「葉々起清風」
前大徳 大道師
相送当門有脩竹
為君葉々起清風
あい送って門に当たれば脩竹有り
君が為に葉々(ようよう)清風を起こす
虚堂禅師送別の句。
別れを惜しみ門まで見送りに出る。
すると門前の竹の葉がそよそよと風に鳴り
旅立つ君に清涼なる餞別を送っていた。
清らかな直心と直心の交わりである。
(『茶席の禅語大辞典』より)
今の季節にぴったりの清々しい言葉で
毎年初風炉の頃に掛けて
楽しんでいます
ところで
ふと思ったのですが・・・
「葉々清風を起こす」って
何だか反対のような気がしません?
屁理屈を言うつもりは無いですが
”葉が風を起こす”
わけではないですよね・・・
本当は
「風が吹いて葉を動かす」
ということですよね
それを敢えて
「葉々清風を起こす」
と詠うのは
それが単に文学的表現として
美しいからでしょうか
しかし
あらためて考えてみると
もしかしたら
風が葉を揺らすのと同時に
葉が動いて清風が生起する
というのが真理のような気もします
つまり
「風」と「葉」の
どちらかが主であり一方が従である
という関係でなく
風と葉が一体となって
溶け合っているというような。。。
なんだか上手く表現できませんが
お茶の亭主と客の間も
この風と葉のような在り方であったら
きっと素晴らしいのだろうなあ・・・
と思いました
「薫風自南来」
前大徳紹尚師
運び 濃茶
通常の稽古では
いつもこの茶入を使っています
稽古用の安価な茶入ですけれど
15年以上使い続けていると
どことなく味わいが出てきたようにも感じます
そして
稽古の時によく思うのですが
同じ茶入なのに
使う人によって
仕服の着せ方に微妙な違いがあって
その人の個性や
時にはその日の気分や体調などまで
感じられるようで面白いです