように消えたわけではありません。
しかし、その瞬間から光が灯り、未来について考え込んでしまうたびに、すぐには見えなかったかもしれませんが、やがて気づくようになりました。
そして、その思考パターンがいかに魅惑的であるか、また同時に、実際にどれほど苦痛であるかに気づき始めました。

そして、おそらく10年後のある時点で、大きな閃きではなく、ある日、友人の教師トニー・パッカーが、母が亡くなったらどうするつもりかと私に尋ねました。
なぜなら、私はシカゴに引っ越して母の人生の終わりに一緒にいたかったからです。
そして、トニーは「母が亡くなったらどうするつもりですか?」と言いました。そして、私は「わあ、私はそれについて考えていなかった。私らしくない」という瞬間がありました。
つまり、そのパターンは、爆発的な瞬間ではなく、徐々に崩壊したのです。
つまり、起こっていることに注意を払うと、習慣的なパターンや、特定の性格が作り出す見出しや思考パターンに気づくのです。

私は決して理解できない、私は失敗者だ、人生を台無しにしてしまった、あなたは私の人生を台無しにした、あるいは、うーん、これは起こるべきではない、あるいは私たちのパターンが何であれ、それらを見ていくと、その支配力と信憑性を失い始めます。
それと同時に、感覚エネルギーの質感のレベルで、感覚エネルギーの現象として思考に注意を払うと、その思考に気づくことができます。

そのように思考に注意を払うと、それが信じられないほどはかないものであることがわかります。
それは、何かの小さな爆発のようなものです。 この小さな爆発は、ほとんど消えてしまいます。まあ、それが起こるとすぐに、パッと消えてしまいます。
そして、それはまるで無のようです。それでも、それは、信じられないほどリアルで信じられそうな、想像の中でこの映画や物語全体を作り出す素晴らしい能力を持っています。

ですから、多くの瞑想の伝統では、思考を敵または問題として見るように訓練されています。 私たちは思考を取り除こうとして多くの人が瞑想しているようです。

私は瞑想という言葉を使いますが、その言葉は実際にはあまり好きではありません。なぜなら、それは非常に多くの異なる意味を持つからです。

それよりも、「ただここにいる」ということです。 私たちの通常の忙しさや活動、会話、電話、その他すべてを脇に置いて、ただここにいて、起こっていることに耳を傾けるということです。

そして、それを操作したり、コントロールしたりしようとせず、ただあるがままに受け入れるのです。それがどんなものであるかに気づき、どんなものであるかを探り、どんなものであるかを楽しむのです。そうすると、思考が浮かんでは消えていきますが、それはこの瞬間に起こっている多くのことのうちの1つに過ぎないのです。

そして、私が見る限り、これが何であれ、何も排除されていません。
あるいは、1つのことを見つけて、他のすべてを取り除くことではありません。
何も排除されておらず、すべてが含まれています。私は、スピリチュアリティ、非二元などの言葉を使いますが、ある意味ではどれもあまり好きではありません。
私にとってスピリチュアリティは、何か神秘的なものや、物質とは対照的な精神などを意味するものではありません。
すべてがスピリチュアルです。
トイレもスピリチュアルです。
高速道路も、交通渋滞もスピリチュアルです。

私がそうであるように、すべてがスピリチュアルなのです。

スピリチュアルという言葉は、すべてのものの神聖さに気づくということです。
実際に見れば、すべてのものは非常に素晴らしく、美しいのです。つまり、私たちが何でもないと思っているもの、例えば古いティッシュをよく見てみると、驚くべき形や模様、影や光があります。

コップ一杯の水を見ると、さまざまな光や反射があり、何でもそうです。
私たちが当たり前だと思っているこれらの普通のもの、何もグランドキャニオンを見る必要はなく、すべてが素晴らしいのです。

そして、私としては、覚醒や悟りなどの言葉はあまり好きではありません。
時々使いますが、個人的には、すべてが劇的に変わるような大きな爆発的な瞬間を経験したことはありません。
混乱していたのに、突然大きな瞬間が訪れ、その後すべてが至福でいっぱいになるような経験は私はありません。 大きな瞬間を経験した人もいることは知っています。
しかし、いずれにせよ、私たちが経験するすべての経験は一時的なものだということです。

経験はその性質上、あっという間に消えてしまうのです。
ですから、スピリチュアルな世界では、私たちはしばしば、拡大や無限などの経験にとらわれてしまい、それが消え去ったように思えますが、実際には消え去っていません。何が起こるかというと、私や私たちが何であるかという物語が一種の注意を奪い、そして私たちはそれを失ったと考え、その経験に戻ろうとし始めるのです。

ですから、私が思うに、それはただの愚かな行為です。
これは、特定の経験をしたり、特定の状態に留まったりすることではありません。
それは、ただ今、ここ、あるがままに探求し、楽しみ、あるがままに存在することです。常に変化しながらも、常にここにあります。
そして、私が思うに、それは何かを求めたり、何かを獲得しようとしたりすることではありません。

それは本当に終わりのない探求なのです。ご存知のとおり、悟りや覚醒といった言葉は、私たちが越えようとしているゴールラインのようなものを示唆しているように思われることがよくあります。

しかし、それは非常に誤解を招く考えだと思います。
私はゴールラインがあるとは思いません。少なくとも私は見つけていません。
私にとってそれは、今ここにある、絶えず展開する、常に新しく、常に驚き、常に新鮮な生き生きとした状態です。

そして、覚醒や悟りといった言葉に関するもう1つの点は、私たちはしばしば、悟りを開いているとか、まだ悟っていないとか、個人的に捉える傾向があるということです。

しかし、よく言われるように、悟りを開いた人はいません。

つまり、もしこの言葉に何らかの意味があるとすれば、それは実際には分離がないという認識です。

悟りを得るために、他のすべてから分離している人はここにはいません。
そして、この想像上の私が到達し、永遠に留まるような、悟りと呼ばれる永続的な状態はありません。 それはまさに、見抜かれるものです。その見抜き方が悟りと説明されるかもしれませんが、それらの言葉を手放してしまった方が良いでしょう。

そして、ただ今ここにいるのです。 私はこれを修行とは考えていません。私はそれを楽しみ、探求だと考えています。そして、それが、私たちが可能な限り多くの時間を、生の感覚にただいることなどに費やすべきだとか、思考したり、空想したり、映画を見たりするべきではないと言っているわけではありません。

それは私が言っていることではありません。なぜなら、私は映画を見るのが大好きで、いつも独り言を言っているからです。 実際、時々私は少し異なるキャラクターを装って、想像上の対話をしています。 私は本当に、自分が少し狂っているのかも知れません。
しかし、だからと言って、私はこれらのことを否定しようとは思いません。これには絶対にすべてが含まれます。


○ 質疑応答

質問1: あなたのFacebookの投稿はトランプと彼が大統領になる未来を恐れているように見えます。 そのパターンに気づきましたか?
どうやって彼をあなたから切り離すのか?
これはすべて政治的じゃないですか? ドラマは実際には起こっていないのですか?

回答1: ええと、すべては、つまりより大きな意味では、私自身であると言えます。
トランプを含め、すべてを含めて。 
先ほど言ったのと同じように、何も本当に特定することはできません。
ドナルド・トランプも、他の人も、特定することはできません。つまり、彼は私たち全員と同じように、宇宙全体の他のすべてと切り離せない、常に変化する現象です。
しかし、私にとって、非二元性は、私たちがもはや意見や好み、または何に対する考えも持たなくなることを意味しません。
一部の人々のスピリチュアリティや非二元性に対する考え方は、すべてまたは何かに対して完全に中立になることですが、それは私の考えではなく、私の経験ではありません。
私には多くの意見があります。そして、私が気づいたのは、私たちは自分の意見を実際に選ぶことができないということです。
気候変動からワクチン、ドナルド・トランプまで、ほとんどすべてのことについて、私たちは多くの間接情報に依存していることに気付いています。
コロナウイルスについては、すべて間接情報に依存しています。私たちはすべて異なる情報源に依存してます。 そして、私が気づいたのは、信頼できる情報源を選択できないということです。 Qアノン(訳注:米国発の極右系陰謀論)などは信じられません。 それは起こりそうにありません。つまり、私たちには意見や好みがありますが、好みを選ぶこともできないのです。

ご存知のとおり、私は自分の性的指向や性別、アイデンティティを選択できませんでした。これらのものを選択することはできません。 私はドナルド・トランプが好きではありません。えっと、もし私が彼を個人的に知っていたら、彼は本当にいい人だったかもしれません。それはわかりません。 彼がしたことのいくつかには私が同意したり、私が同意したり、気に入ったりしたこともいくつかありましたが、大抵の場合、彼は非常に厄介で不安な人だと思います。
ジョー・バイデンは私の第一候補ではなかったのですが、彼に投票するつもりです。
でも、私にとっては、それはすべて含まれています。 結局のところ、私が気づいたのは、宇宙にとって何が最善なのか、私にはよくわからないということです。
私たちが気づき始めていることの1つは、確かに意見はありますが、宇宙にとって何が最善なのかはよくわからないということです。 そして、私はよく、誰もが知っている中国の古い農民の物語(訳注:塞翁が馬のことか?)を人々に思い出させます。

私たちは、何が何につながるのか、よくわからないのです。これで答えになっているか分かりませんが、これが私の回答です。

質問2: 最近のあなたの病気は、未来を考えるパターンを強めましたか?

回答2: いいえ、まったく逆です。
つまり、未来を考えるパターンは、先ほど言ったように何年も前に消えました。
シカゴに住んでいたとき、もう起こっていないことに気づきました。
未来について全く考えていないと言っているわけではありませんが、何年もの間のようにそれに執着していません。ええと、もちろん、時には実用的な方法で、未来について考えなければなりません。つまり、もしあなたが癌にかかっていたら、この治療やあの治療で何をするかなどを考えますよね。

でも、まったく逆です。むしろ、非常に深刻な癌を患ったことで、今ここにあるものの尊さにさらに目覚めました。 老齢も同じです。私は72歳で、それほど高齢ではありませんが、そろそろその年齢です。そして、死がすぐそこにあると気づき、目が覚めます。
そして、それで、私はすべてのものをありのままに、そして最も単純なものにもっともっと感謝するようになりました。

質問3: 禅を、人が見性や悟りを達成するという枠組みから教えるのですか、それとも達成すべきことが何もない非二元的な観点から教えるのですか?

回答3: そうですね。まず第一に、私は自分自身を禅の教師、あるいは教師とさえ、表現しません。教師という言葉は好きではありません。
私のいわゆる教師であるトニー・パッカーは、禅を離れた元禅の教師でした。
そして彼女は教師という言葉が好きではありませんでした。彼女は、教師と生徒、つまりサットサンの世界でよく見られるような、探求者と発見者という観点で考えることは、非常に分裂的で、誤った分離を生み出すと感じていました。
だから、私は実際、教師という言葉を単に実用的な意味で使うことはありますが、自分を教師や禅の教師だとは思っていません。
つまり、私は禅や、ご存知の通り、私が教えているものにとても共感しています。
私が聞いて理解した禅の本来の教えについてです。スティーブ・ハーゲンやメル・ワイツマンなど、多くの禅の先生と仕事をしてきました。ジョン・タラントもそうです。

私が数年前に関わった禅は曹洞宗で、そこでは見性や悟りなどについて語られません。
ただここにいて、ただ座っているだけです。私が出会った禅では、見性体験のようなものを強調しませんでした。そして、ただ、あるがままに気づくことだけを重視していました。それが、先ほど言ったように、私が強調していることです。
そして、これがすべてであり、この生きている現実をどのような概念的枠組みにも当てはめることはできません。
ですから、選択の余地がないとか、自己がないとか、達成すべきものがないといった、これらすべての指標に、(これらはすべて指標ですが、)それにとらわれてはいけません。

なぜなら、ある意味では、あるように見えるものがあれば、それは、見かけ上の時間にわたる旅やプロセスのようなものです。

そして、物事は変化し、進化し、ある意味では良くなるか、あるいは何であれ、選択をしているように見えます。そして、私たちがどのように機能するかは、ある神経科学者が選択をする神経学的感覚と呼んだものを通してです。

つまり、これらすべての指標は、何かを指し示していますが、それにとらわれてはいけません。
なぜなら、禅の偉大な公案があり、禅師と弟子が葬式か何かをしに行き、弟子が棺を叩いて「生きているか死んでいるか」と問い、禅師は「私は言わない、言わない」と言うからです。
結局のところ、何かが何であるかを本当に言うことはできないのです。それでも私たちは話します。なぜなら、それは起こっていることの一部だからです。
宇宙が私たちを通して、私たちにしていることの一部です。ですから、私たちは何かを言いますが、私たちが言うこと、説明、概念、解釈はどれも現実ではないことを理解することが重要です。

古いことわざのように、地図は領土ではありません。地図は役に立ち、マッピングはこの全体性が行うことです。しかし、地図はそれが表すものではありません。
言葉が表すものではないのと同じです。水という言葉は水ではありません。だから、それが私の回答かどうかわかりません。

質問4: あなたの死に関する本はとても良いと思います。 
臨死体験や死後の世界、生まれ変わりについて何か考えはありますか?

回答4: ええ、本に書いたように、私はそのどれも信じていません。
つまり、私は臨死体験は本当の体験だと信じていますが、人が本当に死んだ後に本当に起こるのかどうかは疑わしいです。
臨死体験とは死ではありません。 輪廻転生は、私が仏陀の教えとして理解していたことの誤解だと思います。ええと、私は、仏陀は天国や地獄のような考え方を大衆に教えてはいなく、微妙な本当の教えではないと思います。
ここには何も存在しないと思います。ここには、新しい生命に生まれ変わるような、確固とした永続的な実体を見つけることができません。
ですから、輪廻転生はないと思います。だからといって、死ですべてが終わるわけではありません。このすべてが何であれ、始まりも終わりもありません。
そして、ジョーンと呼ばれるこの見かけ上の形を、ジョーン以外のすべてから切り離すことはできません。
そういう意味では、終わりはないのです。でも、死後、何が起こるかはわかりません。私はまだ死んでいません。だから、本の中で言ったように、驚くかもしれませんが、白い光に向かって長いトンネルを進んでいくか、地獄に落ちていくか、何かに気づくかもしれません。そういうことが起こるかもしれません。でも、それは私が予想していることではありません。死は、夜眠ったり、麻酔をかけられたりするのとほとんど同じことだと思っています。麻酔をかけるたびに、意識がなくなるのを感じます。麻酔をかけるたびに、その考えが浮かびます。 実際、私はたいていそれを声に出して言います。さあ、行くぞ、と言います。麻酔をかけたらどこに行くのか、どこかに行くには誰がいるのか、などです。つまり、深い眠りの中にも何かが残っているということです。

深い眠りの中にも意識があるのです。アラームが鳴れば聞こえます。でも、死後には何が残るのでしょうか?
意識は、ご存知の通り、一つの普遍的な意識なのでしょうか?
私たちはそこで多くの理論や考えに陥りますが、私はむしろ、実際に何なのかという単純な考えに留まりたいと思っています。
ここでは、意識とは何かを知っているからです。
意識とは何でしょうか? ご存知のとおりです。
つまり、一方では、意識は私たちの最も明白な直接的な経験ですが、それでもそれをつかもうとすると、それは何なのでしょうか? それと、ここにあるすべてのものとの間に境界はあるのでしょうか? それは何でしょうか? 
ですから、私は来世とか、そういうものをあまり信じていません。

質問5: あなたは、あなた自身のことを感じようとしています。 これはあなたにとって治療的なものですか?
すべてをさらけ出すことは、あなたの道の一部ですか? それは目覚めに役立ちますか?

回答5: ええと、私が言えるのは、それが私のやっていることだということです。
そして、もう一度言いますが、私たちが実際に何をするかを選択しているわけではないことに気付きました。
つまり、私は座って、本を書いて自分について多くのことを明らかにしようなどとは考えませんでした。それがただ起こったことです。
そして実際、長い間、私はそうしないようにしていました。なぜなら、自己がないという非二元的な考え、つまり、個人的な人格、個人的な生活は、すべて精神的に劣っていて、非二元的ではなく、やめたほうがよいという考えがあったからです。

だから、私は、絶対的な立場から話す教師たちを本当に羨ましく思っていました。
それで、私は、ストーマバッグ(訳注:オストミー手術を受けた患者が体からの排せつ物を収集するための使い捨て袋。)や人生の細かいことについて書いていたのです。

どうしてできなかったのか、実は当時はストーマバッグを持っていなかったのですが、とにかく、うーん、でもポイントは、うーん、まず第一に、私が言ったように、すべてがスピリチュアルで、すべてが非二元的であると考えていることに気づいたということです。

だから、いわゆる私生活を排除するものとは見ていません。そして、私が書いたものを気に入らない人もいますが、私が受け取ったフィードバック、つまり肯定的なフィードバックは、多くの人が、自分は一人ではなく、自分と同じことを経験している誰かがいると知ることで、とても解放されたと感じているというものです。

そして、それは私にとって興味深いことの1つでした。
うーん、私が最初の本「Bare Bones Meditation」を出版したとき、私が明らかにしたことが読まれた後、私は人類から排除されるのではないかと本当に思いました。

そして、私は自分自身をとてもとても変わっていると思っていました。
つまり、私は片腕のレズビアンで、リトリートセンターに住んでいて、そこでは私が唯一のゲイで、数少ない女性の一人でした。
そして、私たちは本当に違うと思っていました。そして、本が出版された後、ある男性から電話がありました。彼は、リトリートによく来ていた男性で、私とはまったく正反対の男性だと思っていました。大きく、神を信じるストレートな男性です。 彼は私に電話をかけてきて、ああ、ジョニー、君は私と同じだね。私たちはまったく同じだ、と言いました。私は、すごいと思いました。
そして、その後、私とはまったく違う人生を歩んできた人々から、その話を聞いたのです。

彼らは依存症に悩まされたことはなく、ゲイでもありません。彼らは私と同じ人生経験がないのに、それが自分たちの物語のように感じたと言っていました。
それで、私たちは時々とても違うように感じるけれども、共通点がたくさんあることに、ある種、目覚めさせられました。
そして確かに、私たちはみんな絶対にユニークで、私たち一人一人が絶対にユニークな道を歩んでいて、2つの雪の結晶が同じということはありません。
しかし同時に、人間として経験することには非常に多くの共通点があります。では、これをすることは私にとって治療的でしょうか?
私にはわかりません。つまり、これが私の仕事だということしか言えません。
そして、ええと、私は新しい本に取り組んでいないので、もう二度と書かないかもしれません。わかりませんが、ええと、ただそれが私の仕事のように思えます。

質問6: あなたの個人的な経験では、純粋意識の感覚はどのようなものですか?
それは体の内側ですか、それとも外側ですか?
オンオフですか、それとも安定していますか?

回答6: 純粋意識がどのようなものかはわかりません。
ええと、私が見る限り、先ほど言ったように、内側と外側の境界を見つけることはできません。永続的に安定する経験を見つけることはできません。しかし、私はそれが常にここにあり、常に今であることに気付きました。
そして、ここ、今、意識と呼ぶことができます。ええと、それをさまざまな名前で呼ぶことができますが、私は意識の外側、または意識以外のものを経験することはできないことに気付きました。
何かを想像することはできますが、その想像は意識の経験です。先ほど言ったように、意識とは何でしょうか?
それはちょっととらえどころがないですね。
まあ、でもあなたが知る限り、純粋意識を体験することにはあまり興味がありませんし、それがどんなものなのかもわかりません。
つまり、それは深い眠りの中にあるものとか、そういうものなのかもしれません。
わかりません。でも、私は深い眠りの中にいるわけではありません。
少なくとも私がそう言うとき、私が意味しているのは、ええと、目覚めた意識のことですが、この体験は深い眠りの中には存在しません。
そこには体験はありません。ですから、とにかく、それは私のものではありません。

質問7: 自己重要感についてどう思いますか?

回答7: ええと、私はそれをお勧めしません。私は自己卑下もお勧めしません。
つまり、私たちの社会は、人々が自己嫌悪や自分は十分ではないと感じることなどで蔓延していると思います。
だから、私はそれをお勧めしませんが、その効果的な解毒剤は自己重要感ではないと思います。私はそう思いますが、これらはすべて私たちが自分自身の中に見ることができるものであり、もう一度、あなたが何に注意を払っているかを見れば、私たちは時々優越感を感じ、時々劣等感を感じていることに気付くでしょう。
ご存知のとおり、これらは人間的なものですが、それらは幻想だと思います。
なぜなら、私たちの誰もが本当に優れているとか、劣っているとかいうわけではないからです。つまり、相対的に、ある人は他の人よりも優れた外科医であるとか、そういうことかもしれません。あるいは、より速いランナーであるとか、そういうこともあるかもしれませんが、しかし、優れた人、劣った人というのはいないと思います。

質問8: 後悔していることはありますか?

回答8: ええと、そうですね、確かに、振り返ってみると、ああしなければよかったとか、違うやり方をしておけばよかったとか、そういうことがあるという意味では、イエスと言えるでしょう。
しかし、私はそれについて後悔に囚われて過ごしているわけではありません。
それは私のものではなく、特にそれに囚われることはありません。
そして、選択はなく、起こることはすべて全体として非個人的な出来事であるという事実を本当に理解すると、あなたは常にその通りに表現されており、他の方法ではあり得ないということを理解するでしょう。
ですから、私は「しまった、それは間違いだった」と振り返るかもしれないのですが、それはその瞬間のことであり、非常に解放的なのです。

それは、しかし、その洞察、その気付きは私にとって非常に解放的なものだったのです。なぜなら、それは中国の農家の話、古い中国の農家の話とも関連しているからです。つまり、私たちが間違いだと考えることをした時、その全ての影響、あるいはそれが起こらなかった方が良かったかどうかは、本当に分からないのです。気候変動や核戦争などで私たちが種として絶滅したとしても、それが悪いことだと私たちは知りません。つまり、私たちはそうならないようにプログラムされているようなもので、生き残りたいと思っています。
しかし、私たちは本当に分かりません。恐竜も生き残りたいと思っていたでしょうが、彼らの絶滅は私たちにとって特に問題ないように思えます。
ポリオワクチンの開発がなかったことを嘆いてはいません。しかし、人間は生き残るべきだという考えに私たちはかなり執着しています。
そしてもちろん、いつか私たちは死にます。すべては死にます。あらゆる形態は死にます。

実際、先に述べたように、それは決して本当に固体として、あるいは永続するものとして形作られることさえありません。新しい何かがここに来るでしょう。

少し脱線したかもしれませんが、後悔について、もし誰かが本当に何かを後悔し、後悔に迷い込むというパターンを持っているなら、それを認識することは良いパターンです。
そして、それをより多く見て、それを通り抜け、その不真実さを見るほど、その影響力は小さくなると言えます。

~以下はZOOMでの連絡や挨拶のようなものなので、略しました。


「見つめ合い」のこと

2024-11-25 09:43:51 | ノート

「見つめ合い」のこと

「見つめ合い」とは、この頃、ZOOMで行われるワークの一つだが、キリストの顔を見るんだよと言われて、なんのこっちゃ、よくわからん、と思ったのだが、確かに言葉にならないものが、そこで感受されるのは間違いないことで、その言葉にならないものを「キリストの顔」と抽象的に表現したのだろうと、まあ、思っていた。

ただ、レヴィナスという哲学者の「全体性と無限」に、この「顔」というタームが出てくる。 

レヴィナスは、こう言う。

我々は欲求に基づいて生きている。 例えば、目の前にあるものを食べるということは、自分でそれを口に入れて、咀嚼して自分の一部にすることだ。 欲求を充足させたということによって世界が一部消滅し、その消滅した一部は私の中に入ってきた。 つまりここで、ある意味では私は部分的に世界と合一できたことになる。

ところが、他者はどうだろう。 

「見つめ合い」では、身体的には他者の顔を見る。 しかし、どんなにその顔を見ても、その人と同じにはなれない。 それどころか、自分との違いが見えてくる。 食べ物みたいに、その人を取り込むことはできない。 合一化することはできない。 

レヴィナスに言わせれば、「顔」は「真の他者」を表している。 求めても決して得られない他者がそこにいる。 理解ができないがゆえに、その視線は顔を通り越して、無限の彼方へと動いていく。

この無限の彼方が「キリストの顔」なのだ。

逆に、安易にワンネスという言葉で、「見つめ合い」を概念化してはならないと思う。 簡単に合一化できるとか、合一化できそうな部分をその顔の表情に探すとかではない。 いわゆるCompassion(共感)とは、ちょっと違うようだ。 

なぜ、「顔」なのか? 顔は日常で、最も直接的に「他者性」と向き合えるものだからだ。

ここにパラドックスがある。 

この真の他者性の向こう、理解できない、得られないものの向こうに、無限があり、全てに共通する「キリストの顔」がある。 ワンネスがある。 それはこの現象界の中で、五官を越えて、垣間見ることができる神秘なのかもしれない。

それは、厳しい自然の中で、畏敬の念が浮かぶほどの光景を見た時と同じようなものなのかもしれない。
ある宇宙飛行士は、宇宙遊泳をしていて、ヘルメットの外側がまったくの真空の時、神の臨在をダイレクトに感じたと言う。 

、、、、、、、 レヴィナスの表現を借りて、自分の考えを作り出してしまった。

 


「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 に出てくる引用句

2024-11-23 16:38:09 | ノート

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 覚醒ブックス に出てくる引用句

この本の章の最初に様々なところから引用されている言葉が素晴らしいので書き出してみました。

この引用からトリフソンが影響を受けた人々がわかると同時に、ガイド、目録となるような気がします。

 

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セイラー・ボブ
生は常に生を糧に生きています。生はあらゆる形、あらゆる姿をとって表れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。

ジャン・クライン
まず自分に問うことです。「解放されることを望んでいるその人、自分は捕らわれていると思っているその人は一体誰なのか?」と。 その問いの中に答えを見出すでしょう何もないということが分かります。 誰もいないのです。

J.マシューズ
ひどく厄介な問題を抱えていることもあるかもしれない。本当に考えられないほどひどい神経症的な強迫観念とか。 それでも、それが今、この瞬間の経験であるのは変わらない。 この理解は、いったん自分のものになると、ものすごい開放感をもたらしてくれる。

アナム・トゥプテン
愛とは、あらゆる状況、あらゆる存在が今あるままで完璧であることを見る力です。

ニサルガダッタ
鏡に映っているのは自分ではない。 映っているものを見ているのが自分なのだ。それをはっきり理解することだ。何を知覚しているとしても、知覚の対象は自分ではないということを。

ブッダ
出来事は起こる。行為はなされる。しかしそこには個別の行為者はいない。

道元
現実とは何か。 火の中で伸びる氷柱(ツララ)だ。 

スティーブ・ヘイガン
私たちは渦巻き、音楽、ハリケーン、氷柱に似ている。 いったん形になると_つまり,想像されると_自分が具体的な何かであるように見えてくる。だが一瞬一瞬、すべては新鮮で新しい。

ラマナ・マハルシ
身体は好きなようにさせておけばいいのです。なぜ身体のことをそんなに気にするのですか?なぜ身体に注意を向けるのですか?

ニサルガダッタ
あるのは感覚、知覚、記憶、観念の流れだけだ。身体とは抽象概念であって、雑多なものの中に何らかのまとまりを見出そうとする我々の傾向から生まれたものだ。 (中略) それは海の表面だけを見て、その下にある無限の広がりをすっかり忘れてしまっているのと同じだ。

ゾーケツ・ノーマン・フィッシャー
身体と魂の間、精神と物質の間に矛盾はない。こうしたものは一つのものを理解するための用いられる言葉にすぎない。

ティックナットハン
波は水になりたいからと言って、波であるのをやめる必要はありません。

ニサルガダッタ
世界は行為に満ちているが、行為者はいない。

ダリル。ベイリー
いわゆるどの瞬間においても、まったく形がなく説明のしようがない出来事だけがあります。

ニサルガダッタ
言葉による説明は様々で、互いに矛盾している。現実は単純だ。説明や解釈をしようとする時だけ言葉に失望させられる。

ナーガルジュナ
永続するものがないとしたら、永続しないものがあり得るだろうか?どちらもあるのか、どちらもないのか?

道元
一つの対象をいろいろな見方で見ているのか、それとも、様々な心象を一つの対象だと勘違いしているのか?

ラマナ・マハルシ
経験は今この瞬間にしか起こりません。そして、経験を越えて、経験を離れて存在するものはありません。

ウェイン・リカーマン
自分は行為者ではないと信じていることと、自分は行為者であると信じていないことの間には大きな違いがある。

禅の古い逸話
禅修業を始める前、山があり、谷があった。修業を始めてみると、山はなく谷もなかった。悟った時、山があり谷があった。

道元
仏道とは、要するに多と一を飛び越えることだ。

黄檗
一対のうち片方にだけしがみつかないよう用心せよ。

ニサルガダッタ
誰もがそれぞれの性質に従ってふるまう。それはどうにもならないことで、嘆く必要もない。

ダリル・ベイリー
人にできるのは、身体、欲求、関心、衝動、行為としてあるということだけですが、そのどの瞬間においても自然がそのように表れているのです。

トニ・パッカー
あなたがすることは、私がしています。あなたがしたことは私がしたのです。それをしている人はどこにもいません。すべては広大な開かれた空間の中でひとりでに起こっています。

ラマナ・マハルシ
認識というのは新たに手に入れるような何かではありません。(中略) 認識とは、自分はまだ認識できていないという誤った観念から自由になることです。

ニサルガダッタ・マハラジ
見せかけのものは時間を必要とし、時間を必要とするものは見せかけのものだということが理解できれば、(実在)に近づいたことになる。 (実在)は時間を超えていて、必ず今にある。 (中略) 達成するのに時間がかかるとしたら、それは必ず見せかけのものだ。本当のものは常に自分と共にある。自分であるものになるために待つ必要などない。心が自分を探しにどこかに出かけようとする時、それをそのままにしない。それだけだ。


アラン・ワッツ
問うべきは、それを手にするためにこれから何をすべきかということではない。自分が今何をしているせいで今この瞬間にそれが認識できなくなっているのか、それを問うべきだ。

シャーロット・ジューコー・ベック
気づきを保っているとき意識しているかどうかには関係なく、癒しが起こっています。(中略) 閉ざされていた扉が開き始めます。(中略) 扉が開くと、現在が絶対だということ、そしてある意味では宇宙全体がこの瞬間、毎秒新たに始まっているということが分かります。その単純な気づきの瞬間の中に生の癒しはあります。(中略) 無邪気でいること、癒しは常にまさにここにあるのです。

トニ・パッカー
たった今ここにあるものと共にただある時、それが喜びであるか痛みであるかに関係なく、驚くべき自由が姿を現します。それは言葉では表現できませんし、説明もできません。それが今この瞬間にあるままに完全に努力なしにあるという自由です。

デヴィッド・スタインドル修道士(ベネディクト会)
修練とはこれをしたりあれをしたりといったことではなく、むしろじっとしているということです。 それは、何の努力も必要ないようなことではありません。 努力は最も重要な課題にだけ向けられます。努力をしないという課題です。

トニーパーソンズ
恩寵の中にいないということはあり得ない。あなたに関するすべては、完全に絶対的に完ぺきに適切だ。自分についてよくないと思っていることすべてが絶対的に正しいのだ。

道元
自らの完全性に達していない生き物はいない。どこにいたとしても必ず役割を果たしている。

カール・レンツ
今あるとおりでありますように。

黄檗
自分の本性は迷妄の中でも失われることはあり得ないし、悟りによって得られることもあり得ない。(中略)間違いないのは、すべてが全くの初めから束縛から解放されていたということだ。

トニー・パーソンズ
神は、私たちが立派な人間になるのをどこか別の場所で待っているわけではない。

ニサルガダッタ・マハラジ
出来事が起こるのを現実がやってくるのを待っているとしたら、永遠に待ち続けることになるだろう。現実はやってくるものでも去っていくものでもないからだ。

ウェイン・リカーマン
悟りはあなたが考えているようなものではなく、今あるすべての中に徹底的に想像もつかないほどに溶け去るということだ。

デヴィッド・スタインドル修道士 (ベネディクト会)
目覚めるというのは継続するプロセスです。 一度目覚めてそれで終わりという人は誰もいません。 目覚めに限界はありません。生きているということに限界がないのと同じです。(中略) あらゆる新発見の驚きの中にある驚きはさらにもっと発見すべきことがあるということです。

ニサルガダッタ・マハラジ
すべては勝手に起こる。まったくひとりでに。(中略) 努力が必要な時は努力が現れるだろう。努力をしないことが何より重要になれば、おのずとそのようになるだろう。

トニ・パッカー
空の中ではなにかと衝突するものは何もありません。

トリフソン
「自分の人生のストーリー」を組み立てる時、実際には途切れなく変化を続けている感覚の流れてでしかないものを思考意識は恣意的に選択し、抽象化し、具象化し、分割し、そこに意味付けをします。 その時に思考が頼りにしているのは、変わりやすく不完全であてにならないことで評判の記憶です。