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身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

壺屋区役所跡、てんぷら坂、那覇劇場跡…那覇市壺屋

2014-05-31 | 文化

 那覇市壺屋、「壺屋やきもの通り」前から、「壺屋大通り」を下っていくと、道沿い左手に「壺屋区役所跡」(那覇市壺屋1-16)があります。戦後、最初に設置された、那覇市の行政庁舎跡です。

01-0531 壺屋区役所跡

02-0531 壺屋区役所跡

03-0531 壺屋区役所跡

04-0531 壺屋区役所跡

05-0531 壺屋区役所跡

「壺屋区役所跡(ツボヤクヤクショアト)那覇市壺屋1-16…沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡。 沖縄戦以前、上之蔵(うえのくら、現那覇市東町)にあった那覇市役所は、1944年(昭和19)の10・10空襲により焼失した。 1945年(昭和20)11月10日、沖縄戦で住民の立ち入り禁止となっていた旧那覇市の一角の壺屋に、陶器・瓦製造のため陶工を中心とした復興先遣部隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。 翌1946年(昭和21)1月3日、人口増加にともない糸満(いとまん)管内壺屋区として区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始。同年4月4日壺屋区は糸満管内から分離し那覇市となった。 那覇市役所庁舎は、その後牧志(まきし)、開南(かいなん)、牧志、天妃(てんぴ)へと移り、1965年(昭和40)9月には泉崎(いずみざき)へ移転。この間、1950年(昭和25)特別行政区みなとみなと村、1953年(昭和28)首里(しゅり)市・小禄(おろく)村、1957年(昭和32)真和志(まわし)市と合併、埋立も行い、那覇市は現在の地域となった。 設置 2002年3月那覇市市民文化部歴史資料室」

06-0531 壺屋区役所跡

07-0531 壺屋区役所跡

08-0531 壺屋区役所跡

 「壺屋大通り」沿い、「壺屋やきもの通り」の前方左手に「てんぷら坂」(那覇市壺屋1-9-1)があります。戦後、この坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち並んでいたそうです。

09-0531 てんぷら坂

10-0531 てんぷら坂

「てんぷら坂(テンプラザカ)那覇市壺屋1-9-1…壺屋(つぼや)から牧志(まきし)に至る坂の通称。この坂に天ぷら屋が建ち並び、その名が付いた。 かつてこの一帯は、「一ツ松尾(ティーチマーチュー)」・「二ツ松尾(ターチマーチュー)」と呼ばれる丘陵で、丘には墓が点在し、丘の前の坂道は「ガマヌ下(シチャ)」と呼ばれた。 1944年(昭和19)9月、壺屋町内会が丘に防空壕を掘り、10月9日に完成、翌日、米軍の空襲(10・10空襲)があり、1,000人余が避難し助かったという。 1945年(昭和20)11月に壺屋・牧志一帯が解放されて以降、那覇(なは)の人口が増加するとともに、坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち、人々に食を供し、いつしか通りの通称となった。 戦後直後は、天ぷら油は米軍からの「戦果(せんか)」(盗品)のモービルオイル(機械用潤滑油)が使われたという。黒煙が立ち上り、独特なにおいで、お腹を下す人もいたというが、食糧不足の時代、天ぷらはご馳走として喜ばれたという。 1994年(平成6)に着手された牧志・壺屋西線の道路工事に伴い、丘も坂も多くが削られた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

11-0531 てんぷら坂

12-0531 てんぷら坂

13-0531 てんぷら坂

14-0531 てんぷら坂

 「壺屋やきもの通り」前から、「壺屋大通り」を下りていくと、右手に「壺屋うふシーサー」が見えます。その後方の道を進むと、右手に、「照屋パーキング」の表示あります(那覇市壺屋1-1地先)。かつての「那覇劇場跡」は、駐車場となっています。

15-0531 壺屋うふシーサー 

16-0531 那覇劇場跡

17-0531 那覇劇場跡

18-0531 那覇劇場跡

19-0531 那覇劇場跡

20-0531 那覇劇場跡 

「那覇劇場跡(ナハゲキジョウアト)那覇市壺屋1-1地先…旧真和志村(まわしそん)字樋川神里原(ひがわかんざとばる、現那覇市壺屋、なはしつぼや)に建立された芝居専門の演芸場跡。 1945年(昭和20)の沖縄戦により、沖縄の住民は各地区の収容所生活を余儀なくされた。このような中、住民を代表する「沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)」(後の沖縄民政府)が組織され、その下に文化部が置かれた。文化部では収容された琉球芸能の役者・音楽家など約200人を集め、松(まつ)・竹(たけ)・梅(うめ)の3劇団を組織し、各収容所の慰問(いもん)公演を行った。 1945年11月10日の先遣隊(せんけんたい)派遣を皮切りに那覇市の部分的解放が行われ、壺屋(つぼや)・牧志(まきし)を中心に住民の居住が広がった。那覇では人口増加とともに市場ができ、さらに中央劇場、アーニーパイル国際劇場、那覇劇場の順に劇場が造られた。 那覇劇場は、1949年(昭和24)9月、仲本清智(なかもとせいち)、宮里孝助(みやざとこうすけ)・孝盛(こうせい)兄弟等を中心に演劇専門館として造られた。当初は露天(ろてん)の劇場であったが、こけら落としは、松劇団(団長島袋光裕、しまぶくろこうゆう)により華々しく行われたという。那覇劇場は他館が映画専門館として興行する中、戦後旗揚げされた多くの劇団が公演を行い、芝居のメッカとして人気を博した。また、学芸会やボクシング試合など各種催(もよお)し物会場にも使われた。 その後、映画・テレビ人気、さらに沖映(おきえい)本館が1965年(昭和40)から芝居専門館として興行したため、那覇劇場は経営難に陥った。経営者の仲本清智は、姪の仲田幸子(なかださちこ)率いる「でいご座」の常打ち館として再生を図ったが、1969年(昭和44)閉館した。劇場跡地は売却され、市場利用者の駐車場として経営された。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

21-0531 那覇劇場跡

参照(地域 旧那覇  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-naha-city


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