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【滋賀・近江の先人第275回】幕末から明治初期の歌人・渡忠秋(高島市)

 渡 忠秋(わたり ただあき、1811年3月4日(文化8年2月10日) - 1881年(明治14年)6月5日)は、幕末から明治初期の歌人。御歌所御用掛。

ヒストリー
1811年3月4日((旧暦)文化8年2月10日)近江国高島郡舟木(現滋賀県高島市安曇川町南舟木)に生まれ、通称新太郎と言い、楊園・桂蔭と号した。
楊園とは、万葉集のあど川柳の歌(霰降り遠江のあど川柳、刈れどもまたも生ふちう あど川柳)にちなみ名付けたと伝えられる。
 同郷の国学者中江千別(なかえちわき)に学び、25歳のとき 京都に出て、“桂園派”の総帥・香川景樹(桂園)に入門、和歌の本格的な研鑚をおこなう。

 家を弟に譲り京都に住み、時の右大臣三条実万に仕え、香川景樹の没後は桂園派を守った。
 また、1865年(慶応元年)には、近江蒲生郡下麻生村(現・滋賀県東近江市)にある山部神社において渡忠秋の勧めで当時の領主であった関盛章が赤人廟碑の碑文を刻み、1868年(明治元年)その碑が境内に建立されるなど歌文化の掘り起しにも努めた
1874年(明治7年)東京に移り、宮内省雇歌道御用掛となり、1876年(明治9年)病から辞職し、京都岡崎に住む。
晩年、祇王寺の近くに移り1881年(明治14年)6月5日死去した。

<Wikipediaより>
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