伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を「扇屋」といい、商号として「地紙一(じがみいち)」を使用している。
伴庄右衛門は商家として畳表、蚊帳、扇子、麻織物を中心に商売を行い、大阪や京都にも出店していた。やがて寛永年間に江戸の日本橋にも大店を構え、為替業務や大名貸しもするようになっていた。
5代目の伴資芳(すけよし)(蒿蹊)は18歳で家督を継ぎ、質素・倹約・勤勉を旨として商売をしていたが、大坂淡路2丁目に出店。
文化芸術にも深い造詣を持ち、若くして隠居し、伴蒿蹊(こうけい)と称して江戸中期を代表する歌人、国学者として道を究めた。当時のベストセラーとなった「近世畸人伝」の著者としてその名を馳せた。本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもあった。
以後も、伴家は繁栄を誇ったが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年(1887年)に終焉した。
今も残る「旧伴家住宅」は7代目の能尹(よしただ)が、江戸時代後期、文政10年(1827年)より天保11年(1840年)に十数年をかけて伴庄右衛門家本家として、建築したと言われている。当時としては珍しい、3階建ての極めて規模の大きい建物で地震に堪えうる堅固な建物を目指して建てたという記録が残っている。
明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷した。
隆盛を誇った伴庄右衛門家だったが、江戸時代の末期から急速に家運が衰えた。
戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、その後の整備事業を経て公開されている。
分家の「伴伝兵衛家」は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。 伴伝兵衛家はその後も東京で商売を続けていると言われるが詳しいことは分からない。
【滋賀・近江の先人第9回】碁の名人で売り出す近江の豪商・伴傳兵衛(近江八幡市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/89bccb88d48f57fe6be7bd71d88a67b9
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旧伴家住宅(八幡教育会館)
近江八幡市新町3丁目15番地
0748-32-1877