愛情の表現は人それぞれ

2013-05-13 10:47:11 | 魂と心の成長

■ 愛情の表現方法は人それぞれ

子供の頃、妹は母親がいないとすぐにお腹を壊す子供でした。それは赤ちゃんの頃からで…愛情飢餓状態の子供であることは、大人ならばすぐにわかり、大人にそれが分かるからっていう理由で、4つしか年上でない姉の私にも分かった。

つまり、妹にとっては、泣くか、病気になる、ということが、「愛されたい」という表現の常套手段でした。

 妹の基本テーマ: 「私に構って。そして甘やかして」

ところが…自分を振り返って見ると、全く正反対。

 私の基本テーマ:「私に構わないで。ただ困った時助けて」

私は初孫だったので、content child(愛情に充足した子供)でした。双方の祖父母が孫争奪戦を繰り広げる。だから、生まれたタイミングがたった4年、早かったというだけで、初孫だった子供にとっては愛情の表現である独占欲、所有欲は「ウザイ」ものでした。

赤ん坊であった私には、所有欲で表現された愛情というのは、喜びよりもむしろ、「小迷惑」でした。特に私は皮膚が弱く、むずがる子供だったのにあっちこっちに引きづり回されたり、飾り立てられたりするのは嫌だったんですね。というわけで今でも、服を着せられている犬とか見ると気の毒に・・・(笑)

その他、私が深く知る人で言えば、母の愛情表現といえば「要求すること」でした。「アレして、コレして」。母は一人っ子のおばあちゃん子。その帰結として、母にとっては「愛される」ということは、「アレコレして」と頼めば、やってもらえる。 愛し返される、という体験になったのでしょう。だから子供にも同じことをしてしまうんですね。母が子供を3人ももった理由はといえば、「自分が一人っ子でさみしいかったから」でした。

■ 愛されたい形で愛してしまうもの?

・妹には、愛情を得たいという表現が、お腹を壊したり病気になったりして「自傷すること」。

・母には、愛するとは「要求すること」

・私には、愛情表現とは「成長への期待」

という具合に、人によって愛情の表現というのはそれぞれなのです。

人はおそらく、「自分が愛されたい方法」でしか、人を愛することができないのかもしれません。

つまり嫉妬深い人は、嫉妬されることで愛を感じ、所有されることで愛を感じる人は、相手を所有しようとし、要求してしまう人は要求されることで愛を感じる。

■ 自分の形を知る

男性は、妻になる女性に、母親と同じタイプを選んでしまうことが多いのだそうです。母親が勝ち気な女性だったら、勝気な女性を。従順でついていく女性であれば、従順な女性を。男性にとっては母親は理想の女性像…というのは、万国共通の現象らしい。

そして、女性はというと、父親や男の兄弟がいない家庭で育った女性ほど、夫となる人の理想が高くなるのだそうです。

夫は二男の末っ子。家事をしている母親の脇で、満足をして一人遊びをしている小さな少年の姿が目に浮かびます。だから夫にとっては
愛されるということは、そばに置いておかれ、かつあまり干渉されないことでしょうね。 夫にとっては妻が自分のライフスタイルを持ち、
そのライフスタイルに便乗する形でありながら、あまり干渉されないで自分の好きなように時間が使える、というのが心地よい
スタイルなのだろうと最近理解し始めました。

夫には、世話をしてくれる人が必要ですが、それは「味噌汁だったら○○でないとヤダ」とかそういう一昔前の亭主関白タイプではありませんが、たとえば、休日に何も提案しなければ、夫は一日ソファの片隅に座って一日を終えてしまうでしょう。 いつごろランチにするか、散歩に行くか、買い物に行くか、夕涼みするか、など、一日のアクティビティを回す、学校のチャイムのような役割を果たす人が必要なのです。 出ないと際限なくパソコンにのめり込んでいき、たぶんオタクの中でもかなり先鋭的なオタク、気持ちの悪い人に成長してしまいそうです…

■ 重要なのは一致

しかし、愛情と言うのは、愛される側、愛する側、両方にとって、愛情表現がきっちり愛情の表現だと理解されることがもっとも大事です。

愛されても、「愛されている実感」と一致しないと愛されていると感じられない。

たとえば、独占することが愛情表現の一つの形である人は多いです。ところが、独占を嫌う人にとっては愛されている実感にはならない。

基本的にどんなコミュニケーションも成否は相手が決めます。だから、こちらがいくら自分の愛し方で愛しても、相手が「愛されている」という実感がなければ、コミュニケーションとしては失敗なのです。

私は「その人の所有欲や独占欲ではなく、私自身のためを思ってくれるか?」で愛情を図るので、私が人を愛するときは物理的な近さにはこだわらず、相手にとって「真に必要なこと」や「成長」に照準を合わせます。それが私の愛の形。

それは「一緒にはいなくてもいい」ということになり、独占されることが愛情だと考えるタイプの人にとっては「本当に愛されているのかな」と感じさせることになります。だから、独占されることが愛情と思うタイプの人は私には合わないですね。

でも、私はその人のことを常に心のどこかに置いておくことが愛情だと思っているから、物理的に一緒に居なくても心が一緒ならいいのでは…と思うのですよね。その原点は、母親が仕事に出かけていくために留守番していた子供です。

人の意思に関わりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすること、をパターナリズム(父性主義)と言いますが、私はパターナリズム、やらされてもやっても大嫌い…なのは、私が父親不在で育ったからかもしれません。言葉を掛けることなく、ひっそりと何かをやってくれても有り難いとは思わない。むしろ言葉にしてもらうほうが大人を感じさせます。

私にとっては”愛される実感”というのは、先生みたいなものです。私を成長させてくれるもの。というか、私が子供時代にメインに得ていた愛情の入手先が単純に先生たちだったのかもしれませんが。

私自身は相手をどういう形で「愛そう」とするのか?というと、たぶん「自立」です。まぁよく可愛くないと言われますけど仕方ないですね。
私が早く大人になりたいと思ったのは、「早く大人になって母に楽をさせてやろう」と思った、つまり、愛したため、なのですから。

自立を基礎的な価値観にしている私にとっては 頼る、というのは、かなり心を許した相手にのみ可能なことです。人に気軽に頼みごとが出来る人ってすごいな~といつも思います。私には頼み事はかなり大変な作業です。依存が怖い。依存への恐怖と言うのは、ある意味、もう偏執となっています・・・なぜなら、依存した結果、代替え手段がないと、ネガティブな結末まで運命共同体だからです。

愛情の表現ということ一つをとっても、人と人のコミュニケーションと言うのは本当に難しいものですね。 人生とは学ぶことばかりです。

 


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