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近江八幡花街 「艶やかさを求めて八幡の花街」の本発刊

 江戸末期から明治、大正、昭和30年代前期まで近江八幡市の旧市街地で隆盛を極めた「八幡花街」を焼け跡からの資料をもとに栄えた花街の史実を収録した。詳細に記載した記録本「艶やかさを求めて八幡の花街」がこのほど、発刊された。

 著者は、近江八幡市北元町の山本晃さん=NPO法人「まぶね ふれあい工房」理事。山本晃さんは、かつて花街があった池田町二丁目の公務員家庭に生まれ育ち、昭和58年(1983年)、都市計画道路の拡張工事で現在の北元町に移り住んだが、平成6年3月2日、引っ越した古民家が火災に見舞われた。家屋は全焼し、着の身着のまま焼け出された。現場には近所の人らによって火災の中から持ち出された少しの家財だけが残った。それは、移転の際、池田町二丁目の生家から運び込んだ先祖代々からの預かりものだった。
 火災の整理をする中でその家財から江戸時代から昭和30年代初期ごろまでの「八幡花街」に関する沢山の書画、料理茶屋の記録、調度品が見つかったが、その存在だけに思いとどめ、手をつけることはなかったという。

 火災から11年後の平成17年、池田町内の文化祭で花街の写真が展示されたことをきっかけに町の歴史に興味を深め、焼け残った家財を調べたところ、これまで一般に知られていない「八幡花街」の成り立ちや歴史、発展の過程が詳細に分かる貴重な資料であることが分かった。

 ↑写真:大正初期(滋賀報知新聞より)

 花街当時の山本さん方は米屋であるが、地域の世話役でもあったことから花街にも深く関わることが多かった。焼け残った家財は、代替わりした料理茶屋から芸妓や舞妓の写真、琴や三味線などの芸道具、身の回り品、料理茶屋のようすなどを記録した資料を預かり、後に先祖が譲り受けたものであることがわかった。
 山本さんは、資料をたよりに料理茶屋の子孫や昔を知る長老からの聞き取りや、廃業を控えた写真館から昔の記録写真を譲り受けるなど、八幡花街の全貌の解明に力を注いだ。

 10年余りの取材、調査の結果、
・「八幡花街」は京都から舞妓や芸妓を雇い入れて、八幡に住まわせ、花街に通う豪商(八幡商人)や政治経済の権力者を芸事で楽しませていたこと、
・京都先斗町と肩を並べる全国的にも知られた格式の高い花街であったこと、
・幕末から明治初期にかけて明治維新活動の隠れ家として使われ、勤皇の志士たちが集まっていた、
ことが分かる料理茶屋「大高」の資料も見つかった。

 八幡町史によると「八幡花街」は、八幡の開町当時から存在したとされ、江戸時代には「料理茶屋」が置かれ、京都祇園出身の一流芸妓が集められたとあり、流行したお伊勢参りの休憩地としても人を集めて繁栄したと考えられる。
 また「天保11年3月25日、宮(日牟禮八幡宮)の馬場拡張祝賀の練物(絢爛豪華な仮装行列)が5軒の「料理茶屋」の女達によって行われた」とあり、花街文化と人々の生活の深いつながりが伺える。

 「料理茶屋」は、明治維新のころには池田町元、池田町二丁目、元玉置町に7軒あり、およそ100人の芸妓を抱えていたと言われている。最盛期が過ぎると時代とともに花街の姿は段々薄れ、昭和30年代初期には残っていた2軒が廃業し、花街の灯りは消えた

 山本さんは「花街は色街の部分もあったが、料理茶屋に落ちた大金は、八幡小学校建設の浄財として寄付され、花街に関わる職を得ることで、人々の生活を支えるなど、地元への貢献も大きかった。八幡に当時の富裕層が集うことで花街が栄えて地域が潤い、お茶会、和歌などの和の文化も広がった。夜の街角に三味線と小唄、太鼓の鳴音が快く聞こえる風情があった八幡花街の史実を若い世代の人たちにも知ってもらえればうれしい」と話している。

 本はアマゾンの本販売サイトで書名「艶やかさを求めて八幡の花街」を検索するか、書店での申込み(発行所・デザインエッグ株式会社)で購入できる。1冊3800円(税込4180円)

<滋賀報知新聞より>
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