前段で人の話を聞く態度について述べた。
先輩が自分のために会ってくれているのに、スマホいじったり、何か手を動かして落ち着かない態度。よくもできると思ったよ。“コミ症“”人見知り”で済まされるもんじゃない。
しかし私の目から鱗が落ちた人がこの方“前田裕二さん”。
ホリエモンを前にして、彼が話しているのに下を向いて何かをずっと書いている。
「目を見て話す、聞く」と習った私には何とも無礼に映ったものだ。
でも、よぉく考えてみた。
目を見るかどうかって相手に「聞いてますよ」アピールであって、自分の理解とは別な気がする。目を見ること、相手に表現することに集中し過ぎて、実際あまり頭に入ってないこともあったかもしれない。
京都の西芳寺(苔寺)は、現在観覧するのに予約が要る。そして写経をしなくてはならない。って言うか嫌なわけではなくそれも日常を忘れる爽やかな時間なのだ。
しかし考えることが好物な私にとって「無心」になると言うのは難しく“無心無心無心”と頭の中一杯にするのは苦痛だった。
全く無心でなかった。
つまり、“聞かなきゃ聞かなきゃ聞かなきゃ”な訳ですよ。
ホリエモンは頭の回転のよい人、先ず疑問に思っただろうがそこにすぐ気付いたのだね。
それが分かったから、前田さんの聞く態度には言及せず、逆に見直していたのがさすがだなと思ったよ。
日本の教育って画一的で「ここに合わせなさい」って感じで、しかも幅が狭いんだよね。
私は自我の発達が早く、かつ成績はよかったから“変わった子、扱いづらい子、協調性ない子”って言うレッテル張られて、本当に窮屈な思いをしたまま成長した。
「私のやり方で何が悪い!」ってほどの強さはなかったから口数少なく大人しく“大人の要求する子供”らしくしていた。
その分冷静に大人を観察し、分析し、教師や親さえ尊敬できずに実は見下していたように思う。
人から見てどうかってことは好感持たれるために非常に大事だ。
笑顔で「うんうん」「そうなんだ」相槌うちながらじっと見られると理解してもらってる風だけど、実際たいした理解はしていない。(ホリエモンにはバレるだろうけどね)
それはそうなんだけど、そのテクニックがあれば自分の仕事もどんなに楽で疲れないか、ストレス溜め込まないかって思うんだ。
他人事なのにいつも私の心は疲弊している。