「三条殿」、生没年不詳。近江守護の佐々木・六角氏、織田氏の家臣で鎌倉時代から続く名門蒲生賢秀(がもう かたひで)、近江国日野城主の娘。豊臣秀吉の側室。名前は「虎(とら)」。蒲生氏郷は兄。
秀吉から「三条殿」を舟遊びに誘った手紙が現存するが、しかし、「とら」がなぜ秀吉の側室になったかはよく分からない。信長亡き後、秀吉の家臣となった蒲生賢秀・氏郷親子であるが秀吉との関係を結ぶ意味で賢秀の娘を差し出したのであろう。
賤ヶ岳の戦いののち、日野城を訪れた秀側室となる。この時、氏郷の養女・「三の丸殿」も側室となった。これが秀吉の歓心を買い、氏郷はのちに会津百万石の所領が与えられた。
秀吉は家臣となった「氏郷」の実力を評価しながらも恐れも持ち、東北の要としての役割を与えて会津へ転封したのではないかともいわれている。いずれにしても「三条殿」の側室は戦国武家の政略結婚他ならない。
また、「三条殿」の人となりも不詳である。
虎の乳母は、「孝蔵主」の弟、川副源六の娘徳女だったが、虎が大坂城の奥に秀吉の側室として入ったとき付き添っている。
秀吉は家臣となった「氏郷」の実力を評価しながらも恐れも持ち、東北の要としての役割を与えて会津へ転封したのではないかともいわれている。いずれにしても「三条殿」の側室は戦国武家の政略結婚他ならない。
また、「三条殿」の人となりも不詳である。
虎の乳母は、「孝蔵主」の弟、川副源六の娘徳女だったが、虎が大坂城の奥に秀吉の側室として入ったとき付き添っている。
側室一覧
■南殿 山名善幸の娘? 生年不明~1634年
■淀殿 浅井長政の娘・茶々 1569年?~1615年
■南の局 山名豊邦の娘・あかね 1566年~没年不詳
■松の丸殿 京極高吉の娘・竜子 生年不明~1634年
■加賀殿 前田利家の娘・磨阿 1572年~1605年
■甲斐姫 成田氏長の娘 1572年~没年不詳
■三の丸殿 織田信長の娘 1603年~没年不詳
■三条殿 蒲生賢秀の娘・とら 生没年不詳
■姫路殿 織田信包の娘 生年不明~1641年
■広沢局 名護屋径勝の娘 1573年~1636年
■月冠院 足利頼純の娘・嶋子 1568年~1655年
■香の前 高田次郎右衛門・種 1577年~1641年
■円融院 三浦能登守の娘・おふく? 1549年~没年不詳