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【滋賀・近江の先人第212回】浅井長政の姉/京極高吉の妻・京極マリア(長浜市)

 京極 マリア(きょうごく マリア、永禄6年(1563年) - 元和4年(1618年)は、戦国時代の女性。名は不明。浅井久政と井口殿(阿古)の二女として近江国小谷城で生まれる。浅井長政の姉、京極高吉の妻。洗礼名はドンナ・マリア



↑京極マリア像(京都府舞鶴市の智性院)

ヒストリー

 天文11年(1542年)頃、近江国の大名・浅井久政の二女として小谷城で生まれる。
マリアは19歳の時、浅井家の主家の主人である60歳近くの京極高吉と政略結婚した。高吉は二男で米原市柏原の菩提寺、清滝寺の万徳坊で不遇を託っていたが兄の死去により家督を継いだ。
子は永禄6年(1563年)に小谷城で時期は定かでないが竜子(秀吉の側室松の丸殿)、永禄6年(1563年)高次(竜武丸)、元亀3年(1572年)に高知(長寿丸)、他に2人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室・マグダレナ)を設け、上平寺城(米原市)に隠居し、そこで共に暮らしていたと考えられる。

 元亀3年(1572年)に長寿丸(高知)が生まれ、織田信長の朝倉攻めでは高吉は浅井家に背を向け、天正元年(1573年)より前に8歳の竜武丸()は人質として岐阜城に差し出された。浅井家の小谷城は天正元年(1573年)落城した。翌年高吉・が初陣を飾り信長から近江奥島に5000石を得た。

天正9年(1581年)に安土で夫高吉と共にオリガンチノ神父から洗礼を受けた。洗礼名としてドンナ・マリアを授かるがその数ヶ月もしないうちに高吉が死去してしまう。(米原市徳源院に京極高吉の墓がある)

京極高吉の妻マリアは、天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫いたが日本では京極家がキリシタン大名であったという記録はない。しかし、レオンパジェスが記す「日本切支丹宗門史」によると秀吉の側室となった竜子(松の丸殿)を除き、マリアだけでなく、娘マッダレナ、息子の高知、夫高次、高次の妻初殿も洗礼を受けていたとされる。

京極マリアの娘「竜子(松の丸殿)」は若狭の武田元明に嫁いでいたが元明が豊臣秀吉により詰め腹後、秀吉の側室にされてしまった。

マリアは竜子に洗礼を勧めたが拒否した。京極家の再興、秀吉による弟高次の引き立てによる城持ちなど引き立てを考慮してのことであろう。この京極高次の妻「初」は、織田信長に味方し滅ぼされた浅井長政とお市の二女である。なんと運命の悪戯であろうか。

京極マリアは、京や大坂での布教活動を経て、関ヶ原の戦いの後には二男の京極高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下、此御堂(元は尼寺の泉源寺)という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたという。

泉源寺村は丹後の最東端に位置し、若狭との国境に近いことから選んだとされ、長男京極高次が領する若狭の小浜にもたびたび足を運んだともいわれている。

地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)7月1日に死去。法名は、養福院殿法山寿慶大禅定尼と伝わる。

<Wikipedia、「近江戦国の女たち」引用>


コメント一覧

波瀬悠悟
僕の母は浅井家
でした
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