山下 元利(やました がんり、1921年(大正10年)2月22日 - 1994年(平成5年)3月14日)は、滋賀県出身の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。息子に元参議院議員の山下英利。
京都市下京区に生まれる(滋賀県高島郡(現高島市)出身との説もある)。少年期に両親を失う。
京都一中を中退、弟妹を養いながら苦学の末、1936年(昭和11年)10月に史上最年少の15歳で専検に合格、1938年(昭和13年)に旧制第一高等学校に入学した。当時、新聞紙上に採り上げられるなど話題となる。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科に入学。
*専検: 旧制の、専門学校入学者資格検定試験の略称
*第一高等学校: 旧制高校の一。明治10年(1877年)設立の東京大学予備門を前身とし、明治19年(1886年)第一高等中学校として開設。明治27年(1894年)3年制高校となり、第一高等学校と改称。昭和24年(1949年)新制東京大学の教養学部に統合。略称、一高。
1943年(昭和18年)3月、高等文官試験に合格し、同年に帝大(東大)を卒業、大蔵省に入省する。入省同期に、高木文雄、橋口収、谷川寛三など。入省後、主税局国税第一課に配属された。この時の課長は池田勇人であった。
しかし、入省わずか5日目の1943年(昭和18年)に、海軍経理学校に短期現役海軍主計科第10期候補生として入校。 1944年(昭和19年)2月に同校を卒業し、3月1日第三南遣艦隊の主計中尉としてフィリピンに赴任。1945年(昭和20年)6月、満洲国大連海軍武官として陸上勤務に着く。
終戦により、ソ連軍の捕虜となり、1947年(昭和22年)3月まで大連の捕虜収容所で過ごし、4月に大蔵省に復帰、証券課事務官に任命される。以降、神戸税務署長を経て、国税庁直税部に配属。
1955年(昭和30年)、第2次鳩山内閣が成立により、鳩山一郎首相秘書官に抜擢される。
1956年(昭和31年)12月の鳩山内閣総辞職に伴い、大蔵省に復帰。
1962年(昭和37年)、大蔵省主税局税制第一課長になり、翌昭和38年度の所得税法改正案作成の責任者となるが、国会に改正案提出後に税率表の数値に誤りがあったために辞表を提出したが、この処理を巡って田中角栄大蔵大臣は「そんなことで辞表を出さなくていい」と言い、堂々と自身が責任を取る形で国会で訂正を表明する一方で野党とマスコミに裏で手を回して問題紛糾を押さえた処置に惚れ込む。
1965年(昭和40年)、広島国税局長となり、1966年(昭和41年)2月に大蔵省を退官。
政治家として
1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙に滋賀県全県区から堤康次郎の後継者として立候補し、初当選。
以後、10期27年に亘って衆議院議員を務める(当選同期に増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など)。佐藤派→田中派に所属する。
1972年(昭和47年)、当選2回にして第1次田中角栄内閣の内閣官房副長官に抜擢された。
1978年(昭和53年)12月の第1次大平内閣の防衛庁長官として入閣。
1979年(昭和54年)7月には、防衛庁長官としては初の韓国訪問を果たし防衛協議を行った。
一時は田中角栄も、山下元利を竹下登に対抗するリーダーに育てようと、秘書の早坂茂三に命じてわざわざ個人事務所も作らせたが、人が訪れないと知ると手を引いた。後に早坂は、山下を未完の大器と評した。田中角栄は、苦学で帝大に入学した山下に憧れ、「山下君のようになりたかった」とよく言っていたという。
1987年(昭和62年)、田中派が分裂すると、田中角栄に反旗を翻した竹下登ら経世会と袂を分かち、二階堂進、江崎真澄らと行動を共にする。後に1人になっても最後まで派閥に残り、「最後の田中派」と呼ばれた。
1989年(昭和64/平成元年)、竹下登後継の総裁選候補者選び(竹下裁定)では、亀井静香ら竹下派主導の派閥政治に批判的な議員に推され、本人も意欲を示したが、二階堂の反対で総裁選立候補を断念した。
田中角栄が亡くなった3ヶ月後の1994年(平成5年)3月14日、後を追うように死去。73歳だった。
自らの最年少専検合格を伝える地元紙記事の切抜きを手帳にはさんで常時持ち歩いていたが、決して人に見せることはなく、最期の日まで大切にしていたという。
<Wikipediaより>