1570年(元亀元年)4月、長浜市の小谷城を拠点とする戦国武将、浅井長政は、越前(福井県)の朝倉氏を攻める織田信長を背後から急襲した。妻お市の兄である信長に、長政はなぜ歯向かったのか−。
従来の説に物足りなさを感じていた長浜市小谷丁野町の郷土史家・香水(かすい)敏夫さんは、当時の書状やその背景を分析し、文字に残らない口頭のやりとりも推察、著書にまとめた。
浅井長政の反抗の理由としては、信長に攻められる不安や信長に面従腹背していた将軍足利義昭の策略などが論じられてきた。しかし、香水さんは「根拠が十分でない」と感じ、新たな根拠を捜していたという。
従来の説に物足りなさを感じていた長浜市小谷丁野町の郷土史家・香水(かすい)敏夫さんは、当時の書状やその背景を分析し、文字に残らない口頭のやりとりも推察、著書にまとめた。
浅井長政の反抗の理由としては、信長に攻められる不安や信長に面従腹背していた将軍足利義昭の策略などが論じられてきた。しかし、香水さんは「根拠が十分でない」と感じ、新たな根拠を捜していたという。
注目したのは、長政が足利義昭の家臣に送った1569年(永禄12年)とみられる10月13日付の書状。
「御内書(ごないしょ)謹みて拝見致し候、御鷹頂戴(ちょうだい)、満足仕(つかまつ)り候、併(あわ)せて面目の至り、勝計(しょうけい)すべからず候、委曲(いきょく)法光坊え申し入るゝ趣、御執り成しに預かるべく候」(一部省略)と記している。
「書状を読み、タカをもらい感謝している、あわせて名誉の至り、ご恩は数えきれない、詳しくは法光坊に託した事柄を取り次いで欲しい」との意味。
「書状を読み、タカをもらい感謝している、あわせて名誉の至り、ご恩は数えきれない、詳しくは法光坊に託した事柄を取り次いで欲しい」との意味。
足利義昭から書状とともに伝言を受け取り、返答を使者に言付けたことが伺える。信長とは関連付けられてこなかった書状だが、香水さんは、この言付けが信長討伐の決意表明だったとみる。
義昭はこの2日前、信長から南伊勢(三重県)での戦勝報告を受けていた。その際、子を敵方の養子にする信長の手法や信長の勝利後に義昭が和睦を促す書状を無断で送っていたことなどを巡り、二人が対立していたという。
では、なぜ浅井長政は義昭に従ったのか。
香水さんは「面目の至り、勝計(しょうけい)すべからず候」などに見られる義昭への恩義を重視する。
1568年7月、信長を頼った足利義昭は越前から信長が治める美濃(岐阜県)に移る途中、長政の館に4日間滞在していた。香水さんは「この訪問が義昭に従う大きな要因になった」とする。
当時、将軍を迎えることは最高の名誉で、大名たちは絢爛(けんらん)豪華な門を造成するなど丁重にもてなしたとされる。しかも、当時の長政は無位無官の地方大名。義昭の来訪は希代の栄誉だったと考えられる。
この時、義昭は浅井長政にも将軍就任に向けて力を貸すよう促したはず。長政は忠節を重んじる律義な人柄だったとされ、香水さんは「次期将軍からの直々の頼み。大変な恩義に感じたはず」と指摘する。
1568年7月、信長を頼った足利義昭は越前から信長が治める美濃(岐阜県)に移る途中、長政の館に4日間滞在していた。香水さんは「この訪問が義昭に従う大きな要因になった」とする。
当時、将軍を迎えることは最高の名誉で、大名たちは絢爛(けんらん)豪華な門を造成するなど丁重にもてなしたとされる。しかも、当時の長政は無位無官の地方大名。義昭の来訪は希代の栄誉だったと考えられる。
この時、義昭は浅井長政にも将軍就任に向けて力を貸すよう促したはず。長政は忠節を重んじる律義な人柄だったとされ、香水さんは「次期将軍からの直々の頼み。大変な恩義に感じたはず」と指摘する。
また、将軍が目下の者に秘密を明かすのはまれで、義昭の伝言は長政にとって大変な誉れだったと考えられる。
香水さんは、将来信長に討たれる懸念に加え、こうした義昭との関係が長政に信長打倒を覚悟させたと結論づけている。
著書は「小谷城主 浅井長政の謎 なぜ、信長に刃向(はむ)かったのか」。税別1200円。
小谷城歴史戦国資料館や長浜城歴史博物館などで購入できる。
問い合わせ: ユニオンプレス=06(6763)5431
香水さんは、将来信長に討たれる懸念に加え、こうした義昭との関係が長政に信長打倒を覚悟させたと結論づけている。
著書は「小谷城主 浅井長政の謎 なぜ、信長に刃向(はむ)かったのか」。税別1200円。
小谷城歴史戦国資料館や長浜城歴史博物館などで購入できる。
問い合わせ: ユニオンプレス=06(6763)5431
<中日新聞より>
「小谷城主 浅井長政の謎 なぜ、信長に刃向(はむ)かったのか」
概要:永禄11年7月、足利義昭は織田信長から「ご入洛の御共早速申すべく候」との申し出に応じて一乗谷を発し岐阜へ向かった。その途次、小谷城下浅井館に4日間逗留し、浅井長政と信頼関係の紐帯を結んだ。同年9月7日、信長は上洛に向け大軍を催し、徳川家康の援軍をも従えて岐阜を発ち長政もこれに加わった。江南を平定し9月26日、義昭を奉じて入洛を果たし、10月18日、義昭を征夷大将軍に就かせた。翌12年8月、信長は南伊勢北畠氏の大河内城を攻め、10月4日に開城させた。翌日、義昭は北畠中納言あて和睦勧奨の御内書を下す。11日、信長は義昭に戦勝を報告する。だが、義昭は信長の北畠家乗っ取りを、信長は北畠中納言にあてた御内書を、互いに非難し「セリアヰ」となった。腹に据えかねた義昭は長政に一書を下す。使者には「セリアヰ」模様と信長の朝倉攻め秘事を、さらに「北近江も油断無きように」と示唆させる。長政はこの示唆を「信長を討て」との主命であると解する。次いで信長の性格・事跡が、さらに義昭と結んだ信頼関係の紐帯から忠恕と律儀の心が覚醒する。「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く」と眦を決し、13日、義昭へ奉答書をしたためた。翌元亀元年4月、長政は越前朝倉氏攻めに向かう信長の背後を突いた。