八ヶ岳
昨年夏(2014年8月)『第17回富士見高原 詩のフォーラム』第二部記念公演の男声合唱メンバーとして、演奏させていただいた。会場は、富士見町高原のミュージアム(長野県諏訪郡富士見町)である。JR中央線「富士見駅」から徒歩3分の場所にある。
学生時代にこの組曲を初演したことから、40年ぶりに、詩人:尾崎喜八ゆかりの地で、同窓35名が全国から集まり、演奏することになった。演奏した組曲は、男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」作詞:尾崎喜八 作曲:多田武彦。この組曲の「存在」が、40年の時を超え、「富士見町での出逢い」に繋がり、音楽を通じて得ることができた様々な「経験」を今もさせていただいている。感謝。
「存在」 ~ 自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より ~
しばしば私は立ちどまらなければならなかった。
事物からの隔たりをたしかめるように。
その隔たりを充填する
なんと幾億万空気分子の濃い渦巻き。
きのうはこの高原の各所にあがる野火の煙をながめ、
きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。
十日都会の消息を知らず、
雲のむらがる山野の起伏と
枯草を縫うあおい小径(こみち)と
隔絶になって谷間をくだる稀な列車と・・・・・・
ああ たがいに清くわかれ生きて
遠くその本性と運命とに強まってこそ
常にその最も固有の美をあらわす事物の姿。
こうして私は孤独に徹し、
この世のすべての形象に
おのずからなる照応の美を褒め たたえる。
【自註】
もうここでは私は富士見に来ている。別荘のありかは長野県諏訪郡富士見町、中央線の富士見駅から北々西へ徒歩で約十五分のところである。終戦の翌年の秋十月、山も原野も森も耕地も、すべてが彼らの在るべき場所に広々と静かに横たわって、見渡すかぎり混乱もなければ紛糾もない。あるのはそれぞれの形象のまぎれもない存在感と、互いの個性の照らし合いの美だけである。それは新たに生きることを願いとする私の理想の世界だった。
「たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ」の一句には、これもまた東京を去って岩手県花巻の田舎に一人住んでいる高村光太郎へのたよりの意味も含まれている。
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