「孤独」は独りでいる状態のことで、「孤立」は人とのつながりが切れている状態のことを言います。孤独は自ら選ぶことができますが、「孤立」は自ら選んだわけではなく、集団から切り離されてしまっている状態です。
「孤独」ではあっても、いざとなれば、誰かが駆けつけて援助の手を差しのべてくれる状態にあるとき、人は孤独であることに耐えることができますし、むしろ孤独な状態を心地良く感じる場合もあり、「孤独」な時間を求める場合もあります。
しかし、「孤立」というのは、たくさんの人に囲まれていながらも、誰ともつながりがない状態ですから、望まないのに「孤独」な状態にさせられ、なかなか耐え難い苦しさがあるものと思われます。「孤独」が「孤立」に移行することはあっても、「孤立」から「孤独」に移行することはありません。私たちは、「孤立」を怖れる一方で、「孤独」に耐えうる能力の程度に応じて他者を愛することができるとも言われています。
では、孤独でいられる能力、独りでいられる能力とはどのように培われるものなのでしょうか。「ひとりでいられる能力」というのは、イギリスの児童精神科医のウィニコットが、幼児と母親の行動を観察することから発見した能力です。「怖くなったらすぐ母親が助けに来てくれる。母親のところへ戻れば自分は安全である。」これを基本的信頼感といいます。この基本的信頼感があるからこそ幼児は、親が何をしているかには注意を払わず、「ひとり遊び」が出来るようになって行くのだということを発見したのです。
つまり、人間に対する信頼が根底にある人が、孤独に耐えられる能力があるわけなのです。見かけは、独りでいる状態でもその気になれば、親しい人や仲間とつながっている状態にあるとき、人は「孤独」ですが「孤立」はしていません。だから耐えることができるのです。しかし、見かけは、大勢の人と一緒にいても、心のつながりがない場合は、「孤独」ではないかもしれませんが、「孤立」しています。「孤立」は一種の「ひきこもり」状態です。周囲の人に心を開かないとなかなか「孤立」状態からは抜け出せません。「孤独でいられる能力」は、「他者に依存しない生き方」でもあります。
私は私のために生きている
あなたはあなたのために生きている
私はあなたのために生きているわけではありません
あなたもまた私のために生きているわけではありません
私は私
あなたはあなた
けれど私たちの心がたまたま触れ合うあうことがあれば
それに越したことはありません
たとえ心が触れ合うことがなくても
それはそれで仕方のないことです
(フレデリック・S・パールズ「ゲシュタルトの祈り」)
「孤独」ではあっても、いざとなれば、誰かが駆けつけて援助の手を差しのべてくれる状態にあるとき、人は孤独であることに耐えることができますし、むしろ孤独な状態を心地良く感じる場合もあり、「孤独」な時間を求める場合もあります。
しかし、「孤立」というのは、たくさんの人に囲まれていながらも、誰ともつながりがない状態ですから、望まないのに「孤独」な状態にさせられ、なかなか耐え難い苦しさがあるものと思われます。「孤独」が「孤立」に移行することはあっても、「孤立」から「孤独」に移行することはありません。私たちは、「孤立」を怖れる一方で、「孤独」に耐えうる能力の程度に応じて他者を愛することができるとも言われています。
では、孤独でいられる能力、独りでいられる能力とはどのように培われるものなのでしょうか。「ひとりでいられる能力」というのは、イギリスの児童精神科医のウィニコットが、幼児と母親の行動を観察することから発見した能力です。「怖くなったらすぐ母親が助けに来てくれる。母親のところへ戻れば自分は安全である。」これを基本的信頼感といいます。この基本的信頼感があるからこそ幼児は、親が何をしているかには注意を払わず、「ひとり遊び」が出来るようになって行くのだということを発見したのです。
つまり、人間に対する信頼が根底にある人が、孤独に耐えられる能力があるわけなのです。見かけは、独りでいる状態でもその気になれば、親しい人や仲間とつながっている状態にあるとき、人は「孤独」ですが「孤立」はしていません。だから耐えることができるのです。しかし、見かけは、大勢の人と一緒にいても、心のつながりがない場合は、「孤独」ではないかもしれませんが、「孤立」しています。「孤立」は一種の「ひきこもり」状態です。周囲の人に心を開かないとなかなか「孤立」状態からは抜け出せません。「孤独でいられる能力」は、「他者に依存しない生き方」でもあります。
私は私のために生きている
あなたはあなたのために生きている
私はあなたのために生きているわけではありません
あなたもまた私のために生きているわけではありません
私は私
あなたはあなた
けれど私たちの心がたまたま触れ合うあうことがあれば
それに越したことはありません
たとえ心が触れ合うことがなくても
それはそれで仕方のないことです
(フレデリック・S・パールズ「ゲシュタルトの祈り」)