小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、近江国の長浜に生まれ。 安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した。
豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。
幼名は木下辰之助。通称は金吾。別名は金吾中納言、筑前中納言、岡山中納言。おもな官位は参議・権中納言。豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の兄・木下家定の五男として生まれる。
幼少の頃から義理の叔父である秀吉の養子となり、秀吉の寵愛を受け、周りからも豊臣家の継承権保持者として重視される。(この頃は羽柴秀俊と改名) しかし、豊臣秀頼の誕生により立場は急変。秀吉の命により小早川隆景と養子縁組をさせられ「小早川秀秋」となる。
関ヶ原の戦いでは、西軍として参戦しながら東軍と密約を交わしていた。しかし、松尾山に布陣したままどっちつかずの態度を取っていたため、徳川家康軍に鉄砲を撃ちかけられた。結局、小早川秀秋は東軍に寝返るのだが、これが関ヶ原の戦いの戦局に大きな影響を及ぼした。
ヒストリー
豊臣家の公達(きんだち)
天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助といった。
天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。
天正16年(1588年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている。
天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。天正19年(1591年)、豊臣姓が確認され、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。
諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。
小早川家の養子相続
文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことにより、秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ち掛けられる。これを聞いた隆景は、弟・穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の後継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められる。
文禄3年(1594年)、秀吉の命により秀俊は隆景と養子縁組させられ小早川秀俊となった。また、養子縁組を契機に隆景の官位は中納言にまで上昇し、結果小早川家の家格も上昇することになる。
文禄4年(1595年)、秀俊は秀次事件に連座して丹波亀山城を没収された。しかし、同年のうちに隆景が主な家臣を連れて備後国三原へ隠居した。秀俊はその所領三十万七千石を相続する形で筑前国(名島城)国主となった。小早川氏の家督相続にあたって付家老の山口宗永が隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、検地を実施して領内石高が定められた。なお、筑前東部の5万石については隆景の隠居領であり隆景の家臣が残っていたが、
慶長2年(1597年)6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏が秀俊に仕官した。
慶長の役
慶長2年(1597年)2月21日に秀吉より発せられた軍令により秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。
同年6月12日小早川隆景が没した。この日以降、朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名。
同年12月23日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた蔚山城の戦いに参加したとする史料もあるが、これは寛文12年(1672年)年成立の「朝鮮物語」を典拠としており、「黒田家文書」をはじめこの戦いに関する一次史料群に秀秋の参加を裏付けるものは確認されない。
秀秋は慶長2年(1597年)12月以前より再三秀吉からの帰国要請を受けており、慶長3年(1598年)1月29日ようやく帰国の途についた。
秀秋帰国後も小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢広高の指揮下で釜山の守備に就いたが、広高らも5月中には帰国している。4月20日には山口宗永が約700人規模の4部隊を日野景幸・清水景治・仁保民部少輔(仁保広慰か)・村上景親ら指揮のもと順次交替で西生浦に駐屯させ、指示に従わない者が出た場合は毛利吉成と相談のうえで成敗しても構わないとする命令を出している。
越前転封と筑前復帰
帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下った。これにより筑前国の旧小早川領は太閤蔵入地となり、石田三成と浅野長政が代官になっている。この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる。
この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた宗永もこの時、秀吉直臣の加賀大聖寺城主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の旧小早川家家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた三成の家臣として吸収された。秀秋からの筑前没収は朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられる。
慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した。なお、この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定された博多への「守護不入」復活を約束している。
関ヶ原の戦い
秀秋は当初、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩り等をして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城した。
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。
ただし、藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする。また現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている。
更に近年では一次史料(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状」など)より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反も開戦直後であった(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする見方も浮上している。
こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。
これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、三成は大坂城を目指し伊吹山中へ逃亡した。なお、翌日以降に行われた三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。
この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨、三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として派遣している。
一方で三成、吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留したとする史料もある。ただし、その史料は正徳3年(1713年)成立の「関原軍記大成」に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある。また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、三成は秀秋が松尾山城に陣取ったことで、最後尾の大谷刑部の陣が脅かされて背後に脅威を得、急遽大垣城を出ざるを得なかったとする。事実、大谷勢の陣は松尾山城に向かって構築されていたことが確認されている。
理由はともあれ、合戦中に裏切りを行った秀秋に対する当時の世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにも関わらず裏切りに及んだことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた。
岡山藩主
戦後の論功行賞では備前・美作・備中東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。なお、戦後まもなく秀秋から秀詮へと改名している。秀詮はこの国替えの際に前領地の筑前国より年貢を持ち去っている
岡山城に入った秀詮は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守、林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。慶長6年(1601年)に長年家老を勤めた重臣・稲葉正成が小早川家を出奔しているがこの背景には旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあると考えられる。
早世と死後
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、秀詮は21歳で急死した。 聖護院道澄の残した記録による上方から帰国の途上で行った鷹狩の最中に体調を崩し、その3日後に死去したと記されている。秀詮のこの早世に関しては、秀秋の裏切りによって討ち死した大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されているが、実際に残されている病歴からは酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっている。
秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。これは徳川政権初の無嗣改易であった。秀詮の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、実際には最後まで秀詮に仕えた後に幕府に召し出され、大名となって立藩した平岡頼勝がいる他、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいた。
人物
秀秋死後、彼と親交の深かった近衛信尹が記した追悼文によると、少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませるようになったという。このため、秀秋は肝硬変を患っていたとの説もある。また常楽会の場において乱暴を企てるなど素行に問題があったようである。
秀秋はその高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており、生活は奢侈なものであったようである。
正室である長寿院は毛利輝元の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、興正寺18世・准尊に再嫁している。
明治になり毛利家の願い出により、小早川本家再興の勅命が下った。そして、毛利本家からの養子により、小早川本家は再興した。このことは、秀秋へ家督を譲渡した小早川家を「再興」という名目で、多数の分家が存在しているのにもかかわらず、通常の親等順による継承権を無視していることから、明治維新の政変に対応した中世の姻族毛利家による政治工作だと認識される。
東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。鮮やかな猩々緋地の羅紗の陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている。
<Wikipediaより引用>