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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第14回) まだ暗黒大陸と呼ばれていたアフリカが赴任先

 1977年、私の海外ボランティアの赴任先はアフリカのザンビア共和国だった。

 同期6人は日本からインドのカルカッタ経由、ケニアのナイロビを経て、ザンビアの首都ルサカに入った。赴任期間中のパスポートは、日本からの経由国とザンビア周辺合計8カ国限定の「公用パスポート」が発行されていた。公用パスポートは「外交官パスポート」には遠く及ばないが入管時に扱いがが良くなる場合がある。
 しかし、任期中は任地国以外は公用パスポートでは自由に渡航できない。
従って、帰国時それ以外の国々に渡航するには一般パスポートに切り替えることになる。


 ザンビア共和国はアフリカ内陸国で赤道より8度位に位置し、8カ国に隣接している。元はイギリスの植民地で最初の東京オリンピックがあった1964年に独立している。独立の父、ケネス・カウンダが大統領だった。政権は事実上、UNDPの1党独裁政権で社会民主党的な政治体制であった。
 独立後、ザンビアナイゼーションが進み、私が赴任した1977年時点で独立して13年が経ち、政財界はザンビア人が握っていた。しかし、100年以上イギリスに植民化されていたこともあり、そうたやすくザンビア人だけ国の運営が出来る訳もなく色んな矛盾も表出していた。
 また、南に接するローデシア(現ジンバウベ)の独立闘争があり、ザンビアがサポートするゲリラグループリーダーがザンビア国内にいたこともあってザンビアも闘争に巻き込まれ治安や経済に不安定なところもあった。

 ザンビアは60以上の部族国家で言語はそれぞれ部族によって異なる。しかし、主要3部族の言葉が多く語られたが国語がないので、共通語は英国の植民地だったので英語が共通語であった。また、部族語は口語で文字がない。よってアルファベット表記が必要となる。ザンビア人は高等教育を受けていない人でも上手に英語を話す人が多い。

 1970年代のこの時点でも日本ではアフリカは野生動物とターザン、熱帯病が恐ろしい暗黒大陸くらいしか思われていなかった。私の家族も当初、私のアフリカ行きを反対した。
 私自身も任地がアフリカに決まるまで特にアフリカに興味を持っていた訳ではなかった。
私は昔から中近東に行きたかった。当初、シリアが候補に挙がったが最終的にシリアから派遣要請は取り消され、次善の候補であるアフリカのザンビアに決まった。そんな訳で初めからアフリカ通ではなかったのだ。

 大方の日本人の常識である「ターザンと暗黒大陸」の実情を逆に期待していたが当時でも実際は、ターザンと暗黒大陸ではなく、首都はそれなりの都市であり覚悟して行っただけに逆にがっかりしたくらいだった。
 但し、誤解を与えてはいけないが貧しく、開発途上国そのものだった。
マラリア、眠り病などの熱帯病はあり、私もマラリアを発病したことある。
マラリアは予防薬を定期的に服用すれば防げる。現地生活に慣れ服用を怠り赤家蚊に刺されたからである。東大の熱帯医学研究所が開発したMP錠を日本から持参していたのだが。。。

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