結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

アカチラ、那覇大阿母屋敷跡、円山号跡…旧那覇

2014-05-16 | 歴史

那覇市若狭、「夫婦橋」バス近く、浜松外科整形前に「アカチラ」の説明板があります。アカチラは、若狭町村の海岸砂汀地で、沖に、『夫婦瀬』(岩)があり、風光明媚な場所で、「浜下り」の場所でもありました。

01-0512 浜松外科整形

02-0512 アカチラ

03-0512 アカチラ

04-0512 アカチラ

「アカチラ…旧若狭町村の北東部の海岸砂汀地の名称。『アカツラ』・『明津浦』とも記す。名称は海岸付近の地名『アカチラバル』に由来する。 かつて若狭町村(現那覇市若狭)北東部の海岸は、東の『那覇潟原』(塩田:現潮渡橋一帯)から北の「雪の崎」(海岸に突き出た岩礁:現若狭小学校付近)に続く砂汀地で、歩いて渡れ、『アカチラ道』と称した。琉球王国時代には、首里の士族が人目をはばかり、ここを歩いて辻の遊郭に通ったという。 アカチラの沖には、『夫婦瀬』(岩)があり、風光明媚な場所と知られ、数々の詩や琉歌が詠まれた。また、那覇の婦女子の『浜下り』の場所でもあった。 戦後の都市計画により、1950年代に潟原を含む海岸一帯の埋立工事が行われ、住宅地へと姿を変えた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

05-0512 夫婦瀬公園方面

06-0512 旧久茂地小学校

 那覇市久茂地、「久茂地小学校」は、生徒数減少により、2014年3月31日に廃校となり、前島小学校と統廃合し、前島小学校敷地に「那覇小学校」として開校されました。久茂地小学校裏の「カメラの森山専用駐車場」の一角に、「那覇大阿母屋敷跡」の説明板があります。

参照(那覇市立久茂地小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/kumoj-es/

参照(「ありがとう久茂地小」校舎開放し大同窓会  沖縄タイムス+プラス_php http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=65893

07-0512 那覇大阿母屋敷跡

08-0512 那覇大阿母屋敷跡

09-0512 那覇大阿母屋敷跡

10-0512 那覇大阿母屋敷跡

11-0512 那覇大阿母屋敷跡

「那覇大阿母屋敷跡(ナハオオアムヤシキアト)…琉球王国の女神官の一人「那覇大阿母」の屋敷跡。広さは215坪。那覇大阿母は「浜(はま)の大阿母」ともいい、高級神女「真壁(まかべ)大阿母志良礼(しられ)」に属す。 嘉清(かせい)年間(1522~1566年)、錢氏与那城親雲上直方(せんうじよなぐすくペーチンちょくほう)の娘真牛金(モウシガニ)は貞女との評判から、国王尚清(しょうせい)に召され、国王の子の養母となり、那覇士族の女性の頭(かしら)となった。この時、那覇大阿母に任じられたという(『女官御双紙、にょかんおそうし』)。 那覇大阿母は、代々那覇士族の婦女から選ばれ、楚辺(そべ)大阿母・泉崎(いずみざき)大阿母とともに那覇地域の祭祀を司(つかさど)った。また中国への進貢船(しんこうせん)出船の際は、両大阿母とともに三重城(みえぐすく)で、航海の無事を祈願した。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、那覇大阿母職は廃止され、屋敷地は1911年(明治44)久茂地(くもじ)尋常小学校創設に際し、学校用地に組入れられた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 国道58号線「泉崎」交差点近く、「琉球サンロイヤルホテル」前に、「円山号跡」の説明板があります。「円山号百貨店」として開店し、戦後の一時期は、「行政庁舎ビル」としても使用されていた建物跡です。

12-0512 サンロイヤルホテル

13-0512 円山号跡

14-0512 円山号跡

15-0512 円山号跡

「円山号跡(マルヤマゴウアト)…沖縄一のメインストリート『大門前(ウフジョーメー)通り』に面して建てられた百貨店跡。 店主は兵庫県出身の尾花仲次(オバナチュウジ)氏。尾花氏は1879年(明治12)生まれ。1912年(大正元)8月に来沖し、露天(ろてん)商人から始め、後に化粧品を中心とした雑貨卸問屋(おろしどんや)「円山号」を大門前通りに開店した。 尾花氏は商才に長けていたといわれ、さらに営業努力もあって、1935年(昭和10)10月、通りに面して、約150坪の敷地に鉄筋コンクリート造り3階建て(一部4階)の円山号百貨店を新築開店した。それまでの店は『円山号分店』として営業された。 百貨店としては山形屋(やまがたや、1930年開業)に次ぐ出店で、屋上からの展望と、おしゃれで真新しい百貨店に、那覇(なは)市民の人気が集まったが、1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲で半壊した。 1949年(昭和24年)、アメリカ軍政府・沖縄民政府が、知念村(ちねんそん)から那覇へ移転してきたのを機に補修され、1950年(昭和25)5月に琉球軍政官府、さらに1952年(昭和27)に立法院が置かれるなど行政庁舎ビルとして使用された。 1953年(昭和28)から始められた一帯の区画整理後も建物は使用されたが、1966年(昭和41)9月に取り壊され、駐車場敷地となり、その後、ホテルが建てられた。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

16-0512 円山号跡


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