”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

1995年阪神・淡路大震災はバンコクからTVを通じて。。。その後

2021-11-18 06:00:00 | わたしの仕事人生
 私は1995年(平成7年)1月17日の5時46分に発生した「阪神・淡路大震災」の時は、バンコクに赴任中だった。もう25年以上前になる。。。

 タイと日本は2時間の時差があり、タイは2時間遅れている。
1995年、日本時間の1月16日23時頃(タイ時間1月16日の21時頃)まで1時間ほど国際電話で西宮の友人と話していた。地震発生のつい、7時間ほど前のことである。

 「阪神・淡路大震災」発生の模様はTVを通じて知った。日本のNHK-TVがバンコクでも放映されていた。関西は実家があり、何年も勤務もしたところでもあるので関係者、友人や知人も多く大変心配した。

 実は1995年(平成7年)の春には異動でバンコクから日本に帰国することになっており、次の異動先は関西とされていたので出来れば環境が良くてまだ住んだことがない西宮辺りの社宅がどうかと西宮の先輩に電話で事情を尋ねていたのである。
 空きの部屋まで指定して要望していたので地震が起きなかったら西宮に住んでいたに違いない。まさかあのような大きな地震が発生するとは誰も考えなかったから。。。。
この地震で希望していた西宮の社宅も一部ダメージを受けたり、被災した社員家族の一時避難先として京阪神の社宅の空き部屋が緊急用として割り当てられていた。

 私の異動は地震発生と関係なく予定通り発令され、3月初めに家族をバンコクに残し単身で一足先に帰国し大阪に赴任した。
案の定、希望だった西宮の社宅は被災家族に割り当てられ、入居は無理だった。3月末には家族が帰国するのでそれまでにはホテル暮らしをして社宅を確定しなければならない。特に子供達がどこの学校に転校するのかもあって急いでいた。
 通勤が便利で、環境が良く、家族5人用の広い社宅が希望だった。最終的に残ったのは京阪電車沿線の枚方だった。枚方の社宅は改装されて広く新しくなっていた。あの時の関西の事情にあってそれ以上無理は言えなかった。
ただ、与えられた部屋を下見に行った時にはまだ一時避難用の布団が置かれていて地震発生当時の関西の緊迫した事態を感じたのだった。

 第1の希望で選んだ枚方市ではなかったが住居は駅にも近く買い物等にも便利で楽しく枚方市の生活を過ごした。3年間住んだ大阪府枚方市だったが慣れた頃、次の異動先の東京に伴い千葉県に転居したのだった。

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