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「南福寺」は中野神社境内にあり、中野神社の別当寺だった。
そもそも、別当寺(べっとうじ)とは何か。
別当寺とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するあために置かれた寺のこと。
神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。
明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。
明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。
私がまだ小さい頃からも南福寺は一般的な寺の形態ではなく、お堂のようなイメージで寺院の認識はなかった。正直、これが安福寺だったのかとの感じだ。
現在、東近江市の寺社の総巡りをしている中で史歴を見つけたこと、八日市市史にも天台宗の一寺として記述されていることで再認識した。
南福寺は現在も密やかに中野神社境内に庵室として存在している。しかし、今や、南福寺の歴史を知る人は多くはないだろう。
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南福寺
所在地 東近江市東中野町3-28(中野神社境内)(旧八日市市)
所在地 東近江市東中野町3-28(中野神社境内)(旧八日市市)
■宗派 天台宗
■開基 応仁2年(1468年)
■寺歴 中野神社の別当寺(太郎坊生願寺の寺坊の1つ)。かつては地蔵堂と呼んだ。
■由緒
応仁2年(1468年)の開基と伝えられ、中野神社の別当寺的役割を果たしていたが宝暦10年(1760年)の南福庵が成立して、神社の境内にあって、神事祭礼に村人が集まる会所として建てられて小家であったが、いつの頃からか地蔵堂が庵号を唱えるようになった。
つまり中世にあった宮座の会所に、いつしか僧が住みつき地蔵堂を取り込んで(管理)、この庵室を寺院化し始めた。そのとき幕府は寺社改めが絶好の機会となった元禄5年(1692年)に領主や本寺に「社寺御改之覚」の書き付けが提出され南福寺と登録されたようである。
このようにして元禄期に住僧が居し、天台宗比叡山惣持坊の末寺(太郎坊の生願寺の僧坊)としての様態を整え、数年単位で次々と住持僧が派遣されていたのである。
開創開山者名の古記録はなく不詳であるがご本尊地蔵菩薩脇の板札に「嘉永4年(1851年)亥年9月24日奉修本地開眼供養、院内安全五穀成就祈処、再建現住実純代」と記してあるところからこの頃が現在の木造平屋建ての本堂ではないかと思われる。
堂内にはご本尊地蔵菩薩立像をはじめ元三大師、毘沙門天像、不動明王像、青面金剛像、三猿像がまつられ、中央に護摩壇が設けられている。
経本に大般若経600巻、巻法華経8軸が収納されている。
このようにして元禄期に住僧が居し、天台宗比叡山惣持坊の末寺(太郎坊の生願寺の僧坊)としての様態を整え、数年単位で次々と住持僧が派遣されていたのである。
開創開山者名の古記録はなく不詳であるがご本尊地蔵菩薩脇の板札に「嘉永4年(1851年)亥年9月24日奉修本地開眼供養、院内安全五穀成就祈処、再建現住実純代」と記してあるところからこの頃が現在の木造平屋建ての本堂ではないかと思われる。
堂内にはご本尊地蔵菩薩立像をはじめ元三大師、毘沙門天像、不動明王像、青面金剛像、三猿像がまつられ、中央に護摩壇が設けられている。
経本に大般若経600巻、巻法華経8軸が収納されている。
宝暦11年(1761年)、南福寺は「根元郷寄合所」であり、別当寺ではないとされ、住僧は南福寺を退去したようだ。以来、南福寺は無住の庵室になった。
■本尊 地蔵菩薩