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【日本の商人シリーズ】 第2回「日本三大商人・大阪商人(浪速商人)とは」

大阪商人【浪速商人(なにわあきんど)】

 近世に全国経済の中心として栄えた大阪の商人を指す。大阪は、石山本願寺の寺内町として発展し、1583年には羽柴秀吉の城下町として建設された。安土、平野、堺などの畿内近国の商工業者が移住し、物資の集積地として商人の活躍の場となった。  大阪商人が活躍した船場は、大阪市中央区西側にある商業地区で、北は土佐堀川、南は長堀、東西は東横堀、西横堀と今は埋め立てられた川に囲まれた一帯である。

主な大坂商人

淀屋 - 材木商だった初代・常安が中之島を開く。2代目・三郎右衛門は米市を開いて諸藩の蔵米の販売を一手に引き受け、また、両替屋や廻船問屋なども手掛けた。5代目・三郎右衛門の時に闕所・所払とされた。

安井九兵衛(道卜) - 成安道頓らと共に道頓堀川を開削する。道頓堀沿いに芝居小屋を設置し、道頓堀が大坂ミナミの中心となるきっかけを作った。

鴻池家 - 酒造業に始まり、海運業や両替業に進出した。

天王寺屋五兵衛 - 両替商。

住友家 - 製銅業や銅山経営を行う。

三井家 - 伊勢国松坂発祥(伊勢商人)。呉服業や両替為替業を行い、京都・江戸・大坂に店を持った。

下村彦右衛門 - 呉服店の大丸を創業。

 

 「大阪商人」は、商売の道徳を重視し、顧客第一主義でサービスに徹するという気概を持っていた。また、合理的な考え方を磨いており、論理的に辻褄が合っているか、しかるべき手順やルールを順守しているかを大切にしていた。

スジを通す」という表現は関西ならではだと思うが、ここでのスジとは論理的に辻褄がちゃんが合っているか、しかるべき手順やルールを順守しているか、という観点もあり、商人たちが相互に公正な商売をする上で大切にした点だと思われる。

 大阪の幹線道路では、南北に沿う道路は、「筋」と言われる。よって、「スジを通す」とは、上から下、もしくは下から上等、誰もが納得できる手順やルール、規範があったことが想像できる。一定のルールの中で、かつ多くの選択肢や機会がある中で、商人としての才覚や土壌が養われるには十分すぎるほどの環境だったと思われる。

 大阪商人の精神性を示す言葉として「商人には無用の贅物(ぜいぶつ)六つあり。いわく禄、閥、引、学、太刀、身分。これなり」があるす。これは、商人の町・浪速の自由な気風、そしてそこに息づいている実力主義を表した言葉である。


 「転んでもタダでは起きない」ともいわれる「大阪商人」、厳密には「浪速(難波)商人」とも言われるが、戦国時代では堺の商人らによって、自治意識高く地域をまとめていた。

 江戸時代に入った天保年間には125もの大名の蔵屋敷が大坂に集結していたようだ。大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは、重たいものでも効率よく運搬できる水運を活用する掘割が多いためである。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な物資が集まってきた。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置いた。

 各藩の基本的な収入の一つは石高であり、つまりは米である。米を売買するにあたっては、大阪が都合が良かったのだろう。両替商、米商などからも豪商と呼ばれるものもあり、貨幣に変えたものからまた何かを売買するにあたっても、物資の集積地である大阪はまさに商人の活躍のしどころだった。

 また、全国からの物資が集結するところには、当然同じ製品であっても産地が異なる物もあるため、より良いものを選んで売買する上でも、いわゆる「目利き」が必要となる。加えて、商売として、「良いものを安く」購入するための交渉、見栄や建前などに意思決定が判断されぬよう、より合理的な考え方が磨かれていったことは間違いないかと思われる。

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