空き家問題を考える視点が決まったような気がする。
200年後、日本の人口は、江戸時代と同じ3000万人になっている。三浦半島を歩いていたハイカーが、鬱蒼と茂る森の地面のなかに、何か柱のようなものを発見した。掘り起こしてみると、人の住まいの残骸のようである。そうか、ここには、以前、人が住んでいたのか。
手元のコンピュータで検索してみると、200年前のストーリービューがあった。確かに、この場所には住宅が立ち並んでいた。それが空き家になり、朽ち果て、そして自然に帰ったのだった。
空き家問題が喧伝されるが、こうした空き家の自然回帰が、スムーズに、かつ軋轢なく進めば、何の問題もない。あえて無理やり税金をつぎ込んで空き家を延命する必要もないし、まして、ヘルメットをかぶった大人が、ものものしく代執行文書を読み上げ、「かかれ」との号令のもと、朽ちた空き家に一斉に突入する必要もない。
いつかは自然に帰っていくのが、かたちある物の運命ならば、空き家についても、同じように、ゆっくりと穏やかに対峙する道もあるのではないか。空き家対策法ができて、法が定める勧告、命令、代執行という行政法的手法が、空き家対策の王道のように思われがちであるが、人々の日々の暮らしのほうから考えていくと、ゆっくりではあるが、穏やかで地道な解消に向かう、もう一つの空き家対策が見えてくる。
これは、ひらがなの「まちづくり」から空き家問題を考えるということである。まちづくりとは、行政だけでなく、個々の市民、自治会・町内会、NPO、事業者や企業が、日々の暮らしの中で、身近なところから、住みやすいまちを創っていく営みであるが、空き家問題も、本来、その営みで解決されていくべきものだと思う。
さて、続きがうまく書けるのか