石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主(現彦根市)。
幼名は佐吉。おもな官位は治部少輔。 豊臣政権の五奉行の一人。主に吏僚として才能を発揮して、主君・豊臣秀吉から絶大な信頼を得る。秀吉の死後は、その家督を継いだ嫡男・豊臣秀頼を支え、豊臣の中央集権体制を維持しようと務める。
しかし、大老・前田利家の死後、徳川家康が天下穫りのため活発な活動をはじめる。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
秀吉の子飼い
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下
天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。
天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』。異説あり。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。
秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。
また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年(1589年)、美濃国を検地する。
天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。 関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお、三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている。
文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。
文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩や大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している。また、この年に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となった。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。
慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。
慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。
秀吉死後
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められる中、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。
慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼の為に協力してこれにあたる事を改めて誓う起請文を作成している。一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。
翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚。これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せるなど対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文 を提出することなどにより一応の解決をみた。
同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。三成は後に、この事件の中心人物として事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている。
この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。
なお、この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握ることとなる。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が別れる。
従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている。 また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い。
『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いた時の逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証は無い。
また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説もあるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けは無い。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉氏との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携は、無かったとする考察もある。
決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。
通説では当初はやや西軍優勢で進むも、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし東西どちらの陣営に付くか迷った秀秋の陣に、家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通、彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
豊臣奉行としての三成
三成は秀吉直下の奉行として様々な政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)-地方大名間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力を伺わせる発言がいくつか残っている。
毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」
島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」
木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」
五奉行に限らず地方大名との様々な交渉を担当した豊臣秀長、富田一白、宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることもあった[24]。 三成に関しては毛利氏・島津氏が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係が後の関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。
但し、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務は他の奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけでは無い。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように三成の職権と影響力には限りがあった。
また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては三番手もしくは四番手であった。
秀吉の最晩年期になると慶長3年(1598年)8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康及び他の大老との間で交わされた起請文の条項によって奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されてゆく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる。
家紋
定紋は定かではなく、「大一大万大吉」、または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。「大一大万大吉」紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久(源義仲を射落とした武将)も使用しており、他には備後山内首藤氏も使用している。