”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第84回】江差でニシン漁で開花した近江商人・大橋宇兵衛(東近江市)

大橋宇兵衛(東近江市)、近江国神崎郡種村(旧神崎郡能登川町種・現東近江市)出身の近江商人。

 大橋宇兵衛、種島屋は近江国神崎郡種村出身の近江麻布・呉服商で、江差に渡り日本海沿岸の漁民相手に海産物の仲買を営み、ニシン漁の海産問屋、廻船業などを手広く商い、両浜組商人撤退の後、地盤を引継ぎ豪商となった。

その後、北前船にも出資し、瀬戸内海や大阪、敦賀、下関、備前、堺との交易に当たったとある。その他にも、山城、阿波、堺の酒、近江、加賀の薬、たばこまで扱っていた。

初代大橋宇兵衛(?ー天保2年・1831年没)

注:初代の生年が不明で、宝暦年間(1751-1764年)に江差に出店とあるが、1760年頃と仮定した場合でも、没年から逆算して70年前となることから疑わしい。

没年が判る過去帳が正とすれば、初代は寛政年間(1789年-1800年)~文化文政年間(1804~)に掛けて出現し活躍を始めたとするのが妥当であろう。そう考えれば、没の30年前位前となり、30歳位で出店したと仮定した場合、1831年に60歳前後の年齢で没したことになることから当時の寿命からして妥当と言えよう。即ち、宝暦年間(1751-1764年)に江差に出店説は現実的ではなく、初代宇兵衛は1-2代世代に相当する少し遅れた年代の寛政年間(1789年-1800年)~文化文政年間(1804~)に江差に出現したするのが妥当である。

二代目宇兵衛善休(?-元治2年・1865年没)、麻布問屋

 麻布や木綿などの他国商いを行う近江商人であった。当時、同業者がまだ入っていなかった飛騨高山まで、美濃尾張から木綿を行商し一家を成した。

三代目宇兵衛善隆(弘化元年・1844年-明治28年・1895年没(明治24年・1891年説も有り)善隆は大橋宇兵衛善休の二男として生まれた。
善隆は、京坂、尾張、美濃、飛騨の諸国を行き来したが明治になり、鉄道の発達にて持ち下がりの行商の限界を察し、明治18年(1885年)、京都店を設け卸売り商を商った。

四代宇兵衛義清(?-明治29年・1896年没)

義清は酒が好きだったが32歳頃病気になり医師から禁酒を命じられ断酒する。これを機にこれまで毎日の酒代を積立し、7年目にその積立金で山林を購入し村の凶作時には立木を売って難渋者を助けるようにと人知れず村に寄付した。その後も積立、村の寺院や神社へ田畑などを寄付した。善隆の死後、村民に彼の行為は知られるようになり、彼の行為を感謝しその徳を後世に伝えるため、五個荘日吉神社内に記念碑を建立している。

五代目宇兵衛(明治15年ー昭和29年(1882ー1954年)没)72歳没、海陸物産雑貨業

*この代で事実上、事業廃業

六代目宇三郎(明治41年-平成3年没)

七代目洋(昭和23年-)

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 初代大橋宇兵衛が江差に出店したのは宝暦年間(1751-1764年)とある。蝦夷福山(松前)・江差に、旧能登川在今村の田口伊兵衛、種村の大橋宇兵衛、大橋宇左衛門などが出店を構えた大手商人として活躍していた。

大橋宇兵衛は江差銀行(明治27年創設)、江差貯蓄銀行(明治31年創設)にも関与し、同族会社の大橋合名会社、江差米穀取引所(明治28年開業-明治35年閉店)の大口投資家であった。その他に明治19年に江差製糸工場を田口伊兵衛、松沢伊八、大橋宇左衛門らで創設している。

大橋家は幕末期から明治30年代にかけて最盛期を迎え、明治31年から3代目から4代目の時代である。因みに、近江の両浜組商人は半世紀以上前から蝦夷地で活躍していた。

三代目と四代目が明治28-29年に相次いで亡くなり、五代目宇兵衛は明治29年(1896年)、14歳で家督を引き継いだが20歳になる明治35年(1902年)まで後見人がいた。この時期に、大橋合名会社、江差貯蓄銀行を明治31年に設立した。

全盛期を築いた4代目が急死したとき5代目はまだ14歳の青年だったことから、大橋家の財力を掛けて信用力確保のため、設立されたのだった。しかし、結果的にこの合名会社が無限責任を負うことになりその後の没落の道に繋がるのである。

資本主義勃興の明治20-30年代、大橋宇兵衛家は近江能登川の本家で出資のみ行い、直接の経営は同族の大橋松次郎、五個荘和田出身の中村米吉を支配人(番頭)として、代表社員や支配人にして経営を委託していたもの推測されている。現に大正年間まで能登川種村の屋敷に番頭(武田定五郎)が現在の専務役として、現地の代表社員や支配人との連絡、指揮に当たらせていたようだ。宇兵衛家と松次郎家は親類という以外今では判らない。

6代目宇兵衛が生まれた明治41年当時、ニシン漁、北前船の全盛期であった。江差の出店や大橋合名会社委託部は番頭・支配人に任され、ニシン漁も、明治41年は11年ぶりに大漁で、明治45年も明治41年以来の豊漁であったようだ。

しかし、大正2年(1913年)の豊漁を最後に江差のニシンの回遊が見られなくなり、大正4年(1915年)33歳の5代目宇兵衛は江差から近江に引き揚げた

この時、江差の大橋家の出店松前屋(種島屋)は同郷出身で当時の番頭(支配人)中村米吉(五個荘和田出身)に敷地、建物を譲渡している。当時の出店は母屋、文庫倉の他、8番蔵まであったという。5代目宇兵衛が引き揚げて以降、江差では鰊(ニシン)は全く獲れなくなったとある。明治30年時点で中村米吉は「淡海屋」の屋号で江差にて海産物業として事業を行っている。中村家は昭和49年に元大橋家から引き受けた屋敷を江差町に寄付し現在も「重要文化財旧中村家」として残っている。

5代目宇兵衛が江差を引き揚げた大正4年(1915年)時点ではまだ財力があったらしいが、新たな商売が思いつかず、大正9年頃の記録によると、この数年で株で大損し、財をなくして行ったようである。相場ではことごとく失敗し、無限責任の合名会社への資金提供者に私財を叩いて補償し、家・屋敷まで人出に渡った。

つまり、大橋宇兵衛家の事業は江差から近江に引き揚げ後の大正7年(1918年)頃~大正9年(1920年)に5代目の時、事実上没落したようだ。初代宇兵衛の起業から数えて120年5代で消えたことになる。

5代目宇兵衛は昭和29年、彦根市中藪上片原町の借家で72歳で亡くなっている。

 尚、近江国神崎郡下日吉村(旧神崎郡五個荘町下日吉・現東近江市)出身の同姓同名の大橋宇兵衛(弘化元年-明治24年)(1844-1891年)麻布商とは違う人物である。

<以上、「淡海の夢」ー近江商人・大橋宇兵衛家の記録-引用>

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