西澤真蔵(にしざわしんぞう、天保15年(1844年) -明治30年(1897年)は実業家。近江国愛智郡八木荘村野野目(現滋賀県愛荘町出身)
滋賀県愛知郡愛荘町に天保15年(1844年)に生まれた「西澤眞蔵」は、麻布や綿布を大阪や九州地方へ持ち下りの行商から財を成し、やがて大阪に店舗を構え、長崎にも支店を開設して豪商となった。
更に銀行の取締役をつとめ、製紙業、石油販売業、貿易商社等を経営し巨万の富を築いた。
後年は愛知県三河地方の「枝下用水」(しだれようすい)の開削事業に全財産を投じ、遂に明治27年(1894年)に通水し、死去後の1911年(明治44年) - 竣工させ後の世に美田を残した。
「枝下用水」の誕生は、「西澤真蔵」という近江商人(企業家)が「私財をなげうって」出来た私的な事業である。
ヒストリー
1844年(弘化元年) - 近江国愛智郡八木荘村野野目(現在の滋賀県愛知郡愛荘町野々目)に生まれた。
1882年(明治15年) - 愛知県が枝下用水開削工事を始める。
1895年(明治17年) - 西加茂郡西枝下村の矢作川を水源として一部が開鑿された。
1887年(明治20年) - 再度愛知県が出資者を募り事業を再開。主な出資者として「西沢真蔵」が加わる。大阪の工場や商店などを弟の西沢伊三郎に任せ、単身愛知県に向かう。名古屋に三河疏水事務所を開設し、西澤は理事長となる。
1889年(明治22年) - 難工事のため、資金を出していた4人の事業家が手を引く。次いで愛知県も事業から撤退する。「西沢真蔵」は私財を投げ打って工事を続ける。
1890年(明治23年) - 幹線用水と東用水が通水する。
1891年(明治23年) - 中用水が通水する。
1895年(明治27年) - 西用水が通水する。
1897年(明治30年) - 3月1日、工事の完成をみることなく、逝去。
1911年(明治44年) - 竣工。
死後、枝下川神社(愛知県豊田市平戸橋町波岩86-8)に祀られる。また、1956年(昭和31年)には、明治13年(1880年)の明治用水竣工の際に建てられた明治川神社(愛知県安城市)に、「西澤真蔵」が合祀された。
地域社会での伝承
愛知県豊田市の学校教育では「西澤真蔵」が枝下用水の開削者・功労者として登場する。学芸会の劇で演じられることもある。
枝下用水の神社である枝下川神社に水神として祀られている。枝下用水の受益地域では毎年西澤講が開かれ、それぞれの地域において祭祀の対象とされている。長興寺の境内に石碑がある。
水神になった商人 西澤真蔵と枝下用水