”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第323回】JRAスーパー騎手・武豊(栗東市)

 武 豊 (たけ ゆたか、1969年(昭和44年)3月15日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の騎手。
 


JRA全国リーディングジョッキーを18回獲得(歴代最多)。騎手大賞を9回獲得(歴代最多)。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)。
その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録、および歴代最多騎乗数記録など数々のJRA記録を保持し、「日本競馬界のレジェンド」と称されている。

来歴
 祖先は薩摩国出身の武家 (家族)であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる。祖父芳彦は馬主協会元会長。   
 父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である。妻は元タレントの佐野量子。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる。

少年時代
 1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた。
 翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという。
 1975年、栗東市立金勝小学校に入学。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた。
 小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」。
 1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業。そして栗東町栗東中学校に入学し、中学生になっても変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた。
 1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学。同期には蛯名正義、塩村克己、芹沢純一などがいる。当時教官だった荻野忠二、真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという。またアメリカの競馬雑誌、ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンやゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度も繰り返し再生したりと、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した。

騎手時代
新人最多勝記録を更新する
 1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した。10月11日、京都大賞典でトウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。

競馬ブームの主役へ
 1988年(昭和63年)菊花賞をスーパークリークで制しGI初勝利。19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した。「スーパークリークで菊花賞を勝ってから競馬以外のメディアの取材が多くなった」と武自身が後に語ったように、この勝利により、競馬以外のメディアからの取材依頼が多岐にわたって殺到し始め、「天才」として脚光を浴びるようになった。武はこの年113勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングを獲得。武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、日本中央競馬界がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことにより、日本に第二次競馬ブームが巻き起こり、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった。
 1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグラ、イナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得した。
 1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念、有馬記念を制した。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった。

競馬界の主役へ
 武は競馬以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている。武はこうした意識をもって競馬サークルの外へ飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに尽力し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった。
 武は競馬界における自分の立場、自分の為すべき使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという。
 武が競馬界の顔として競馬サークルの外で仕事をこなし続ける一方、本業の記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得。2007年にはJRA通算2944勝に到達。岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し、名実ともに日本競馬界の第一人者となった。(主な達成記録については#記録年表を参照のこと)ダービージョッキーとして
競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台である東京優駿(日本ダービー)。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころから日本ダービーに特別な思いを抱いていた。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、コスモアンバーに騎乗し16着。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった。以後、1989年にタニノジュリアス(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年にシンホリスキー(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年にオースミベスト(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)。延べ9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちに競馬サークルではいつしか、「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため、マスコミの取材に対しては、「日本ダービーは特別なレースじゃない」「他のGIと価値は一緒」「いつか獲れると思うから焦っていない」といったように、努めて冷静に受け答えしていた。しかしこれらはマスコミ用に用意した表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている。
「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」
 そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが、実際の勝利時は湧き上がってくる喜びに体が反応し、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り替えしていた。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている。
 翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録をに更新した。なお親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである[39]。

武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。
積み重ねてきた経験と何度も噛みしめた苦い思い、そして、何よりも、自分の手で掴み取ろうとする強固な意志があってはじめて、辿り着ける最高の場所です。
— 武豊、勝負師の極意 p.183より引用

海外での騎乗
 武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している。
 武の海外デビューは1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場でグランマジーに騎乗し勝利。海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた[17]。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカ、フランス、オーストラリア、ドイツ、イギリス、UAE、香港、韓国、サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている[41][42]。
 1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3、セネカハンデキャップでエルセニョールの手綱を取ることになり、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞に騎乗することが決定した。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた。武自身サラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く、さらにオーナートレーナーのウィリアムズ・ライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった。そんな中迎えた本番では、ライト師が「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという。
  1992年9月、セクレタリアトステークスでワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす。
 1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗[47]。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した[1]。
2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている。
 2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンドから「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した[53]。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞にインペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている。
2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した。
 武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」。

2010年の落馬事故と成績低迷
 2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯でザタイキに騎乗。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した。この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折、腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった。自立歩行は可能であったが、左肩は全く動かすことができず、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りなければならない状態であり、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった。武は馬に乗れないと何もすることがなく、「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという。5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念し、リハビリに専念することを発表した。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、7月に入ると左肩の可動域が広がり、着実に回復に向かっていった。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き、2010年は年間69勝。2011年はデビュー以来最低の年間64勝。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だと思った」と当時の苦しかった心境を回顧している。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分自身を叱咤激励し続けていたという。

2013年 - 現在
 2013年3月、キズナで毎日杯を勝利。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、見事キズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれ、勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて咄嗟に出た言葉だったという。武は苦境の中で掴んだこの5回目の日本ダービー勝利について、「騎手人生に大きな意味を持つ日本ダービー勝利だった」と語っている。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した。
 2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成。2016年~2017年にはキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導き、大舞台で存在感を示した。2019年には50歳に突入。4年ぶり22回目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部に次ぐ史上3人目の記録となった[73]。最終的に年間111勝を挙げ、直近10年で最高の成績となった。さらに、騎手リーディング3位に入る活躍を見せている。。2020年、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成。

エピソード、逸話
競馬に関して
 20歳の時、自身が初めてアメリカに遠征した時、朝の調教で最初に騎乗したのが、1990年のケンタッキーダービー馬のアンブライドルドだった。
天皇賞は春秋合わせて前人未到の通算14勝を挙げており、春が8勝秋が6勝である。天皇賞(春)では1989年から1992年までの4連覇を達成し『平成の盾男』と呼ばれている。
 デビュー戦で騎乗したアグネスディクターは本来前開催で出走させるローテーションであったが、師であった武田作十郎が武のデビュー戦に合わせ出走させたという。コースを回ってくるだけで勝てる程に馬体は仕上がっていたが、4コーナーで少しインへ切り込んだと同時に後方で南井克巳が落馬し審議ランプが点灯した。武はそれに動揺して馬体をアウトへ膨らませてしまい、追い出すタイミングが微妙に遅れ、勝利を逃した。レース後に南井の落馬は武のコース取りとは関係無いと判明したが、武は一生に一度しか存在しない「初騎乗初勝利」を逃した事が心残りであると悔やみ、もしもやり直しが出来るレースがあればこのデビュー戦が間違いなくやり直したいレースの一つであると語っている。
とあるレースにおいてラチ沿いに蛇がいるのを見つけ、レース後他の騎手へ確認するも誰も蛇に気づかず、レースリプレイで確認したところ本当に蛇がいた。
1998年、サイレンススズカに騎乗して臨んだ第118回天皇賞(秋)で、突如の怪我を負ってしまったサイレンススズカを安楽死で喪った。レース後の落胆ぶりは相当なもので、普段から酒をほとんど飲まないことで知られていた武はこの日、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武本人も後に「泥酔したの、あんときが生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言しているほどだった。
 2011年にJRAでのGI連続勝利記録は途絶えてしまうがスマートファルコンで地方GI制覇は達成していた。しかし2018年、JRAでも地方でもGI勝利を挙げることは叶わず、ついにGI連続勝利記録がストップすることとなった。
2019年の菊花賞をワールドプレミアにて制覇し、昭和・平成・令和の3元号に跨いでGI競走を優勝した史上初の騎手となる。
 2019年ダービー前のインタビューで一番好きな馬はシンボリルドルフで大ファンだったと明かしている。ルドルフの三冠レースは全部生で見ており、引退式も中山競馬場で観戦した。また、岡部が一冠、二冠、三冠と指を立てていくポーズはいつか自分もやりたいと憧れていたという(後年、ディープインパクトで実現)。余談としてルドルフ三冠時の岡部の年齢が36歳で自身のディープでの三冠も36歳であったことも語っている。

その他
 妻の佐野量子との結婚式は1995年(平成7年)6月5日に京都の教会で伊集院静・篠ひろ子夫妻を立会人に行われた。結婚披露宴は1995年11月20日に京都府の都ホテルで行われたが、これは「1000勝祝賀会」も兼ねたものだった[77]。この結婚式のために、SING LIKE TALKINGは「Spirit Of Love」を作曲した。
近所のゴルフコースへ父親のゴルフクラブを用いてラウンドしたことがあり、公にコースへ出て腕前を披露した際、優に100を切るスコアを叩き出し周囲を驚かせた。
競輪選手の村上義弘とは親交が深く、村上が2012年の「KEIRINグランプリ」を制覇した後に「2人でダービーとってお祝いしましょう」とお互いに約束を交わし、武・村上ともに2013年の「ダービー」[注 9]を制覇して約束は現実のものとなった。武自身も競輪に詳しく、毎年のように「KEIRINグランプリ」を競輪場の現地で観戦していると武は語る[81](実際はKEIRINグランプリ中継でのスタジオでのゲスト出演がほとんど)。
 2013年に起きた競輪選手の移籍騒動(SS11騒動)について「同じ公営競技に関わる者として五輪種目でもある競輪は誇り。レースに人間模様がにじみ、大人が真剣に自転車をこぐ姿が好きだ。今回の騒動はいったい誰が得をしたのか。選手にペナルティーを科すのもおかしい」と一競輪ファンとして苦言を呈した。
 阪神タイガースのファンであり、少年時代は野球をやっていた。阪神の選手との親交も深い。2006年には阪神甲子園球場で阪神-巨人戦の始球式を務めた(当時ディープインパクトの主戦騎手だったため金子真人ホールディングスの勝負服で登場、打者は二岡智宏)ほか、試合のテレビ中継のゲストとして出演した経験もある[83]。
MLB・シアトル・マリナーズ会長付き特別補佐兼インストラクターのイチローとは1995年にラジオ番組で知り合ってから、自主トレを共にするなど約20年の付き合いがある[84]。イチロー現役最後の試合となった2019年3月21日のオークランド・アスレチックス戦(東京ドーム)にも現地で観戦していた[85]。他にもニューヨーク・ヤンキースの田中将大とも親交がある。
2005年(平成17年)、「ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー2005」受賞。
2005年(平成17年)、雑誌「Sports Graphic Number」が選ぶ2005年度のMVPを受賞した。
 愛知県知多郡にある武豊町 (たけとよちょう)から、「同姓同名」の縁ということで1989年に一日町長を要請されたことがある。1999年にも武豊町から招かれトークショーが企画された。
2020年(令和2年)、しがスポーツ大使に就任。
ハローキティのファンであり、ヘルメットの後ろに「隠しアイテム」を着けて騎乗することもある。

<Wikipediaより>
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