初代 伊藤 忠兵衛 (しょだい いとう ちゅうべえ)、天保13年(1842年) - 1903年(明治36年)は、近江商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。
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数々の近江商人が生まれ、現在も企業として存在感がある近江商人企業は数多くある。その最たる企業は伊藤忠兵衛の伊藤忠グループ、堤康次郎の西武セゾングループ、丸紅、日本生命、高島屋、武田製薬、東洋紡、ワコール、ふとんの西川などなど。。。また、各企業で優秀な経営者(古川鉄治郎、田附政次郎、豊田利三郎、越後正一など)多数輩出している。
近江商人として成功して大富豪になった商人は多い。近江商人の経営スタイルは個人商店経営方式で、店主=個人経営者で、資本と経営が店主に集中していた。だから引き継ぐ店主が有能でないと待たなくなる。初代や二代目が苦労して成功した豪商もその後の代が才に恵まれなかったり、放蕩者が出て財産を食いつぶしたりしてうまく商売を引継ぎできなかったケースも多数出現している。更に明治維新と第二次大戦の社会の大変革時期をうまく乗り越えらず消えて行った近江商人の店は数多い。
その点、近江商人の中で近代的な企業のスタイルを持った「伊藤忠・丸紅」は、創業家外に優秀な番頭・人材が育ちその後の発展に大なる貢献をしている。一方の「西武」は同じ近江出身であるが、創業者堤康次郎の独裁的な経営で一大西武王国を築いたが引き継いだ子供の代(堤義明、堤清)で破綻を招いたことがある。しかし、西武は一時程の勢いはないがその後も鉄道、ホテル、流通などで継続している。
伊藤忠・丸紅では新卒入社社員が創業者のルーツである滋賀県豊郷町の伊藤忠本家であった「伊藤忠兵衛記念館」に毎年春詣でているいう。
また、伊藤忠財団、古川鉄治郎、田附政次郎等の財団では今尚、寄付や各種事業など郷土貢献活動をを続けている。
ウォーキング三昧ブログで紹介した「伊藤忠兵衛記念館」(滋賀県豊郷町)
https://blog.goo.ne.jp/ntt00012/e/12af8913c19000f5a7b571fb9dd625ec
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天保13年(1842年)、初代忠兵衛は、五代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。
生家は紅長(べんちょう)の屋号で耳付物という繊維品の小売をし、また1、2町の田地を自作する地主でもあった。
伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江国犬上郡甲良郷八目村(現滋賀県犬上郡豊郷町八目)で、安政5年(1858年)5月に近江麻布類の持下り商を開業し、堺や紀州に行商したのに始まる。伊藤忠も丸紅も、この年を創業年としている。
兄の長兵衛は国元で仕入れに当たり、後に博多新川端で伊藤長兵衛商店を開業した。
弟の忠兵衛は、明治5年(1872年)1月に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。
この2つが合併・分割を繰り返して現在の伊藤忠・丸紅につながっている。
紅忠は開店と同時に店法を定め、利益三分主義をとった。
これは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 5:3:2 の配分率にして「三つ割銀」といった。店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。
また、忠兵衛は真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、「商売は菩薩の業」と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた。
明治18年(1885年)には、甥の外海鉄治郎と組合組織で伊藤外海組を設立し、神戸に事務所をおいて直貿易を始めた。
明治26年(1893年)には安土町二丁目で綿糸卸商の伊藤糸店ができて綿糸も取り扱う。
明治29年には日東合資会社をつくり、中国綿の輸入と日本綿糸の輸出にあたる。
晩年には郷土の豊郷村の村長も務めた。
明治27年(1894年)に兄の長兵衛が死去(61歳)。
明治36年(1903年)7月8日に忠兵衛は須磨の別邸で死去(60歳)。
家督は17歳の次男の精一が相続、二代目伊藤忠兵衛を襲名した。
忠兵衛の妻は「八重」で忠兵衛を支え、多数の丁稚を育成した。
伊藤忠からは優秀な人材が多数育っている。
古川鉄治郎:丸紅専務
田附政次郎:東洋紡、江商
阿部房次郎:東洋紡
石田源三郎:トヨタ自動車
<Wikipedia引用>